第19話 見えないもの
命紋のことを知ってから、数日が経った。
その間、エルナは一度も魔法を使っていない。水に触れても冷やさない。空を見ても、雪を降らせようとはしない。
使えば、命紋が進む。一度進んだものは、戻らない。
そう知ってしまうと、前のように何も考えず試してみる気にはなれなかった。
それでも。
「今日はやる?」
朝食を片づけているロザリーへ、エルナは聞いた。
「何を?」
「魔法」
ロザリーが振り返る。
「ずっと使っちゃ駄目ってことじゃないんでしょ?」
「ええ」
「自分が何してるかわからないと危ないって言った」
「言ったわね」
「じゃあ、知らないと」
ロザリーは少しだけ目を細めた。それから、洗っていた器を布の上へ伏せる。
「そうね」
ようやく返ってきた言葉に、エルナは顔を上げた。
「やる?」
「でも、今日は雪を降らせないわよ」
「……なんで?」
「その前に知ることがあるから」
まただった。
エルナは少しだけ口を尖らせた。
*
ロザリーが机の上に置いたのは、二つの石だった。
どちらも川辺で拾ったような、丸い灰色の小石。一つは何の変哲もない石で、もう一つは淡い灰色の奥に柔らかな光を宿している。
「魔石」
「そう」
「これを作る練習?」
「今日は作らないわ」
「じゃあ何するの?」
ロザリーは二つの石を手に取った。
「見ないで、違いがわかる?」
「見なかったら?」
「そう」
魔石は、見ればわかる。普通の石とは違う艶があり、内側に光がある。
ロザリーは二つの石を布で包み、エルナの前へ置いた。
「目を閉じて」
「うん」
エルナは目を閉じた。
右の石へ手を伸ばす。布越しに触る。硬い。丸い。少しひんやりしている。
「……石」
ロザリーが小さく笑った気配がした。
「それは、どちらもそうね」
「わかんない」
「じゃあ、もう一つ」
左へ触れる。同じように硬い。同じように冷たい。
「こっちも同じ」
「そう」
「見ないと無理じゃない?」
「最初はね」
ロザリーの声は急かさない。
「今度は、触った感じを探すんじゃなくて、自分の中にあるものを意識してみて」
エルナは眉を寄せた。
「中?」
「あなたが魔法を使った時、何か感じなかった?」
雪が降った日のことを思い出す。
水へ触れた時、身体の奥から指先へ何かが流れていくような感覚があった。雪が降り続けたあとには、身体がひどく重くなった。
「……減った感じ」
「何が?」
「わからない。でも、何か」
「それが魔力よ」
エルナは目を開けた。
「それが?」
「ええ」
ロザリーは自分の胸元へ軽く手を置いた。
「身体の中にあって、魔法を使えば減る。使わずに休めば、また戻る」
「命紋は?」
「戻らない」
すぐに返ってきた。
エルナも胸元へ手をやる。
「魔力が戻っても?」
「ええ。魔力を使って疲れた分は休めば回復する。でも、魔法を使ったことで命紋が進んだ分は戻らないわ」
「別なんだ」
「別よ」
エルナは少し黙った。
疲れたから命が減ったのではない。疲れがなくなったから、使った命まで戻ったわけでもない。
「じゃあ、魔力がいっぱいあっても、魔法いっぱい使ったら死ぬ?」
「そうね」
「……嫌だね」
「ええ」
ロザリーはあっさり頷いた。
エルナは布に包まれた石へもう一度触れた。
「こうやって魔力を感じるだけでも、命紋は進む?」
「いいえ」
「進まない?」
「感じているだけなら、魔法を使っているわけではないもの。自分の魔力を動かして、何かへ働きかけるのとは違うわ」
「じゃあ、これはやっても平気?」
「疲れるほど必死にやらなければね」
「疲れることあるの?」
「慣れないうちは、集中しすぎれば頭が疲れることくらいはあるわ」
それなら、覚えてもいい。
エルナはもう一度目を閉じた。
*
今度は、自分の内側へ意識を向ける。
すぐには何もわからなかった。心臓が動いている。息をしている。指先が布へ触れている。それだけだった。
「わかんない」
「急がなくていいわ」
ロザリーの声が聞こえる。
「魔法を使おうとしなくていい。ただ、雪を降らせた時にあったものを思い出して」
エルナは、あの日を思い出す。冷たくなった水。白い息。身体から抜けていった力。
その時、ほんの少しだけ、胸の奥から指先まで続いているような何かがある気がした。
「……これ?」
「何か感じる?」
「たぶん」
「それでいいわ」
その感覚を忘れないようにして、右の石へ触れる。
何もない。いや、何もないというより、ただそこに石があるだけだった。
左へ触れる。
「……あ」
「わかった?」
「こっち」
エルナは左の石へ指を置いたまま言う。
「何かある」
「どんなふうに?」
「わかんない」
「温かい?」
「違う」
「冷たい?」
「それも違う」
「音は?」
「しない」
「匂い?」
「しない」
エルナは少し困った。
「でも、ある」
「そう」
「ここに、何かがある」
目を開ける。
ロザリーが布を外した。左側にあったのは魔石だった。
「これが魔力?」
「ええ」
エルナは魔石を見る。
今までは、ただ光る石だった。ロザリーが力を入れた石。
けれど一度意識すると、見えている光とは別に、そこに何かがあるような気がする。
「こんなの、前はわからなかった」
「意識していなかったもの」
「知ったらわかるようになる?」
「少しずつね」
エルナは魔石を持ち上げた。
「これ、ロザリーの魔力?」
「この石へ入れたのは私の魔力よ」
「じゃあ、触ったらロザリーのだってわかる?」
ロザリーは首を振った。
「そこまではわからないわ」
「違いないの?」
「魔女によって、魔力に得意な性質が出ることはある。でも、魔力を感じただけで、誰のものなのかまでわかるわけではないの」
「そっか」
「あなたと同じような力を持つ魔女がいたら、似た感じ方をすることだってあるかもしれない」
「私みたいな魔女、いる?」
「それも、まだわからないわね」
また、わからない。
けれど今度は、それほど不満ではなかった。
*
「今度は外へ行きましょうか」
「外?」
「石じゃなくて、周りの魔力を感じてみるの」
家を出ると、朝の森にはまだ少し湿り気が残っていた。昨夜降った短い雨が、葉の先に小さな雫を残している。
鳥が鳴いている。少し離れた沢から、水の音も聞こえた。
ロザリーは家から少し離れたところで足を止めた。
「ここでいいわ」
「何すればいい?」
「さっきと同じ。今度は石じゃなくて、周りへ意識を向けてみて」
エルナは目を閉じた。
風の音。葉が擦れる音。湿った土の匂い。木の皮の匂い。頬へ当たる空気。
「音ばっかりする」
「それは耳で聞いているでしょう」
「じゃあ聞かないようにするの?」
「聞こえていていいの。その中に、それとは別のものがあるか探してみて」
難しい。
エルナは眉を寄せた。
少し待つ。
何もない。
もう少し待つ。
さっき魔石へ触れた時と同じように、そこにあるか、ないか。それだけを考える。
ふと、何かが身体の周りにあるような気がした。
肌へ触れているわけではない。風でもない。
けれど、確かにある。
「……ある」
エルナは目を開けた。
「どこに?」
「わかんない」
「そう」
「ここ」
周囲を見回す。
「森の中?」
「森にもあるわ」
「空気にも?」
「ある」
「ずっと?」
「ずっと」
エルナはもう一度意識を向ける。
薄い。さっきの魔石ほどはっきりしていない。何か一つの場所から出ているのでもなかった。
「全然知らなかった」
「普通は、いちいち意識しないもの」
ロザリーは近くの木へ手を触れた。
「一度覚えても、慣れればまた気にしなくなるわ。必要な時だけ意識するようになる」
「じゃあ遠くの魔力もわかる?」
「強ければ気づくことはあるわね」
「魔獣がいたら?」
ロザリーが少しだけ笑った。
「そんなに便利ではないわ」
「わかんないの?」
「魔力があると感じたからといって、それがどこにあるのか、何の魔力なのかまで全部わかるわけではないもの」
「近くても?」
「近ければ気づきやすくはなる。でも、石なのか、生き物なのか、魔道具なのか。感じただけで全部わかるとは限らないわ」
「じゃあ、探すのには使えない?」
「まったく使えないわけではないけれど、それだけを頼りにはできない、くらいね」
エルナは森を見る。
木々の向こうに何があるのかは、今までと同じように見えない。
魔力を感じられるようになったからといって、急に森の中が全部わかるようになったわけではなかった。
「みんな、これわかるの?」
「みんな?」
「村の人とか」
「普通の人には、こういうふうにはわからないわ」
「魔女なら?」
「たいていは感じられる。でも、どのくらい感じるかも、そこから何を読み取れるかも、それぞれ違うわ」
「じゃあ、ロザリーが森のこといっぱいわかるのも、これ?」
「同じではないわ」
「違うの?」
「あなたは今、この森に魔力があることはわかったでしょう?」
「うん」
「じゃあ、あの木の根がどこまで伸びているかわかる?」
ロザリーが近くの大木を指す。
エルナは見た。
「わかんない」
「少し離れたところに、土の中を流れる水がある。わかる?」
「……わかんない」
「森へ誰かが入ってきたら?」
「見えないと無理」
「私は、その辺りまで拾えることがあるの」
エルナはロザリーを見る。
「なんで?」
「この森と相性がいいから」
「魔法?」
「私の力の一部、と言った方が近いかしら」
「私もできる?」
「同じことは、たぶんできないわ」
「なんで?」
「あなたは私じゃないもの」
あっさり言われた。
エルナは少し考える。
「魔女って、みんな違うんだっけ」
「ええ」
「じゃあ私は何ができる?」
「それをこれから知るのよ」
「雪」
「まだ決めるには早いわね」
「またそれ」
ロザリーが笑った。
*
家へ戻ると、エルナは机に残されていた魔石をもう一度見た。
「そういえば」
「なに?」
「前に、普通の魔石って言ったよね」
ロザリーが少し考える。
「ああ」
「普通じゃないのもあるって」
「覚えていたのね」
「気になってた」
「なら聞けばよかったのに」
「その時、ロザリー説明してくれなかった」
「そうだったかしら」
「そうだよ」
エルナは机の魔石を指差した。
「これが普通?」
「ええ」
「じゃあ、普通じゃない方は?」
「待っていて」
ロザリーは壁際の棚へ向かった。
上段に置かれていた小さな木箱を下ろす。中から取り出した石を見た瞬間、エルナには違いがわかった。
「あ」
形そのものは、普通の魔石と変わらない。
丸い石。
けれど、淡い灰色の奥に緑が混じっていた。柔らかな緑の光。その中を、さらに濃い細い線が走っている。
枝にも、葉脈にも、地面の下へ伸びる根にも見えた。
「違う」
「でしょう?」
「緑」
「ええ」
エルナは顔を近づけた。
「模様もある」
「それが特性魔石よ。特性石と呼ぶ人もいるわね」
「とくせいませき」
石の中で揺れる緑の光を見る。
「なんでこんな色になるの?」
「魔女の得意な力の性質が、石へ強く残ることがあるの」
「ロザリーが森の魔女だから?」
「そう考えていいわ」
エルナは石へ触れた。
普通の魔石より、魔力そのものが強いわけではない。
でも。
「……ちょっと違う」
「わかる?」
「さっきのと、同じじゃない感じ」
「そのくらいで十分よ」
ロザリーは石を受け取ると、窓辺へ向かった。そこには、小さな鉢がいくつか並んでいる。
エルナも後を追った。
一つの鉢には、まだ細い苗が植えられている。
ロザリーはそのそばに、緑の特性魔石を置いた。
「これ、何するの?」
「根づくのを少し助けるの」
「石が?」
「ええ。急に大きくなるわけではないけれど、弱い苗が根を張りやすくなる」
エルナは苗と石を交互に見る。
「魔法?」
「この石に残った、私の力の性質ね」
「ずっと?」
「中の魔力がなくなるまで」
「ほかにもある?」
「あるわよ」
今度はロザリーが炉の近くを指した。
石造りの端に、別の魔石が置いてある。同じように緑が混じっているが、模様は少し違った。
「あれも?」
「特性魔石」
「何するの?」
「火を使う時に、余分な熱を少し受け止めてくれるの。夏は特に助かるわね」
エルナは炉のそばへしゃがんだ。
何度も見ている石だった。今までは、そこに置いてある理由まで考えたことがなかった。
「植物のと違う」
「同じものではないから」
「ロザリー、いろんなの作れるの?」
「何でも、ではないわ」
ロザリーは首を振る。
「私の力と関係のない性質を、好きに石へ入れられるわけではないもの」
「じゃあ、森に関係あるものだけ?」
「そういうものが多いわね」
「この石、売らないの?」
窓辺の緑の石を見る。
「これは、家で使うために作ったものよ」
「家でも使うんだ」
「ええ」
ロザリーは苗の葉へ指を触れた。
エルナは、その隣に置かれた緑の石を見る。
男たちへ渡すために作っている魔石とは違う。これは、ロザリー自身がこの家で使うために作ったものらしい。
「そっか」
*
「私の特性魔石もできる?」
少ししてから、エルナが聞いた。
「普通の魔石なら、練習すれば作れるようになるでしょうね」
「そっちじゃない」
「特性魔石?」
「うん」
ロザリーが少し笑った。
「それは、まだわからないわ」
「なんで?」
「あなた、自分の力が何なのかもまだよく知らないでしょう」
「冷たくする」
「それだけ?」
「……わかんない」
「なら、まだわからないわね」
「作ったら何色になる?」
「それも、できてみないと」
「ロザリーは緑なのに」
「私は私。あなたはあなたよ」
またそれだった。
エルナは少し口を尖らせる。
「特性魔石って、作ろうと思ったら作れるの?」
今度は、ロザリーが少し考えた。
「いつでも同じものができる、とは言えないわね」
「なんで?」
「その魔女がどれだけ自分の力を理解しているかにもよるし、石との相性もある。普通の魔石を作るより、ずっと簡単ではないの」
「ロザリーでも?」
「私でも」
「失敗する?」
「するわよ」
エルナは少し驚いた。
「ロザリーも失敗するんだ」
「失礼ね」
「だって、何でもできるから」
「できないことの方が多いわ」
「そう?」
「そうよ」
エルナには、まだあまりそうは思えなかった。
*
「じゃあ、今日はもう終わり?」
エルナが聞くと、ロザリーは少し考えた。
「一つだけ」
「雪?」
「降らせません」
「水?」
「水は使うわ」
ロザリーが小さな器へ水を入れ、机の上へ置く。
「ほんの少しだけ冷やしてみましょう」
エルナは器を見る。
「凍らせる?」
「そこまでしない」
「じゃあどれくらい?」
「触って、少し冷たくなったとわかるくらい」
「それだけ?」
「それだけ」
エルナは器へ手を伸ばしかけて、止まる。
「これでも命紋進む?」
「進むわ」
ロザリーは誤魔化さなかった。
「少しだけでも?」
「ええ」
「じゃあ、やらない方がいいんじゃない?」
ロザリーはすぐには答えなかった。
「今日は、使う意味があると思っているわ」
「なんで?」
「あなたは一度魔法を使い始めたら、自分で止められなかったでしょう」
雪の日。
嬉しくて見ていた。身体が重くなるまで、どう止めればいいのかわからなかった。
「また何かの拍子に力が出た時、止め方を知らない方が危ない」
「……うん」
「だから今日は、使い始めることより、止めることを覚えましょう」
エルナは器を見る。
命紋が進む。
それでも、使う。
必要だから。
「わかった」
*
水へ指先を触れる。
冷たい。
でも、雪の日ほどではない。
エルナは自分の中にある魔力を意識した。朝より少しだけ、わかりやすい。
そこから、ほんの少し。
水へ働きかける。
雪の日に感じたものを思い出す。水の中にある熱。それを、周囲へ逃がす。
指先の下で、水の温度が少しずつ下がっていく。
「エルナ」
ロザリーの声。
「止めて」
エルナは意識を切った。
力を抜く。
最初は、それだけでいいのかわからなかった。けれど、水はそれ以上冷たくならなかった。
ロザリーが指を入れる。
「うん」
「止まった?」
「止まったわ」
エルナも触れる。
少しだけ冷たい。氷にはなっていない。白い息も出ない。外も、何も変わっていない。
ただ、一杯の水が少し冷たくなっただけ。
「できた」
「ええ」
「私、止めた?」
「自分でね」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
雪を降らせた時とは全然違った。綺麗でもない。嬉しくて仕方がないわけでもない。
それでも、自分で始めて。
自分で止めた。
「もう一回やる?」
「今日は終わり」
「まだできる」
「できることと、今やることは別よ」
エルナは口を閉じた。
「ロザリー、それ好きだね」
「何が?」
「できることと、やることは別って言うの」
「大事なことだから」
「……そう」
今度は、それほど不満ではなかった。
*
夜。
寝床へ入ってから、エルナは目を閉じた。
静かな夜だった。鳥の声はもう少ない。窓の外で、葉がときどき揺れている。
意識を向ける。
今日、初めて名前を知ったもの。
魔力。
すぐにはわからない。
でも、少し待つ。
すると、薄く、本当に薄く、そこにある。
家の中にも。森にも。自分の中にも。
昼間の魔石ほど、はっきりしてはいない。場所を教えてくれるわけでもない。何があるのかを知らせてくれるわけでもない。
ただ、そこにある。
「……ずっとあったんだ」
小さく呟く。
昨日できたものではない。魔法が目覚めたから、世界に現れたわけでもない。
自分が知らなかっただけ。
エルナはしばらく、その感覚を確かめた。
それから、意識を離す。
魔力の感覚は、また背景へ沈んだ。
残ったのは、いつもの森の夜だった。




