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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
17/122

第17話 初雪


 翌朝、ようやく雨がやんだ。


 久しぶりに雲の切れ間が明るくなった朝、エルナは喜んで外へ出た。そして、すぐに後悔した。


「暑い」


 森へ入ってまだそれほど歩いていない。それなのに、首筋にはもう汗が滲んでいた。


「さっきも聞いたわ」


 少し前を歩くロザリーが答える。


「だって暑い」


「雨が続いたあとだもの。今日は湿気も多いわね」


 見上げれば、空にはまだ低い雲が残っている。森の奥には薄い霧も漂っていた。数日分の雨をたっぷり含んだ土から湿気が立ち上り、葉の先には大きな水滴が残っている。


 森は、生き返ったように瑞々しかった。


 ロザリーにとっては、ありがたい雨だったらしい。昨日も一昨日も、窓の外を眺めながら「よく降ってくれたわ」と何度か言っていた。


 エルナも雨が必要なのはわかっている。わかってはいるけれど。


「暑い」


「三回目ね」


「暑いもの」


「それも二回目よ」


 振り返ったロザリーが少し笑った。


「帰ったら冷たい水を飲みましょう」


「今飲みたい」


「もう少しだけ我慢なさい」


「はーい」


 エルナは渋々あとを追った。


     *


 家へ戻る頃には、髪の生え際までじっとりしていた。


 荷物を置くより先に、エルナは水瓶へ向かう。


「エルナ。手を洗ってから」


「あ」


「先に手」


「わかってる」


 言われた通りに手を洗い、改めて水を汲む。


 水瓶は日の当たらない場所に置いてある。中の水は外気よりずっと冷たかった。


 エルナは一気に飲んだ。


「おいしい」


「ゆっくり飲みなさい」


「冷たい」


「それはよかったわね」


 もう一杯。


 今度は器を両手で持ったまま、エルナは昨日まで読んでいた古い本を思い出した。


 雪。氷。吐く息が白くなるような寒さ。


 この水も冷たい。でも――。


「……もっと冷たかった」


「何が?」


 ロザリーが振り返る。


「雪の時」


 口にしてから、エルナは器の中を見る。


 冬の外気に触れた時の、鼻の奥が痛くなるような冷たさ。手袋を外して雪へ触れれば、最初は平気なのに、だんだん指先が痛くなる。


 あれは、こんなものではなかった。


「こんな感じじゃなくて……もっと」


 言葉を探した、その時だった。


 指先に触れていた器が、急に冷たくなる。


「っ」


 思わず手を離しかけた。水が少し揺れる。


「どうしたの?」


「冷たい」


「さっきからでしょう?」


「違う」


 エルナは器をテーブルへ置いた。


「急に、もっと冷たくなった」


 ロザリーが近づいてくる。


 器の外側には、さっきまでなかった細かな水滴が浮いていた。ロザリーが指先で触れる。


 その表情が変わった。


「……エルナ」


「なに?」


「これ、最初からこの温度だった?」


「違うよ」


「本当に?」


「うん」


 ロザリーは何も言わず、器の水へ指を入れた。しばらくして抜くと、眉がわずかに寄る。


「さっき、何をしたの?」


「何もしてない」


「何か触った?」


「これだけ」


「何を考えていた?」


 エルナは首を傾げる。


「雪」


「雪?」


「昨日の本の。雪の時って、もっと冷たかったなって」


 ロザリーが黙る。


 その顔は、怒っているわけではなかった。けれど、いつもの顔とも違う。森で何かおかしなものを見つけた時と同じ顔だった。


「手を見せて」


「手?」


「いいから」


 差し出す。


 ロザリーはエルナの手を取り、掌と指先を確かめた。


「痛いところは?」


「ない」


「気分は?」


「普通」


 そう答えた直後だった。


 エルナの掌の奥を、何かが通り抜けた。


 形はない。けれど、器の中にあったものが、自分の手を通って、どこか別の場所へ逃げていくような、不思議な感覚。


 次の瞬間。


 ぱき。


 小さな音がした。


 二人とも、同時に器を見る。


「……え?」


 水面の端に、薄い透明な膜ができていた。そこからゆっくり広がっていく。


「エルナ、離れて」


 ロザリーの声が変わった。


 エルナは一歩下がる。けれど、視線を外せなかった。


 透明な膜は水面を覆い、やがて動きを止める。


 エルナは知っていた。


「氷……」


 呟いた声が、自分でも驚くほど小さかった。


 ロザリーがエルナを見る。


「これが?」


「うん」


「水が固まったもの?」


「そう」


 昨日、古い記録を読んだばかりだ。


 河川の表面が凍結する。


 ロザリーには、文字でしか知らないものだった。


 でもエルナは違う。


 薄い氷も、厚い氷も、触れた時の冷たさも知っている。


「エルナ」


 ロザリーが静かに言った。


「もう、雪のことを考えないで」


「え?」


「今はいいから。力を抜いて」


「力なんて入れてないよ」


「それでも」


 ロザリーの声が少し強くなる。


「何も考えなくていいわ。ゆっくり息をして」


 言われた通りにする。


 けれど、何も考えないという方が難しかった。


 氷がある。自分が考えた通りの冷たさが、目の前にある。


 どうして。何をした。


 そんなことばかり考えてしまう。


「私がやったの?」


「たぶん」


「どうやって?」


「今は考えなくていいわ」


「でも――」


 その瞬間、ひやりと頬を撫でるものがあった。


 エルナは言葉を止める。


「……風?」


 窓は開いている。けれど、入ってくる風だけではない。


 部屋の空気そのものが変わっていた。


 さっきまで肌へまとわりついていた暑さが消え、腕には鳥肌が立っている。


 ロザリーも気づいたらしい。窓の外を見る。


「エルナ」


「なに?」


「ここにいて。動かないで」


 そう言って窓辺へ向かう。


 その時。


「……あ」


 エルナの口から白いものが出た。


 一瞬だけ。


 吐いた息が、白く曇った。


 胸が大きく鳴る。


 もう一度、息を吐く。


 白い。


「ロザリー」


「見えているわ」


 声が硬い。


 エルナは自分の両腕を抱いた。


 寒い。


 この世界へ来てから初めて感じる、本当の寒さだった。


 でも、知っている。


 身体が覚えている。


 冬だ。


 寒い朝だ。


 雪が降る前の空気だ。


「……知ってる」


 思わず呟いた。


「何を?」


「この寒さ」


 ロザリーが何か言おうとした、その時だった。


 窓の外で、白いものが落ちた。


 一つ。


 小さすぎて、最初は見間違いかと思った。


 また一つ。


 低く垂れ込めた雲の下。雨上がりの霧の中から、白いものがゆっくりと落ちてくる。


「ロザリー」


 エルナは窓へ近づいた。


「待って」


「でも」


 外を見る。


 濡れた葉のあいだから、細かな白が次第に数を増やしていく。


 ロザリーも窓辺まで来た。


 二人で見上げる。


 ロザリーは何も言わなかった。


 昨日、古い頁でしか知らなかったもの。何百年も前の記録にしか残っていないもの。


 それが今、目の前に降っている。


 やがてロザリーは、窓から片手を外へ出した。


 掌に、白いものが一粒落ちる。


 すぐに形を失い、水へ変わった。


 ロザリーは、その濡れた掌をじっと見た。


「……これが」


 小さく息を吸う。


「雪なの」


 エルナは頷いた。


「うん」


 それだけ答えて、扉を見る。


「外、行っていい?」


「待ちなさい」


 ロザリーは一度エルナを見た。


 迷う。


 それから、自分で先に扉を開けた。


「私から離れないで」


「うん」


 二人で外へ出る。


 冷たい空気が頬へ触れた。


 空から白いものが降っている。大粒ではない。風に揺れながら、ゆっくりと。


 葉に落ちる。濡れた地面へ落ちる。すぐに消えるものもあれば、少しだけ白く残るものもある。


 エルナは手を伸ばした。


 掌へ、一粒。


 白い結晶。


 触れた途端、輪郭を失い、水になる。


「……雪」


 声が震えた。


「これ、雪だよ」


 胸の奥が、ぎゅっとなる。


 懐かしい。


 その感情が一番近かった。


 もう二度と見ることはないと思っていたわけでもない。そもそも、この世界にないことすら昨日まで知らなかった。


 それなのに、目の前にあるだけでわかった。


 自分はこれを知っている。


「冷たい」


 ロザリーがもう一度手を出している。掌へ落ちた雪を、不思議そうに見ていた。


「本当に、触れれば消えるのね」


「うん」


「こんなものが、昔は空から降っていたの」


「いっぱい降る時もあるよ」


 地面を見る。


 少しずつ白が残り始めていた。


 草の先。木の根元。屋根の端。


 ほんの薄く、そこだけ別の世界になっていく。


     *


 いつの間にか、森が静かになっていた。


 エルナは息を止める。


 鳥の声がしない。葉を揺らす音も、いつもより遠い。雨上がりの水音さえ、小さくなった気がする。


 昨日、ロザリーに話したばかりだった。


 雪が降ると、静かになる。


「……ほんとだ」


「何が?」


「静か」


 ロザリーも耳を澄ませる。


 しばらくして、ゆっくり森を見回した。


「昨日、言っていたわね」


「うん」


 エルナは少し笑った。


「こうなるの」


 白いものが降る。


 世界が白くなる。


 音が遠くなる。


 澪だった頃、ずっと好きだった景色。


 それが今、自分の周りにある。


 嬉しかった。


 どうしてここにあるのかもわからないのに。ただ、嬉しかった。


「エルナ」


 ロザリーの声が聞こえる。


「ん?」


「顔色が悪いわ」


「え?」


 振り向こうとして、身体が揺れた。


「……っ」


 ロザリーがすぐに身体を支える。


「座って」


「平気」


「座りなさい」


 声に迷いはなかった。


 そのまま家の前の段差へ連れていかれる。


 腰を下ろした途端、急に身体が重くなった。走ったわけでもないのに、足にも力が入りにくい。


「なんか……疲れた」


 ロザリーがすぐに額へ手を当てる。次に脈を確かめ、手の冷たさを見る。


「寒い」


「わかっているわ」


 ロザリーの声は低かった。


「だから、もう何もしないで」


「でも何もしてないよ」


「それなら、そのままでいて。考えるのもやめて」


「考えるのも?」


「今は」


 エルナはロザリーを見る。


 いつもの穏やかな顔ではない。


 怖がっているわけでもない。けれど、本気で心配している。


 それがわかって、素直に頷いた。


「……うん」


 ロザリーはそのまま、しばらくエルナのそばを離れなかった。


 雪は少しずつ弱くなっていった。


 白い息も薄くなり、張りつめていた冷気がゆっくり緩む。


 雲の切れ間から日が差し、葉に積もった白が水へ変わっていく。


 ロザリーはそれを見上げたまま、長く息を吐いた。


     *


 しばらく休んでから、二人は家へ戻った。


 テーブルの上には、最初に凍った器が残っている。氷はもうほとんど溶けていた。


 ロザリーは椅子へ座り、その水面をじっと見る。


「私の魔法なの?」


 エルナが聞く。


「ええ」


 今度は迷わず答えた。


「あなたの力が目覚めたのだと思うわ」


「雪を降らせる魔法?」


「そう決めるには早いわね」


「違うの?」


「わからないの」


 ロザリーは器へ触れる。


「最初に起きたのは、水が冷えたことだった。次に凍った。それから、この辺り一帯の空気まで冷えた」


「それで雪が降った」


「ええ」


 少し考え込む。


「雪そのものを生み出したのか。それとも、空気や水を冷やした結果として、雪になったのか」


「違う?」


「ずいぶん違うわ」


 エルナにはよくわからない。


 けれどロザリーは何か大事なことを考えているようだった。


「今日はもう、絶対に試してはいけないわ」


「明日は?」


「明日も駄目」


「じゃあいつ?」


「その前に、話しておかなければならないことがあるの」


 声が少し低くなった。


 エルナは首を傾げる。


「魔法のこと?」


「ええ」


 ロザリーはそこで言葉を切った。


 少しだけ表情を緩める。


「でも今日は休みなさい。初めて使ったのだから」


「ロザリーも初めての時、疲れた?」


「疲れたわよ」


「何したの?」


「それはまた今度」


「気になる」


「元気になってからにしなさい」


「じゃあ元気になる」


「そういうものではないのだけれど」


 ようやく、ロザリーが少しだけ笑った。


     *


 夕方には、外の白いものはほとんど消えていた。


 いつもの森だ。


 濡れた土。緑の葉。雨上がりの湿った空気。


 それでもエルナには、さっきまでそこに雪があったことがわかる。


 玄関の前へしゃがみ込み、最後まで日陰に残っていた小さな白い塊へ、そっと触れた。


 冷たい。


 指先ですぐに崩れ、水になる。


 今では、古い記録の中にしか残っていなかったもの。


 ロザリーも見たことがなかった。


 今を生きる誰も、実際に目にしたことがないかもしれないもの。


 それが今日、自分の周りに降った。


 自分の力で。


 嬉しい。


 少し怖い。


 でも、何より不思議だった。


 エルナは濡れた指先を見る。


 その冷たさを、自分はずっと前から知っていた。




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