第17話 初雪
翌朝、ようやく雨がやんだ。
久しぶりに雲の切れ間が明るくなった朝、エルナは喜んで外へ出た。そして、すぐに後悔した。
「暑い」
森へ入ってまだそれほど歩いていない。それなのに、首筋にはもう汗が滲んでいた。
「さっきも聞いたわ」
少し前を歩くロザリーが答える。
「だって暑い」
「雨が続いたあとだもの。今日は湿気も多いわね」
見上げれば、空にはまだ低い雲が残っている。森の奥には薄い霧も漂っていた。数日分の雨をたっぷり含んだ土から湿気が立ち上り、葉の先には大きな水滴が残っている。
森は、生き返ったように瑞々しかった。
ロザリーにとっては、ありがたい雨だったらしい。昨日も一昨日も、窓の外を眺めながら「よく降ってくれたわ」と何度か言っていた。
エルナも雨が必要なのはわかっている。わかってはいるけれど。
「暑い」
「三回目ね」
「暑いもの」
「それも二回目よ」
振り返ったロザリーが少し笑った。
「帰ったら冷たい水を飲みましょう」
「今飲みたい」
「もう少しだけ我慢なさい」
「はーい」
エルナは渋々あとを追った。
*
家へ戻る頃には、髪の生え際までじっとりしていた。
荷物を置くより先に、エルナは水瓶へ向かう。
「エルナ。手を洗ってから」
「あ」
「先に手」
「わかってる」
言われた通りに手を洗い、改めて水を汲む。
水瓶は日の当たらない場所に置いてある。中の水は外気よりずっと冷たかった。
エルナは一気に飲んだ。
「おいしい」
「ゆっくり飲みなさい」
「冷たい」
「それはよかったわね」
もう一杯。
今度は器を両手で持ったまま、エルナは昨日まで読んでいた古い本を思い出した。
雪。氷。吐く息が白くなるような寒さ。
この水も冷たい。でも――。
「……もっと冷たかった」
「何が?」
ロザリーが振り返る。
「雪の時」
口にしてから、エルナは器の中を見る。
冬の外気に触れた時の、鼻の奥が痛くなるような冷たさ。手袋を外して雪へ触れれば、最初は平気なのに、だんだん指先が痛くなる。
あれは、こんなものではなかった。
「こんな感じじゃなくて……もっと」
言葉を探した、その時だった。
指先に触れていた器が、急に冷たくなる。
「っ」
思わず手を離しかけた。水が少し揺れる。
「どうしたの?」
「冷たい」
「さっきからでしょう?」
「違う」
エルナは器をテーブルへ置いた。
「急に、もっと冷たくなった」
ロザリーが近づいてくる。
器の外側には、さっきまでなかった細かな水滴が浮いていた。ロザリーが指先で触れる。
その表情が変わった。
「……エルナ」
「なに?」
「これ、最初からこの温度だった?」
「違うよ」
「本当に?」
「うん」
ロザリーは何も言わず、器の水へ指を入れた。しばらくして抜くと、眉がわずかに寄る。
「さっき、何をしたの?」
「何もしてない」
「何か触った?」
「これだけ」
「何を考えていた?」
エルナは首を傾げる。
「雪」
「雪?」
「昨日の本の。雪の時って、もっと冷たかったなって」
ロザリーが黙る。
その顔は、怒っているわけではなかった。けれど、いつもの顔とも違う。森で何かおかしなものを見つけた時と同じ顔だった。
「手を見せて」
「手?」
「いいから」
差し出す。
ロザリーはエルナの手を取り、掌と指先を確かめた。
「痛いところは?」
「ない」
「気分は?」
「普通」
そう答えた直後だった。
エルナの掌の奥を、何かが通り抜けた。
形はない。けれど、器の中にあったものが、自分の手を通って、どこか別の場所へ逃げていくような、不思議な感覚。
次の瞬間。
ぱき。
小さな音がした。
二人とも、同時に器を見る。
「……え?」
水面の端に、薄い透明な膜ができていた。そこからゆっくり広がっていく。
「エルナ、離れて」
ロザリーの声が変わった。
エルナは一歩下がる。けれど、視線を外せなかった。
透明な膜は水面を覆い、やがて動きを止める。
エルナは知っていた。
「氷……」
呟いた声が、自分でも驚くほど小さかった。
ロザリーがエルナを見る。
「これが?」
「うん」
「水が固まったもの?」
「そう」
昨日、古い記録を読んだばかりだ。
河川の表面が凍結する。
ロザリーには、文字でしか知らないものだった。
でもエルナは違う。
薄い氷も、厚い氷も、触れた時の冷たさも知っている。
「エルナ」
ロザリーが静かに言った。
「もう、雪のことを考えないで」
「え?」
「今はいいから。力を抜いて」
「力なんて入れてないよ」
「それでも」
ロザリーの声が少し強くなる。
「何も考えなくていいわ。ゆっくり息をして」
言われた通りにする。
けれど、何も考えないという方が難しかった。
氷がある。自分が考えた通りの冷たさが、目の前にある。
どうして。何をした。
そんなことばかり考えてしまう。
「私がやったの?」
「たぶん」
「どうやって?」
「今は考えなくていいわ」
「でも――」
その瞬間、ひやりと頬を撫でるものがあった。
エルナは言葉を止める。
「……風?」
窓は開いている。けれど、入ってくる風だけではない。
部屋の空気そのものが変わっていた。
さっきまで肌へまとわりついていた暑さが消え、腕には鳥肌が立っている。
ロザリーも気づいたらしい。窓の外を見る。
「エルナ」
「なに?」
「ここにいて。動かないで」
そう言って窓辺へ向かう。
その時。
「……あ」
エルナの口から白いものが出た。
一瞬だけ。
吐いた息が、白く曇った。
胸が大きく鳴る。
もう一度、息を吐く。
白い。
「ロザリー」
「見えているわ」
声が硬い。
エルナは自分の両腕を抱いた。
寒い。
この世界へ来てから初めて感じる、本当の寒さだった。
でも、知っている。
身体が覚えている。
冬だ。
寒い朝だ。
雪が降る前の空気だ。
「……知ってる」
思わず呟いた。
「何を?」
「この寒さ」
ロザリーが何か言おうとした、その時だった。
窓の外で、白いものが落ちた。
一つ。
小さすぎて、最初は見間違いかと思った。
また一つ。
低く垂れ込めた雲の下。雨上がりの霧の中から、白いものがゆっくりと落ちてくる。
「ロザリー」
エルナは窓へ近づいた。
「待って」
「でも」
外を見る。
濡れた葉のあいだから、細かな白が次第に数を増やしていく。
ロザリーも窓辺まで来た。
二人で見上げる。
ロザリーは何も言わなかった。
昨日、古い頁でしか知らなかったもの。何百年も前の記録にしか残っていないもの。
それが今、目の前に降っている。
やがてロザリーは、窓から片手を外へ出した。
掌に、白いものが一粒落ちる。
すぐに形を失い、水へ変わった。
ロザリーは、その濡れた掌をじっと見た。
「……これが」
小さく息を吸う。
「雪なの」
エルナは頷いた。
「うん」
それだけ答えて、扉を見る。
「外、行っていい?」
「待ちなさい」
ロザリーは一度エルナを見た。
迷う。
それから、自分で先に扉を開けた。
「私から離れないで」
「うん」
二人で外へ出る。
冷たい空気が頬へ触れた。
空から白いものが降っている。大粒ではない。風に揺れながら、ゆっくりと。
葉に落ちる。濡れた地面へ落ちる。すぐに消えるものもあれば、少しだけ白く残るものもある。
エルナは手を伸ばした。
掌へ、一粒。
白い結晶。
触れた途端、輪郭を失い、水になる。
「……雪」
声が震えた。
「これ、雪だよ」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
懐かしい。
その感情が一番近かった。
もう二度と見ることはないと思っていたわけでもない。そもそも、この世界にないことすら昨日まで知らなかった。
それなのに、目の前にあるだけでわかった。
自分はこれを知っている。
「冷たい」
ロザリーがもう一度手を出している。掌へ落ちた雪を、不思議そうに見ていた。
「本当に、触れれば消えるのね」
「うん」
「こんなものが、昔は空から降っていたの」
「いっぱい降る時もあるよ」
地面を見る。
少しずつ白が残り始めていた。
草の先。木の根元。屋根の端。
ほんの薄く、そこだけ別の世界になっていく。
*
いつの間にか、森が静かになっていた。
エルナは息を止める。
鳥の声がしない。葉を揺らす音も、いつもより遠い。雨上がりの水音さえ、小さくなった気がする。
昨日、ロザリーに話したばかりだった。
雪が降ると、静かになる。
「……ほんとだ」
「何が?」
「静か」
ロザリーも耳を澄ませる。
しばらくして、ゆっくり森を見回した。
「昨日、言っていたわね」
「うん」
エルナは少し笑った。
「こうなるの」
白いものが降る。
世界が白くなる。
音が遠くなる。
澪だった頃、ずっと好きだった景色。
それが今、自分の周りにある。
嬉しかった。
どうしてここにあるのかもわからないのに。ただ、嬉しかった。
「エルナ」
ロザリーの声が聞こえる。
「ん?」
「顔色が悪いわ」
「え?」
振り向こうとして、身体が揺れた。
「……っ」
ロザリーがすぐに身体を支える。
「座って」
「平気」
「座りなさい」
声に迷いはなかった。
そのまま家の前の段差へ連れていかれる。
腰を下ろした途端、急に身体が重くなった。走ったわけでもないのに、足にも力が入りにくい。
「なんか……疲れた」
ロザリーがすぐに額へ手を当てる。次に脈を確かめ、手の冷たさを見る。
「寒い」
「わかっているわ」
ロザリーの声は低かった。
「だから、もう何もしないで」
「でも何もしてないよ」
「それなら、そのままでいて。考えるのもやめて」
「考えるのも?」
「今は」
エルナはロザリーを見る。
いつもの穏やかな顔ではない。
怖がっているわけでもない。けれど、本気で心配している。
それがわかって、素直に頷いた。
「……うん」
ロザリーはそのまま、しばらくエルナのそばを離れなかった。
雪は少しずつ弱くなっていった。
白い息も薄くなり、張りつめていた冷気がゆっくり緩む。
雲の切れ間から日が差し、葉に積もった白が水へ変わっていく。
ロザリーはそれを見上げたまま、長く息を吐いた。
*
しばらく休んでから、二人は家へ戻った。
テーブルの上には、最初に凍った器が残っている。氷はもうほとんど溶けていた。
ロザリーは椅子へ座り、その水面をじっと見る。
「私の魔法なの?」
エルナが聞く。
「ええ」
今度は迷わず答えた。
「あなたの力が目覚めたのだと思うわ」
「雪を降らせる魔法?」
「そう決めるには早いわね」
「違うの?」
「わからないの」
ロザリーは器へ触れる。
「最初に起きたのは、水が冷えたことだった。次に凍った。それから、この辺り一帯の空気まで冷えた」
「それで雪が降った」
「ええ」
少し考え込む。
「雪そのものを生み出したのか。それとも、空気や水を冷やした結果として、雪になったのか」
「違う?」
「ずいぶん違うわ」
エルナにはよくわからない。
けれどロザリーは何か大事なことを考えているようだった。
「今日はもう、絶対に試してはいけないわ」
「明日は?」
「明日も駄目」
「じゃあいつ?」
「その前に、話しておかなければならないことがあるの」
声が少し低くなった。
エルナは首を傾げる。
「魔法のこと?」
「ええ」
ロザリーはそこで言葉を切った。
少しだけ表情を緩める。
「でも今日は休みなさい。初めて使ったのだから」
「ロザリーも初めての時、疲れた?」
「疲れたわよ」
「何したの?」
「それはまた今度」
「気になる」
「元気になってからにしなさい」
「じゃあ元気になる」
「そういうものではないのだけれど」
ようやく、ロザリーが少しだけ笑った。
*
夕方には、外の白いものはほとんど消えていた。
いつもの森だ。
濡れた土。緑の葉。雨上がりの湿った空気。
それでもエルナには、さっきまでそこに雪があったことがわかる。
玄関の前へしゃがみ込み、最後まで日陰に残っていた小さな白い塊へ、そっと触れた。
冷たい。
指先ですぐに崩れ、水になる。
今では、古い記録の中にしか残っていなかったもの。
ロザリーも見たことがなかった。
今を生きる誰も、実際に目にしたことがないかもしれないもの。
それが今日、自分の周りに降った。
自分の力で。
嬉しい。
少し怖い。
でも、何より不思議だった。
エルナは濡れた指先を見る。
その冷たさを、自分はずっと前から知っていた。




