第16話 雪というもの
朝から、雨が降っていた。
細かな雨粒が葉を濡らし、屋根を静かに叩いている。強い降りではないけれど、森へ入ればすぐに足元を取られそうだった。
窓の外を見ながら、エルナは小さく息をつく。
「今日も出られない?」
「出ようと思えば出られるわよ」
後ろでロザリーが言う。
「泥だらけになってもいいなら、ね」
「やめとく」
「賢明だわ」
ロザリーはそう言って、窓の外へ目を向けた。
「森には恵みだけれど」
「わかってる」
エルナは振り返る。
「でも暇」
ロザリーが少しだけ笑った。
「そう言うと思ったわ」
棚の前へ歩いていき、何冊か本を抱えて戻ってくる。
「それなら手伝ってちょうだい」
「何を?」
「本の整理」
エルナは少し黙った。
「……他には?」
「ないわね」
「やる」
「ありがとう」
*
家の奥の棚には、思っていたよりたくさんの本があった。
分厚いもの。薄いもの。革の表紙が擦り切れたもの。紙を紐で綴じただけの、今にも崩れそうなものもある。
「こんなにあったんだ」
「必要なものだけ残していたら、増えたのよ」
「全部読んだ?」
「全部ではないわ」
「ロザリーでも?」
「私を何だと思っているの」
「何でも知ってる人」
「ずいぶん買いかぶられているのね」
ロザリーはそう言いながら、表紙の埃を払った。
エルナは床に座り、渡された本を種類ごとに分けていく。植物についての本。薬草の記録。土地の移り変わり。村や川の名を記した帳面。
古い本は、少し苦手だった。
文字の形が今と違う。同じ言葉でも、意味がすぐにわからないことがある。
「これ、読みにくい」
差し出した本を、ロザリーが覗き込んだ。
「ああ、かなり古いものね」
「何の本?」
「この辺り一帯の土地と気候について書かれた記録よ。何百年か前の写しだったと思うわ」
「そんな前の?」
「森の様子は、古い記録ほど貴重なの」
ロザリーはエルナの隣へ座った。
頁をめくると、川筋の図や、今は見かけない植物の絵が並んでいた。水の流れを示す線は、今の地形よりずっと豊かに見える。
「川、大きい」
「昔は今より水が多かったのでしょうね」
エルナはその頁をじっと見た。
今の川は、季節によっては細くなる。浅くなる場所もある。けれど、ここに描かれた川は違った。幅もあり、周囲の緑も濃い。
さらに頁をめくる。
見たことのない草花。途切れた集落名。乾ききる前の湖の記録。
その途中で、エルナの指が止まった。
「……これ」
頁の端に、小さな挿絵があった。
家々と木立。その上から、細かな点が無数に落ちている。地面は白く塗られ、枝にも白が載っていた。
胸の奥が、かすかに揺れた。
「何て書いてあるの?」
ロザリーが文字を目で追う。
「少し待って」
指先で古い文字を辿り、ゆっくり読み上げる。
「――冬季、白き降下物あり。地表を覆い、積もること深き時は膝丈に及ぶ。寒冷厳しく、河川の表面は凍結する」
エルナの口から、言葉がこぼれた。
「雪」
ロザリーが顔を上げる。
「……雪?」
エルナは自分でも驚いた。
けれど、挿絵を見ればわかる。
わからないはずがない。
白い地面。枝に積もる白。空から落ちてくる粒。
「雪だ」
ロザリーは本を見、次にエルナを見た。
「知っているの?」
答えに詰まった。
この世界に来てから、一度も見ていない。誰かがその名を口にしたのを聞いたこともない。
それでも、エルナは知っている。
名前だけではない。触れた感触も、冷たさも、音まで。
「……この先に、そう書いてない?」
誤魔化すように聞くと、ロザリーはもう一度文字を追った。
「ええ。少し下にあるわね」
「やっぱり」
「雪、と呼ばれていたらしいわ」
ロザリーはその語を確かめるように言った。
「古い記録にだけ残っているものね。私も、本でしか知らないわ」
「見たことないの?」
「もちろん」
あっさりと答えが返る。
「私が生まれるずっと前には、もう存在していなかったはずよ」
「誰も見たことない?」
「今生きている人で、実際に見たことがある人はいないでしょうね」
エルナは挿絵を見つめたまま、ゆっくり息をした。
自分にとっては、冬の中に確かにあったものが、この世界ではもう本の中にしか残っていない。
*
ロザリーは頁を少し先までめくった。
「……こちらは余白に書き足されているわね。記録というより、歌かしら」
「歌?」
ロザリーは文字を追い、声に出す。
「白き夜、鳥は鳴かず。眠る森を覆うもの、朝には道さえ隠しけり――」
短い一節だった。
でも、挿絵よりずっと胸に近いところへ落ちてくる。
白い夜。
鳥は鳴かず。
道さえ隠す。
エルナは、その静けさを知っていた。
「川が凍るって、本当?」
「本当だったのでしょうね」
「水が固まるほど寒いってこと?」
「そういうことになるわ」
ロザリーは不思議そうに本を見る。
「井戸水や湧き水が冷たいことはあるけれど、水そのものが固まるなんて、今では想像しにくいわ」
エルナには想像できた。
いや、想像ではなかった。
吐いた息が白くなる朝。指先がかじかむ寒さ。薄く張った氷を靴先で割る感触。
「息も白くなるよ」
思わず言った。
ロザリーが目を上げる。
「息が?」
「あ……」
「どうして知っているの?」
エルナは黙った。
本で読んだだけでは出てこない言葉だと、自分でもわかる。
「……たぶん、どこかで読んだ」
「そう」
ロザリーはしばらくエルナを見ていた。
「本当に、見たことがあるみたいに話すのね」
咎める声ではなかった。
ただ、静かに確かめるような響きだった。
エルナは俯く。
それ以上、うまく言えない。
少しの沈黙のあと、ロザリーが本へ視線を戻した。
「話したくないなら、今は聞かないわ」
エルナは顔を上げた。
ロザリーはもう追及していない。
ただ頁を押さえながら、穏やかな声で続ける。
「けれど、あなたが知っていることなら、大事にしなさい」
エルナは小さく頷いた。
「……うん」
*
「雪って、どんなものなのかしらね」
ロザリーが何気なく言う。
エルナは挿絵を見つめた。
「冷たいよ」
今度は止められなかった。
「すごく?」
「ううん、すごく冷たい時もあるけど、降ったばかりのは少し柔らかい」
「柔らかいの?」
「うん。手ですくえるし、握ると固まる」
言葉がするすると出てくる。
「たくさん積もると、地面が全部白くなる。歩くと足跡がついて、あとから来た人にどこを歩いたかわかる」
「面白いわね」
「静かにもなる」
ロザリーが首を傾ける。
「静か?」
「うん」
エルナは余白の歌をもう一度見た。
「鳥もあんまり鳴かないし、遠くの音も少し小さく聞こえるの。いつも聞こえる人の声とか、足音とか、全部ちょっと遠くなる」
言いながら、胸の奥で何かがほどけた。
綺麗だから好きなのだと思っていた。
でも違う。
それだけじゃなかった。
「全部が白くなって、静かになるから……好き」
最後の二文字は、ほとんど呟きに近かった。
ロザリーは少しだけ目を細める。
「なるほど。あなたらしいわね」
「私らしい?」
「ええ」
それだけだった。
けれど、不思議と嬉しかった。
*
白い息。
冷えた指先。
公衆電話の横にあった、何を表しているのかわからない銀色のオブジェ。
唐突に、景色が胸へ流れ込んだ。
『ごめん、待った?』
『七分』
『そんなに? ごめん』
直人。
名前を思うより先に、少し笑った時の顔が浮かぶ。目尻がわずかにやわらぐところまで、はっきりと。
『……冷えた』
『ほんとだ。冷たいね』
両手で包まれた感触まで、戻ってくる。
胸の奥が熱くなった。
待ち合わせて、ご飯を食べて、他愛もない話をして、並んで歩いた。
特別な日じゃなくてもよかった。
一緒にいることが、もう当たり前みたいだった。
その時間を、エルナは知っている。
澪として。
けれど、その記憶が胸へ戻ってきた途端、別の思いも同時に浮かんだ。
最近、あまり思い出していなかった。
忘れたわけではない。
忘れたいと思ったこともない。
それでも、朝起きれば今日やることを考えていた。ロザリーと森へ出て、植物を覚え、帰って食事をして、時々叱られて、笑って、眠る。
そうして日が過ぎていくうちに、直人のことを思い出さない日が増えていた。
そのことに気づいて、息が詰まった。
「エルナ?」
ロザリーの声で、我に返る。
「どうしたの」
「……なんでもない」
うまく笑えなかった。
視界が少しぼやける。
エルナは慌てて目元を擦った。
ロザリーは何も言わず立ち上がると、しばらくして湯気の立つカップを持って戻ってきた。
「飲む?」
「うん」
前に置かれたのは、温かい香草茶だった。
ロザリーは理由を聞かなかった。
ただ、エルナの隣に座り、また静かに本を整理し始める。
それがありがたかった。
*
直人を忘れたくない。
カップを両手で包みながら、エルナは思った。
顔も。声も。名前も。好きだったことも。
全部。
でも、ロザリーと過ごした今日を、なかったことにもしたくない。
雨の日に本を広げて、知らない言葉を教わることも。香草茶を置いてもらうことも。今のこの暮らしも、もう自分のものだった。
その二つをどうすればいいのか、エルナにはまだわからなかった。
*
夜になっても、雨はやまなかった。
屋根を叩く音を聞きながら、エルナは寝床の中で目を閉じる。
意識して思い出した。
藤崎直人。
名前。
顔。
声。
笑う時に少しだけ目尻がやわらぐこと。
冷えた手を包んでくれた手の温度。
公衆電話の横の、あの変なオブジェ。
一つずつ、ちゃんと浮かぶ。
忘れていない。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ苦しかった。
隣の部屋から、小さな物音がした。
ロザリーだ。
今、自分のそばにいる人。
エルナは目を閉じたまま、昼間の古い頁を思い出す。
冬季、白き降下物あり。
白き夜、鳥は鳴かず。
雪が降る時の静けさを、エルナは知っている。
それを知っている人が、この世界に自分以外にもいるのかは、わからなかった。




