第15話 土の下
その日は、朝からよく晴れていた。
数日前に降った雨の名残で、森の土はまだ少し柔らかい。木漏れ日が湿った地面に落ちるたび、細かな水滴が光っていた。
「これは?」
エルナが足元の葉を指差す。
ロザリーは振り返りもせず答えた。
「食べられないわ」
「違う。名前」
「そちら?」
「うん」
ロザリーが戻ってくる。
エルナが指していたのは、低い草の間から伸びた細長い葉だった。先端だけがわずかに赤い。
「リト草ね」
「ああ」
「忘れていたでしょう」
「ちょっとだけ」
「それを忘れたと言うのよ」
「次は覚える」
「期待しているわ」
エルナはしゃがみ込み、葉の形をもう一度見る。
食べられない。薬にもならない。でも、雨のあとによく伸びる。
前に聞いた。今度は忘れないようにしようと思う。
立ち上がると、ロザリーは少し先を歩いていた。
「待って」
「急がなくていいわ」
エルナは小走りで追いついた。
森の奥へ入ることにも、もうずいぶん慣れた。どこへ足を置けば滑りにくいか。腐った枝は踏まないこと。苔の下が空洞になっている場所もあること。
全部、ロザリーに教えてもらった。
まだ知らないことの方が多いけれど、それでも以前のように何もわからない森ではない。少しずつ、自分の知っている場所になっている。
*
ロザリーが足を止めた。
エルナも止まる。
「どうしたの?」
返事がない。
ロザリーは地面を見ていた。
何もない。
枯れ葉。苔。細い根。
どこにでもある森の地面だ。
「ロザリー?」
「……少し待って」
声が低かった。
ロザリーがしゃがみ込み、指先で落ち葉を払った。その下の土へ触れる。
しばらく動かない。
「何かある?」
「ここ、掘り返されてる」
エルナもしゃがんだ。
「わかんない」
「そうでしょうね」
ロザリーが土の表面を指でなぞる。
「この辺りの根が切れているの」
「根?」
「最近よ」
エルナにはやっぱりわからない。
でも、ロザリーの顔がいつもと違った。何かを警戒している。
「動物?」
「……違うと思うわ」
ロザリーが立ち上がり、周囲を見る。少し離れた場所まで歩き、また地面を見る。
戻ってくる。
「ここだけ」
小さく呟いた。
そして、腰につけていた道具を取り出す。
「エルナ。少し離れて」
「何があるの?」
「まだわからないわ」
土を掘り始める。
エルナは言われた通り数歩下がった。
ロザリーの手つきは慎重だった。深く刃を入れない。上の土だけを少しずつ除けていく。
土は思ったより浅かった。
固く踏み締められてもいない。落ち葉や細い枝まで一緒に混ざり、何かを急いで隠したように雑にかけられている。
しばらくして、ロザリーの動きが止まった。
土の間から、布が見えていた。
「……何、それ」
ロザリーは答えない。
道具を置き、今度は手で土を払う。
布。
淡い色だったのだと思う。でも土に汚れて、元の色はほとんどわからない。
その周りには、落ち葉と枝が不自然に挟まっていた。
ロザリーの呼吸が変わる。
急いでいる。けれど乱暴にはできない。
布の周りの土を、両手で少しずつ掻き出していく。
やがて、小さな腕が見えた。
エルナは息を止めた。
「……赤ちゃん?」
ロザリーが布ごと抱き上げる。
とても小さい。
生まれて、それほど経っていない。顔にも土がついていた。
布の顔まわりだけ、わずかに隙間が残っている。
目は閉じている。
泣いていない。
「ロザリー」
「待って」
ロザリーは赤ん坊の口元へ耳を近づける。胸に手を当てる。
長い数秒。
「生きてる」
その言葉に、エルナの身体から力が抜けた。
「生きてるの?」
「ええ。でも弱ってる」
ロザリーが布を少し開く。
赤ん坊の髪が見えた。
土で汚れていてもわかる。
人間の赤ん坊にはあまりない、淡い藤色。
ロザリーの表情が固くなる。
エルナにもわかった。
「……魔女?」
「ええ」
短い答えだった。
*
帰り道は早かった。
ロザリーは赤ん坊を胸に抱き、ほとんど休まなかった。エルナも必死についていく。
「大丈夫かな」
「今は歩いて」
「うん」
「転ばないように」
「うん」
それ以上、ロザリーは話さなかった。
家へ着くと、すぐに暖炉へ火を入れる。赤ん坊を清潔な布へ移し、身体についた土をぬるい湯で少しずつ落としていく。
エルナは言われたものを運んだ。
「これ?」
「そう。そこへ置いて」
「次は?」
「小さい鍋をお願い」
ロザリーは乳白色の樹液を温め始めた。赤ん坊へ与える時と同じように、少し煮詰める。
エルナはそれを見ていた。
自分も赤ん坊の頃、こうして飲ませてもらった。覚えているような、覚えていないような。
「飲める?」
「わからない」
ロザリーは小さな匙にほんの少しだけすくい、その先を赤ん坊の唇へ触れさせた。
一滴。
唇を湿らせる。
ほとんど動かない。
「飲まない」
「飲み込む力が弱っているの」
もう一度。
今度はほんの少しだけ口が動いた。
けれど、ロザリーはそれ以上入れようとしなかった。
「もっとあげたら?」
「無理に飲ませたら駄目よ」
ロザリーの声は静かだった。
エルナは赤ん坊を見る。
細い。小さい。
手の指なんて、自分の半分もないように見える。
「寒かったのかな」
「ええ」
「ずっと?」
ロザリーは答えなかった。
*
昼を過ぎても、赤ん坊はほとんど眠ったままだった。
時々、かすかに息をする。
それだけ。
エルナは何度も顔を覗き込んだ。
「起きないね」
「体力を使わないようにしているのかもしれないわ」
「よくなる?」
ロザリーが黙る。
その沈黙で、エルナは嫌な感じがした。
「……よくなるよね?」
「できることはしているわ」
「魔法は?」
ロザリーが顔を上げた。
「魔法」
エルナは言う。
「何かできないの?」
木を育てられる。根を動かせる。あんなに大きな獣だって追い払える。
ロザリーなら、何かできるような気がした。
けれどロザリーは首を振った。
「傷や病気を、魔法でなかったことにはできないの」
「ロザリーだけ?」
「いいえ」
赤ん坊の額へ手を当てながら答える。
「治る力を助けるような魔法なら、あると聞くわ。でも、失ったものを元に戻したり、弱りきった身体を魔法だけで治したりはできない」
「魔女でも?」
「魔女でも」
エルナは黙った。
「じゃあ病気になったら?」
「薬を使う。身体を休ませる。傷なら洗って、縫って、血を止める。人と同じよ」
「魔法じゃ治せない?」
「ええ」
知らなかった。
魔法があれば何でもできるとは思っていなかった。でも、これくらい小さな命なら、何かできると思っていた。
ロザリーも魔女なのに。
とても強い魔女なのに。
「じゃあ……どうするの?」
エルナが聞く。
「そばにいるわ」
ロザリーはそれだけ言った。
*
夕方。
赤ん坊の呼吸は、さらに浅くなっていた。
ロザリーはずっと抱いている。
温めた布を替え、唇が乾けばほんの少し湿らせる。
エルナも隣にいた。
「この子、ここで暮らす?」
少し前から考えていたことを聞いた。
ロザリーが見る。
「元気になったら」
「私の妹?」
ロザリーの目がほんの少し揺れた。
すぐには答えない。
「……元気になったら、その時に考えましょう」
「じゃあ、寝るところ増やさないと」
「そうね」
「私の隣でもいいよ」
「狭いでしょう」
「小さいから平気」
エルナは赤ん坊の小さな手を見る。
指先を触る。
冷たい。
ロザリーが温めているのに、なかなか温かくならない。
「名前は?」
「わからないわ」
「何もなかった?」
「何も」
「じゃあ、名前ないの?」
「……少なくとも、私たちは知らない」
エルナは少し考える。
「つける?」
ロザリーはすぐには答えなかった。
「それも、元気になったら考えましょう」
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
*
夜になった。
エルナは寝るように言われたけれど、眠れなかった。
何度か目を閉じる。でもすぐに起きる。
暖炉の近くでは、ロザリーがまだ赤ん坊を抱いている。
エルナは布をめくり、そちらを見る。
静かだった。
あまりに静かで、不安になる。
「ロザリー」
返事がない。
「ロザリー?」
今度は振り向いた。
「起きていたの」
「うん」
エルナは起き上がる。
「赤ちゃんは?」
ロザリーが答えない。
胸の奥が、急に冷たくなった。
エルナは寝床から降り、近づく。
赤ん坊はロザリーの腕の中にいる。
目を閉じている。
眠っているようにしか見えない。
「寝てる?」
ロザリーの手が、小さな背中を撫でる。
ゆっくり。
「……もう、息をしていないわ」
エルナは赤ん坊を見る。
胸。
動かない。
「いつ?」
「少し前」
「……起こせない?」
聞いてから、自分でもわかった。
おかしなことを言った。
ロザリーは否定しなかった。ただ、赤ん坊を抱いていた。
エルナはその場に座る。
何を言えばいいかわからない。
「助けられなかった?」
「ええ」
ロザリーの声はとても静かだった。
「見つけるのが遅すぎたの」
「ロザリーでも?」
「私でも」
エルナは膝の上で手を握った。
ロザリーが見つけた。
土の下から掘り出した。
連れて帰った。
温めた。
少しでも飲ませようとした。
ずっと抱いていた。
それでも駄目だった。
「なんで埋められてたの?」
ロザリーが目を伏せる。
「魔女だったからでしょうね」
「……殺そうとしたってこと?」
少しの沈黙。
「ええ」
誤魔化さなかった。
エルナは唇を噛んだ。
「赤ちゃんなのに」
「ええ」
「何もしてないのに」
「そうね」
「魔女ってだけで?」
「……そういう人もいるわ」
「おかしいよ」
「ええ」
ロザリーは赤ん坊を抱いたまま、はっきり答えた。
「おかしいわ」
*
翌朝。
二人で森へ入った。
ロザリーは赤ん坊を新しい布で包んでいた。
昨日とは違う場所へ向かう。家からそれほど遠くない、日当たりのいいところだった。
大きな木の根元から少し離れた場所に、ロザリーが穴を掘る。
エルナも手伝った。
昨日とは違う。
今度は、埋めるために掘る。
そのことを考えると、胸の奥が痛かった。
十分な深さになってから、ロザリーが赤ん坊をそっと横たえる。
土を戻す。
エルナも一握りずつ入れた。
最後に、近くに咲いていた小さな白い花を一輪だけ置いた。
「名前、つけなくていいの?」
エルナが聞く。
ロザリーは土を見た。
「その子に、誰かがつけた名前があったかもしれないわ」
「でもわからない」
「ええ」
「呼べないじゃん」
ロザリーはしばらく黙っていた。
「名前がわからなくても、この子がいたことはなくならないわ」
エルナは小さな土の盛りを見る。
昨日まで知らなかった子。
名前も知らない。
声もほとんど聞いていない。
それでも、ここにいた。
「私も?」
口から出た。
ロザリーがエルナを見る。
「私も、こうなってた?」
答えはすぐには返ってこなかった。
「ええ」
やがて、ロザリーが言う。
「少し違えば」
エルナは俯く。
「ロザリーが来なかったら?」
また沈黙。
でもロザリーは嘘をつかなかった。
「生きてはいなかったでしょうね」
エルナは土を見たまま動かなかった。
「じゃあ、なんで私は助かったの?」
「私が見つけた時、あなたはまだ元気に泣いていたから」
「この子より早かった?」
「たぶん」
「……たまたま?」
「そうね」
あまりにも簡単な答えだった。
エルナは顔を上げる。
「じゃあ、どうして拾ったの?」
「見つけたから」
「それだけ?」
「それだけよ」
「魔女だったから?」
ロザリーは首を振る。
「生きていたから」
エルナは何も言えなくなった。
*
家へ戻る。
扉を開ける。
見慣れた部屋。
机。椅子。棚。ロザリーが育てた柱。
寝床の近くには、昔もらった木の鳥が置いてある。
全部、ずっとそこにあるものだと思っていた。
でも違う。
ここへ来たあとに与えられたものだ。
この家も。名前も。食べ物も。服も。抱いてくれた腕も。
ロザリーがあの日、少し違う道を歩いていたら。
雨が降っていたら。
もう少し早くても。
もう少し遅くても。
自分はここにいなかったかもしれない。
夜。
布へ潜り込み、エルナは目を閉じる。
しばらくして、隣の部屋からロザリーの気配がした。
「ロザリー」
「なに?」
「おやすみ」
少しの間。
「おやすみ、エルナ」
名前を呼ばれる。
それだけで、自分がここにいることが、少しだけ確かなものになった。




