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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
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第15話 土の下


 その日は、朝からよく晴れていた。


 数日前に降った雨の名残で、森の土はまだ少し柔らかい。木漏れ日が湿った地面に落ちるたび、細かな水滴が光っていた。


「これは?」


 エルナが足元の葉を指差す。


 ロザリーは振り返りもせず答えた。


「食べられないわ」


「違う。名前」


「そちら?」


「うん」


 ロザリーが戻ってくる。


 エルナが指していたのは、低い草の間から伸びた細長い葉だった。先端だけがわずかに赤い。


「リト草ね」


「ああ」


「忘れていたでしょう」


「ちょっとだけ」


「それを忘れたと言うのよ」


「次は覚える」


「期待しているわ」


 エルナはしゃがみ込み、葉の形をもう一度見る。


 食べられない。薬にもならない。でも、雨のあとによく伸びる。


 前に聞いた。今度は忘れないようにしようと思う。


 立ち上がると、ロザリーは少し先を歩いていた。


「待って」


「急がなくていいわ」


 エルナは小走りで追いついた。


 森の奥へ入ることにも、もうずいぶん慣れた。どこへ足を置けば滑りにくいか。腐った枝は踏まないこと。苔の下が空洞になっている場所もあること。


 全部、ロザリーに教えてもらった。


 まだ知らないことの方が多いけれど、それでも以前のように何もわからない森ではない。少しずつ、自分の知っている場所になっている。


     *


 ロザリーが足を止めた。


 エルナも止まる。


「どうしたの?」


 返事がない。


 ロザリーは地面を見ていた。


 何もない。


 枯れ葉。苔。細い根。


 どこにでもある森の地面だ。


「ロザリー?」


「……少し待って」


 声が低かった。


 ロザリーがしゃがみ込み、指先で落ち葉を払った。その下の土へ触れる。


 しばらく動かない。


「何かある?」


「ここ、掘り返されてる」


 エルナもしゃがんだ。


「わかんない」


「そうでしょうね」


 ロザリーが土の表面を指でなぞる。


「この辺りの根が切れているの」


「根?」


「最近よ」


 エルナにはやっぱりわからない。


 でも、ロザリーの顔がいつもと違った。何かを警戒している。


「動物?」


「……違うと思うわ」


 ロザリーが立ち上がり、周囲を見る。少し離れた場所まで歩き、また地面を見る。


 戻ってくる。


「ここだけ」


 小さく呟いた。


 そして、腰につけていた道具を取り出す。


「エルナ。少し離れて」


「何があるの?」


「まだわからないわ」


 土を掘り始める。


 エルナは言われた通り数歩下がった。


 ロザリーの手つきは慎重だった。深く刃を入れない。上の土だけを少しずつ除けていく。


 土は思ったより浅かった。


 固く踏み締められてもいない。落ち葉や細い枝まで一緒に混ざり、何かを急いで隠したように雑にかけられている。


 しばらくして、ロザリーの動きが止まった。


 土の間から、布が見えていた。


「……何、それ」


 ロザリーは答えない。


 道具を置き、今度は手で土を払う。


 布。


 淡い色だったのだと思う。でも土に汚れて、元の色はほとんどわからない。


 その周りには、落ち葉と枝が不自然に挟まっていた。


 ロザリーの呼吸が変わる。


 急いでいる。けれど乱暴にはできない。


 布の周りの土を、両手で少しずつ掻き出していく。


 やがて、小さな腕が見えた。


 エルナは息を止めた。


「……赤ちゃん?」


 ロザリーが布ごと抱き上げる。


 とても小さい。


 生まれて、それほど経っていない。顔にも土がついていた。


 布の顔まわりだけ、わずかに隙間が残っている。


 目は閉じている。


 泣いていない。


「ロザリー」


「待って」


 ロザリーは赤ん坊の口元へ耳を近づける。胸に手を当てる。


 長い数秒。


「生きてる」


 その言葉に、エルナの身体から力が抜けた。


「生きてるの?」


「ええ。でも弱ってる」


 ロザリーが布を少し開く。


 赤ん坊の髪が見えた。


 土で汚れていてもわかる。


 人間の赤ん坊にはあまりない、淡い藤色。


 ロザリーの表情が固くなる。


 エルナにもわかった。


「……魔女?」


「ええ」


 短い答えだった。


     *


 帰り道は早かった。


 ロザリーは赤ん坊を胸に抱き、ほとんど休まなかった。エルナも必死についていく。


「大丈夫かな」


「今は歩いて」


「うん」


「転ばないように」


「うん」


 それ以上、ロザリーは話さなかった。


 家へ着くと、すぐに暖炉へ火を入れる。赤ん坊を清潔な布へ移し、身体についた土をぬるい湯で少しずつ落としていく。


 エルナは言われたものを運んだ。


「これ?」


「そう。そこへ置いて」


「次は?」


「小さい鍋をお願い」


 ロザリーは乳白色の樹液を温め始めた。赤ん坊へ与える時と同じように、少し煮詰める。


 エルナはそれを見ていた。


 自分も赤ん坊の頃、こうして飲ませてもらった。覚えているような、覚えていないような。


「飲める?」


「わからない」


 ロザリーは小さな匙にほんの少しだけすくい、その先を赤ん坊の唇へ触れさせた。


 一滴。


 唇を湿らせる。


 ほとんど動かない。


「飲まない」


「飲み込む力が弱っているの」


 もう一度。


 今度はほんの少しだけ口が動いた。


 けれど、ロザリーはそれ以上入れようとしなかった。


「もっとあげたら?」


「無理に飲ませたら駄目よ」


 ロザリーの声は静かだった。


 エルナは赤ん坊を見る。


 細い。小さい。


 手の指なんて、自分の半分もないように見える。


「寒かったのかな」


「ええ」


「ずっと?」


 ロザリーは答えなかった。


     *


 昼を過ぎても、赤ん坊はほとんど眠ったままだった。


 時々、かすかに息をする。


 それだけ。


 エルナは何度も顔を覗き込んだ。


「起きないね」


「体力を使わないようにしているのかもしれないわ」


「よくなる?」


 ロザリーが黙る。


 その沈黙で、エルナは嫌な感じがした。


「……よくなるよね?」


「できることはしているわ」


「魔法は?」


ロザリーが顔を上げた。


「魔法」


エルナは言う。


「何かできないの?」


木を育てられる。根を動かせる。あんなに大きな獣だって追い払える。


ロザリーなら、何かできるような気がした。


けれどロザリーは首を振った。


「傷や病気を、魔法でなかったことにはできないの」


「ロザリーだけ?」


「いいえ」


赤ん坊の額へ手を当てながら答える。


「治る力を助けるような魔法なら、あると聞くわ。でも、失ったものを元に戻したり、弱りきった身体を魔法だけで治したりはできない」


「魔女でも?」


「魔女でも」


 エルナは黙った。


「じゃあ病気になったら?」


「薬を使う。身体を休ませる。傷なら洗って、縫って、血を止める。人と同じよ」


「魔法じゃ治せない?」


「ええ」


 知らなかった。


 魔法があれば何でもできるとは思っていなかった。でも、これくらい小さな命なら、何かできると思っていた。


 ロザリーも魔女なのに。


 とても強い魔女なのに。


「じゃあ……どうするの?」


 エルナが聞く。


「そばにいるわ」


 ロザリーはそれだけ言った。


     *


 夕方。


 赤ん坊の呼吸は、さらに浅くなっていた。


 ロザリーはずっと抱いている。


 温めた布を替え、唇が乾けばほんの少し湿らせる。


 エルナも隣にいた。


「この子、ここで暮らす?」


 少し前から考えていたことを聞いた。


 ロザリーが見る。


「元気になったら」


「私の妹?」


 ロザリーの目がほんの少し揺れた。


 すぐには答えない。


「……元気になったら、その時に考えましょう」


「じゃあ、寝るところ増やさないと」


「そうね」


「私の隣でもいいよ」


「狭いでしょう」


「小さいから平気」


 エルナは赤ん坊の小さな手を見る。


 指先を触る。


 冷たい。


 ロザリーが温めているのに、なかなか温かくならない。


「名前は?」


「わからないわ」


「何もなかった?」


「何も」


「じゃあ、名前ないの?」


「……少なくとも、私たちは知らない」


 エルナは少し考える。


「つける?」


 ロザリーはすぐには答えなかった。


「それも、元気になったら考えましょう」


 その言葉が、なぜか胸に引っかかった。


     *


 夜になった。


 エルナは寝るように言われたけれど、眠れなかった。


 何度か目を閉じる。でもすぐに起きる。


 暖炉の近くでは、ロザリーがまだ赤ん坊を抱いている。


 エルナは布をめくり、そちらを見る。


 静かだった。


 あまりに静かで、不安になる。


「ロザリー」


 返事がない。


「ロザリー?」


 今度は振り向いた。


「起きていたの」


「うん」


 エルナは起き上がる。


「赤ちゃんは?」


 ロザリーが答えない。


 胸の奥が、急に冷たくなった。


 エルナは寝床から降り、近づく。


 赤ん坊はロザリーの腕の中にいる。


 目を閉じている。


 眠っているようにしか見えない。


「寝てる?」


 ロザリーの手が、小さな背中を撫でる。


 ゆっくり。


「……もう、息をしていないわ」


 エルナは赤ん坊を見る。


 胸。


 動かない。


「いつ?」


「少し前」


「……起こせない?」


 聞いてから、自分でもわかった。


 おかしなことを言った。


 ロザリーは否定しなかった。ただ、赤ん坊を抱いていた。


 エルナはその場に座る。


 何を言えばいいかわからない。


「助けられなかった?」


「ええ」


 ロザリーの声はとても静かだった。


「見つけるのが遅すぎたの」


「ロザリーでも?」


「私でも」


 エルナは膝の上で手を握った。


 ロザリーが見つけた。


 土の下から掘り出した。


 連れて帰った。


 温めた。


 少しでも飲ませようとした。


 ずっと抱いていた。


 それでも駄目だった。


「なんで埋められてたの?」


 ロザリーが目を伏せる。


「魔女だったからでしょうね」


「……殺そうとしたってこと?」


 少しの沈黙。


「ええ」


 誤魔化さなかった。


 エルナは唇を噛んだ。


「赤ちゃんなのに」


「ええ」


「何もしてないのに」


「そうね」


「魔女ってだけで?」


「……そういう人もいるわ」


「おかしいよ」


「ええ」


 ロザリーは赤ん坊を抱いたまま、はっきり答えた。


「おかしいわ」


     *


 翌朝。


 二人で森へ入った。


 ロザリーは赤ん坊を新しい布で包んでいた。


 昨日とは違う場所へ向かう。家からそれほど遠くない、日当たりのいいところだった。


 大きな木の根元から少し離れた場所に、ロザリーが穴を掘る。


 エルナも手伝った。


 昨日とは違う。


 今度は、埋めるために掘る。


 そのことを考えると、胸の奥が痛かった。


 十分な深さになってから、ロザリーが赤ん坊をそっと横たえる。


 土を戻す。


 エルナも一握りずつ入れた。


 最後に、近くに咲いていた小さな白い花を一輪だけ置いた。


「名前、つけなくていいの?」


 エルナが聞く。


 ロザリーは土を見た。


「その子に、誰かがつけた名前があったかもしれないわ」


「でもわからない」


「ええ」


「呼べないじゃん」


 ロザリーはしばらく黙っていた。


「名前がわからなくても、この子がいたことはなくならないわ」


 エルナは小さな土の盛りを見る。


 昨日まで知らなかった子。


 名前も知らない。


 声もほとんど聞いていない。


 それでも、ここにいた。


「私も?」


 口から出た。


 ロザリーがエルナを見る。


「私も、こうなってた?」


 答えはすぐには返ってこなかった。


「ええ」


 やがて、ロザリーが言う。


「少し違えば」


 エルナは俯く。


「ロザリーが来なかったら?」


 また沈黙。


 でもロザリーは嘘をつかなかった。


「生きてはいなかったでしょうね」


 エルナは土を見たまま動かなかった。


「じゃあ、なんで私は助かったの?」


「私が見つけた時、あなたはまだ元気に泣いていたから」


「この子より早かった?」


「たぶん」


「……たまたま?」


「そうね」


 あまりにも簡単な答えだった。


 エルナは顔を上げる。


「じゃあ、どうして拾ったの?」


「見つけたから」


「それだけ?」


「それだけよ」


「魔女だったから?」


 ロザリーは首を振る。


「生きていたから」


 エルナは何も言えなくなった。


     *


 家へ戻る。


 扉を開ける。


 見慣れた部屋。


 机。椅子。棚。ロザリーが育てた柱。


 寝床の近くには、昔もらった木の鳥が置いてある。


 全部、ずっとそこにあるものだと思っていた。


 でも違う。


 ここへ来たあとに与えられたものだ。


 この家も。名前も。食べ物も。服も。抱いてくれた腕も。


 ロザリーがあの日、少し違う道を歩いていたら。


 雨が降っていたら。


 もう少し早くても。


 もう少し遅くても。


 自分はここにいなかったかもしれない。


 夜。


 布へ潜り込み、エルナは目を閉じる。


 しばらくして、隣の部屋からロザリーの気配がした。


「ロザリー」


「なに?」


「おやすみ」


 少しの間。


「おやすみ、エルナ」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、自分がここにいることが、少しだけ確かなものになった。




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