第14話 森の外へ
「エルナ。今日は一緒に来る?」
朝食の片づけをしていた手が止まった。エルナは振り返る。
「どこに?」
「村よ」
「行く」
答えるまでに、ほとんど間はなかった。ロザリーが少し笑う。
「まだ何も説明していないでしょう」
「でも行く」
「そう」
ロザリーは戸棚から布袋をいくつか取り出した。中には乾燥させた薬草や、小さな瓶に詰められた軟膏が入っている。それとは別に、買うものを書き留めた紙もあった。
「塩と油、それから布。針もそろそろ替えたいわね」
「村って遠い?」
「あなたの足なら、二時間くらいかしら」
「歩ける」
「帰りもあるのよ」
「歩ける」
「そう言うと思ったわ」
ロザリーはそれ以上止めなかった。代わりに、奥の棚から小さな箱を持ってくる。
「ただし、行くなら約束があるわ」
エルナは箱を覗き込んだ。
中に入っていたのは、細い腕輪だった。飾り気の少ない金属製で、小さな淡灰色の石が一つだけはめ込まれている。
「これ何?」
「認識をぼかす魔道具よ」
「魔石?」
「ええ。小さいでしょう」
ロザリーは腕輪を一つ取り、エルナの手首にはめた。少し緩かったが、留め具を調整するとぴたりと収まった。
「つけている間、あなたを見た人の意識が少し逸れるの」
「見えなくなる?」
「いいえ。ちゃんと見えるわ」
ロザリーはもう一つの腕輪を自分につける。
「ただ、顔をよく見ようという気持ちが薄くなる。あとで思い出そうとしても、はっきりしにくい。それだけよ」
「ずっと使えるの?」
「中の魔石の力は少しずつ減るわ。でも、この程度の魔道具なら消耗は小さいの。光が弱くなったら、また魔力を入れればいい」
「じゃあ、ばれない?」
「絶対ではないわ。近くで長く見られたり、強く意識されたりすれば、効果は弱くなる」
ロザリーはそう言ってから、エルナの白銀の髪をまとめ始めた。長くなってきた髪を丁寧に押し込み、深い色のフードを被せる。
「髪は出さないこと」
「うん」
「人前でフードを取らない」
「うん」
「私から離れない」
「わかった」
「知らない人に話しかけられても、勝手についていかない」
「それは前から知ってる」
「確認よ」
エルナは口を尖らせた。
ロザリーは気にせず、自分も髪を隠す。顔の下半分には薄い布を巻いた。いつものロザリーとは、かなり印象が違う。
「そんなに隠すの?」
「その方が楽なの」
短い答えだった。
少し前、家にやって来た男たちのことが頭をよぎる。
エルナはそれ以上聞かなかった。
*
森を抜けた先に広がっていた景色は、エルナの想像よりずっと明るかった。
木々の切れ目から、広い畑が見える。土の道を荷車が進み、柵の向こうでは見たことのない家畜が草を食べている。少し先には家が何軒も並び、その向こうから煙が上がっていた。
「村だ」
「そうよ」
人の声が聞こえる。誰かが笑っている。子どもが二人、道を走っていった。
森の中とはまるで違う。前世の街とも違う。それでも、人が何人も同じ場所で暮らしているというだけで、妙に懐かしかった。
村へ近づくほど、見るものが増えていく。
籠いっぱいに野菜を積んだ店。軒先に干された色とりどりの布。香ばしい匂いのするパン。革を叩く音。荷車の車輪が石にぶつかる音。
エルナは右を見て、左を見て、また振り返った。
「前を見て歩きなさい」
「見てるよ」
「今、後ろを向いていたでしょう」
「そっちも見たいんだもん」
「転ぶわよ」
言われた直後、道の端の石に足を取られかけた。ロザリーに腕を掴まれる。
「ほら」
「……転んでない」
「私が掴んだからでしょう」
反論できなかった。
少し歩いたところで、エルナはあるものを見つけた。
「あ」
共同の水汲み場だった。大きな桶の横に金属製の装置があり、その中央に淡い灰色の石がはめ込まれている。
石の奥で、柔らかな光が揺れていた。
「魔石」
ロザリーが頷く。
「ええ」
女の人が取っ手を操作すると、水が勢いよく流れ出す。
さらに進めば、店先に吊るされた灯りの中にも魔石がある。鍋を温める小さな台にも。パン屋の奥にも、同じ灰色の光が見えた。
本当に、どこにでもある。
ロザリーが家で作っていたものと同じだ。
「みんな使ってるんだね」
「そうね」
エルナは、道の端にある灯りを見上げた。
森の外の人たちは、魔女が作ったものをこんなにたくさん使っている。
そのことを、初めて自分の目で知った。
*
最初に入った店では、何も起こらなかった。
「いらっしゃい」
年配の男が棚の整理をしながら声をかける。
ロザリーは塩と油を頼んだ。その間、エルナは店内を見回す。
棚には見たことのないものがいっぱい並んでいる。色の濃い瓶。乾燥した豆。何に使うのかわからない金属の道具。
「そっちのお嬢ちゃんは?」
店主に言われ、エルナは振り返った。
ロザリーが一瞬だけこちらを見る。
「娘よ」
それだけだった。
エルナは何も言わなかった。
けれど、その言葉が胸の中へ残った。
拾った子でも、預かっている子でもない。
娘。
「そうかい」
店主はエルナへ軽く笑いかけた。
「母ちゃんとはぐれるなよ」
「うん」
普通だった。何も怖くない。
エルナは少しだけ安心した。
森の外にいる人が、あの男たちのような人ばかりではない。そのことが、少し嬉しかった。
*
空気が変わったのは、三軒目の店だった。
ロザリーが薬を納めるために立ち寄った、小さな雑貨屋だった。
店主の女は、最初は普通にこちらを見た。
「何か?」
ロザリーは手にしていた布袋を示した。
「頼まれていた軟膏を持ってきたわ」
その声を聞いた途端、店主の表情が止まった。
「……あんた」
ロザリーは何も言わない。
女が目を細める。
「森の?」
周囲の音が、急に小さくなった気がした。
違う。
本当に静かになったのだ。
近くで話していた二人が口を閉じている。棚を見ていた女がこちらを見る。その隣にいた男は、すぐに視線を逸らした。
「魔女……?」
誰かが小さく呟いた。
ロザリーは動かなかった。
店主の顔に、露骨な嫌悪が浮かぶ。
「そこに置いて」
「代金を」
「置いてから言って」
ロザリーが袋を台へ置く。
店主は、触れないように少し身体を引いた。
まるでロザリーの手が触れたものそのものまで、汚れているみたいだった。
「これで頼まれていた分は全部よ」
「……気味が悪いね」
エルナの眉が動く。
店主は小声のつもりだったのかもしれない。けれど、はっきり聞こえた。
「森で何をして作ってるんだか」
「普通の薬草よ」
「説明なんていらないよ」
女は吐き捨てるように言った。
「頼まれてるから仕方なく受け取ってやってるんだ。置いたなら、さっさと出て行ってくれ」
エルナは店主を見た。
だったら受け取らなければいい。
喉まで出かかった言葉を、ロザリーの手が止めた。肩へそっと触れられる。
「行きましょう」
声はいつも通りだった。
店を出る。
外でも、何人かがこちらを見ていた。
ロザリーが通ると、道の端へ避ける人がいる。反対側へ渡る人もいた。
幼い子どもを自分の後ろへ引く母親もいる。
「近づかないの」
小さな声だった。
エルナには聞こえた。
「なんで?」
「いいから」
子どもは母親に引かれながら、それでも不思議そうにロザリーを振り返っていた。
嫌っている顔ではなかった。
ただ、わからない顔だった。
*
「ロザリー」
「なに?」
「感じ悪い」
人通りが少なくなったところで、エルナは言った。
「そうね」
「怒らないの?」
「怒っているわよ」
思っていた答えと違って、エルナは顔を上げた。
「怒ってるの?」
「もちろん」
ロザリーは前を向いたまま歩いている。
「では、あそこで怒鳴ればよかった?」
「……わかんない」
「怒鳴ったところで、明日からあの人の考え方が変わるわけではないでしょう」
「でも、ロザリー何も悪くないじゃん」
「ええ」
即答だった。
ロザリーは少しだけ歩みを緩める。
「だからといって、あの人たちが正しいとも思っていないわ」
エルナは黙った。
ロザリーは我慢している。
全部受け入れているわけではない。ただ、争わないだけなのだ。
「薬、いらないなら受け取らなきゃいいのに」
「そうね」
「なんで受け取るの?」
「必要な人がいるからでしょう」
「嫌いなのに?」
「魔女が嫌いでも、薬が必要な時はあるわ」
この前、家へ来た男たちの言葉を思い出す。
魔石も同じだ。
魔女からは買いたくない。
でも魔女の力は必要。
エルナには、やっぱり変な話に思えた。
*
帰る前に、ロザリーは布屋へ寄った。
必要なものを買って店を出る頃には、エルナも少し疲れていた。それでも村はまだ珍しくて、視線はあちこちへ向かう。
「ロザリー、あれ何?」
道の反対側を指差した時だった。
横を通った荷車の荷物から、細い枝が飛び出している。気づいた時には、フードの端へ引っかかった。
「あ」
頭が引かれる。
布がずれた。
白銀の髪が、肩へひと房こぼれる。
近くにいた女がこちらを見た。
「あら」
最初はただの驚きだった。
「綺麗な髪――」
そこで言葉が止まる。
女の視線が、エルナの顔へ向く。
認識をぼかす腕輪がある。
それでも、今は強く意識されている。
女の眉が寄った。
「あなた……」
ロザリーがすぐにエルナのフードを戻した。
「失礼」
肩を抱き、その場を離れる。
速い。
走ってはいないけれど、いつもより明らかに歩幅が大きい。エルナも黙ってついていく。
何本か道を曲がり、人の少ない場所まで来てから、ロザリーが足を止めた。
しゃがみ込み、フードをもう一度確かめる。
「怪我は?」
「ない」
「髪は?」
「引っ張られただけ」
「そう」
ロザリーが息を吐く。
その顔が、少し青ざめていた。
「ごめん」
「あなたのせいではないわ」
「でもフード取れた」
「事故でしょう」
ロザリーはそう言ったあと、エルナの頬に手を添えた。
「でも、これからはもっと気をつけて」
「うん」
「人前では、絶対に外さないこと」
いつもより強い声だった。
エルナは頷く。
「私が魔女だってわかるから?」
「ええ」
「ロザリーみたいになる?」
ロザリーの手が止まった。
少しの沈黙。
「……そうならないようにしているの」
エルナは何も言えなくなった。
*
村を離れると、人の声は少しずつ遠ざかっていった。
畑を抜け、道が細くなる。やがて木々が増えて、いつもの森へ戻る。
エルナは今日見たものを思い返していた。
焼きたてのパン。走っていた子どもたち。たくさんの店。水を汲み上げる魔石。知らない果物。荷車。
面白いものはいっぱいあった。
村そのものが嫌だったわけではない。
最初の店のおじさんは普通だった。子どもたちも普通だった。
ただ、ロザリーが魔女だとわかった瞬間の、あの空気だけが嫌だった。
人が離れていく。
見ていた人が目を逸らす。
さっきまで普通だった相手が、急に触れたくないものを見るような顔をする。
エルナはロザリーの横顔を見る。
深いフード。
顔を隠す布。
腕輪。
森の中では、どれも必要ない。
*
家へ着くと、ロザリーはまず扉を閉めた。
「もう取っていいわよ」
エルナはすぐにフードを脱いだ。押し込められていた白銀の髪が肩へ落ちる。
「暑かった」
「でしょうね」
ロザリーも布を外す。次にフードを取ると、長い栗色の髪が現れた。
いつものロザリーだ。
エルナは自分の腕輪を外した。
小さな魔石は、まだ淡く光っている。
「ここではいらないね」
「ええ」
ロザリーが答える。
エルナは窓の外を見る。
見慣れた森。
木々しかない。
人の声も、店も、パンの匂いもない。
今までは、森の外の方が広い世界なのだと思っていた。それはきっと間違っていない。外には、自分の知らないものがたくさんある。
それでも。
「ここなら、隠さなくていいね」
エルナが言う。
ロザリーは少しだけ目を細めた。
「ええ」
それだけだった。
森へ帰ってきてから、エルナは初めて深く息を吸った。
息を止めていたつもりなど、なかったのに。




