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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第7章 それぞれの魔女
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第124話 雨のあとの土


 水路の先で、男が畑の中へ下りた。

 ルークもそのあとに続き、畝の間を覗き込んでいる。


「こっちにも入りました。見てやってください」


 男に声を掛けられ、エルナは小屋の軒先を出た。

 雨の中を水路沿いに歩いていく。ルークのそばまで来ると、畑へ分かれた細い溝にも、水が流れ込んでいた。


 こちらに植えられていたのは、朝に見た苗より大きな豆の株だった。

 葉が垂れ、縁の乾いたものもある。男はそのうちの一本のそばへ屈み、株元の土を指で少し掘った。


「朝の水は、こちらにも?」


 エルナが尋ねると、男は首を振った。


「苗の方を先にしたもので、こっちまでは足りなくて。どうにか運んではいたんですがね」


 水が溝を満たし、畝の土へ染みていく。

 男は掘ったところの土を戻すと、茎へそっと触れた。


「まだ、生きてますから。これだけ水が入れば、持ち直します」


 そう言ってから、隣の畝へも顔を向けた。

 先ほどまで水路をさらっていた女の人が、こちらへ歩いてくる。


「どうですか」


「間に合ったよ。こっちも残せる」


 女の人は足を止め、濡れていく畝を見た。


「……よかった。本当に」


 男が立ち上がった。

 手についた土を軽く払い、ルークへ奥の溝を示す。


「あちらへも回したいんです。もう少し、手を貸してもらえますか」


「はい。どこをよければいいですか」


 ルークが鍬を持ち直した。

 女の人も、その先へ歩き始める。エルナは足元に流れてきた葉を拾い、水路から離れたところへ置いた。


 雨に打たれても、垂れた葉はまだそのままだった。

 その下へ、次々に水が届いていく。


 エルナはしばらく畑を見てから、小屋へ戻った。


「奥の豆にも、水が入りました。持ち直すだろうと、おっしゃっていました」


 イネスが畑の方を見た。


「そうですか。……よかったです」


 その声を聞いて、エルナも頷いた。

 軒先から見える向こうで、男がルークへ何かを教えている。二人が脇へよけると、その先へも水が流れていった。


     *


 小屋へ戻ってからも、雨はしばらく降り続いた。

 畑のあちこちから、水が入ったと声が届く。池を見ていた人も、時折こちらへ来て、水のたまり具合を伝えてくれた。


 イネスは池の岸まで行き、畑へ流れていく水と、溝から入ってくる水を見た。

 案内してくれた男も、畑から戻ってきた。


「こちらは、もう十分です。池にも、これだけ残れば」


「では、このあたりで止めますね」


 降り続いていた雨が、少しずつ弱まった。

 草を打つ音の間が空き、やがて、水路を流れる音の方が大きく聞こえるようになった。

 軒の端には、まだ雫が続いている。


 小屋へ戻ると、イネスは軒下の腰掛けへ座った。

 長く息を吐き、差し出された木の杯を両手で受け取る。


「ありがとうございます」


 水を飲んだあとも、すぐには立ち上がらなかった。

 そばで続いていた魔力の動きは、もう収まっている。イネスは杯を膝へ下ろし、肩の力を抜いた。


 エルナも隣へ腰を下ろした。

 女の人が礼を言って、水路の方へ戻っていく。ルークはまだ向こうで、鍬についた土を落としていた。


 濡れた土の匂いがする。

 小屋の前には、さらった枝や葉が積まれていた。その脇を、人が空の桶を抱えて通っていく。


 しばらく休んでから、エルナは水路の曲がりへ目を向けた。

 朝、覚えておいた石がある。


「先ほどのところ、私が見てきましょうか。イネスさんは、もう少し休んでいらしてください」


 イネスは杯から顔を上げた。


「私も、一緒に見たいんです」


 手元の水をもう一口飲んでから、続ける。


「雨のあとのことも、気になっていましたから。今日は、エルナさんがどう感じるのかも、聞けますし」


「……はい。では、ゆっくり行きましょう」


「ええ。足元も、滑りそうですから」


 イネスは残りの水を飲み、杯を返して立ち上がった。

 エルナも鞄を持ち、ルークへ声を掛けた。


「イネスさんと、少し見て回ってきます」


「分かった。俺は、こっちを片づけてるから」


 ルークのそばには、畑を案内してくれた男がいた。

 二人が道具を小屋へ運んでいくのを見て、エルナはイネスと水路沿いの道へ向かった。


     *


 平たい石の上にも、雨の水が残っていた。

 エルナはそのそばへ立ち、朝と同じ畑の縁へ目を向けた。


 濃く淀んでいた魔力の感じが、ずいぶん和らいでいる。

 朝、ここで足を緩めた時には、もっと強く気になった。


「ここは、かなり薄くなったように思います」


 そばにいるイネスへ、小声で伝えた。


「ええ。私も、そう感じます」


 二人は水路に沿って歩いた。

 少し進むと、また淀んだ感じがある。朝ほど強くはない。それでも、先ほど石のそばで感じたものとは違っていた。


 エルナが足を止めると、イネスも立ち止まった。


「こちらは、まだ気になりますね」


「はい。さっきのところでは、ずいぶん和らいだと思ったんですが」


 水路を流れる水が、畑へ分かれていく。

 土も、道端の草も濡れている。

 エルナはそこからもう少し歩き、先の方も確かめた。


 薄くなったところの間に、まだ淀みを感じるところがある。

 ずっと同じように残っているのではなかった。


「残っているところが、疎らにあるんですね」


「そうですね。池のそばも、見てみましょうか」


 池の岸へ戻ると、朝には出ていた土の一部が、水に隠れていた。

 向こう岸の溝からは、まだ細く水が流れ込んでいる。そばの男が、溝へ寄った葉を取り除いていた。


 池のそばの草地でも、二人は朝歩いたところをたどった。

 こちらも淀みは和らぎ、まだ感じるところが疎らに残っている。エルナは気になったところで足を緩め、イネスと感じたことを確かめ合った。


 池の方から声がして、イネスが顔を上げる。男が手を振り、たまった水の方を示していた。

 イネスも手を上げて応じた。


「今日、一緒に歩いていただけて、よかったです」


 草地を離れる時、イネスが言った。


「今までは、あとでヴィオラに話しても、私がこう感じたとしか言えませんでしたから」


「私も、お話で聞いていた時より、違いが分かりました。雨の前とあとを、同じところで感じられて」


 エルナはもう一度、歩いてきた草地へ目を向けた。


 小屋へ戻る道では、女の人が畑から上がってくるところに会った。

 豆の方にも、もう十分に水が回ったという。イネスがその話を聞き、エルナも一緒に畑の方を見た。


 ルークは男と、小屋の脇で話していた。

 こちらに気づくと、しまい終えた道具から離れて歩いてくる。


「どうだった?」


「あとで、お話ししますね」


「うん」


 ルークは上着と鞄を取りに小屋へ入った。

 イネスは、池の出口を閉じてきた人から、残った水の様子を聞いている。

 エルナも鞄を持ち直し、その話が終わるのを待った。


     *


 馬車が村を離れるまで、道のそばに人が残っていた。

 窓から手を振るイネスに、何人もが手を振り返す。


 人の姿が見えなくなってから、ルークが口を開いた。


「さっき、畑の話を聞いたんです。エルナたちが、池の方へ行っている間に」


 イネスが窓から顔を戻した。


「あの豆、もう抜いてしまうことも考えていたそうです。これ以上、水が足りなければって」


 エルナは、水の入っていく畝を思い出した。

 男が土を掘り、まだ生きていると確かめた株が、何列も並んでいた。


「まだ育てられるって、俺にも何度も言ってくれて。片づけの途中でも、また畑を見に行っていました」


 ルークの声が、少し明るくなった。


「俺まで、嬉しくなりました。あそこで手伝えて、よかったです」


「……そうでしたか」


 イネスは座席へ深く腰を下ろしていた。

 その顔に、笑みが浮かぶ。


「間に合って、よかったです。あの方たちが、また育てていけるなら」


 エルナも、あの畑に水が届いた時には嬉しかった。

 朝に見た、苗の周りだけ濡れた土を覚えている。限られた水を運び、それでも残せないかもしれないと思っていた人たちのところへ、今日は雨が降った。


 その雨の間、イネスはずっと魔法を使っていた。


 エルナは、御者のいる前方から少し身を引いた。

 車輪の音に紛れるほど声を落とし、向かいのイネスへ尋ねた。


「イネスさん。少し、お聞きしてもいいですか」


「はい」


「私も、誰かを助けられて嬉しかったことはあります。魔法を使って、守りたいと思ったことも」


 けれど、自分がそうした時の気持ちと、目の前の人の思いが、同じなのかは分からなかった。

 雨を求める便りを受け取り、何度も畑へ向かう。そのたびに、自分の命を使うと知っていて。


「イネスさんは、どうして、このお仕事を続けていこうと思われたんですか。そのたびに、ご自分の命を使って……」


 イネスは少し黙っていた。

 車輪が、道の上で音を立てている。


「王宮へ伺った時、ユリウス殿下に尋ねられたんです。私が、これから何をしたいのかと。魔法を使わずに暮らしてもいいと、おっしゃっていました」


「それで、イネスさんは……」


「困っている方のために、魔法を使いたいとお答えしました」


 イネスの声には、先ほど畑の話を聞いた時と同じ柔らかさがあった。


「あの方たちが、また畑を育てていけるなら……そのために、自分の命を使いたいんです」


 エルナは頷いた。


「それが、償いにもなるのかもしれないと、思っているんです」


「……償い、ですか」


「ええ」


 イネスの声も低かった。


「魔女だと分かっただけで、ひどく恐れたり、嫌ったりする人がいますね」


「……はい」


「人がそこまで思うのなら、昔の魔女が大勢の人を殺したという話も、本当だったのかもしれない。そう思うことがあるんです」


 馬車が揺れた。

 イネスは一度言葉を切り、揺れが収まってから続けた。


「それなら、魔女である私が、人のために命を使うことも……償いになるのかもしれません」


 エルナは、すぐには返事ができなかった。

 目の前にいるのは、畑へ雨を降らせ、礼を言われて帰ってきた人だった。


「でも……イネスさんが、したことではないのに、ですか」


 尋ねてから、言葉が強くなかったかと気になった。

 イネスはこちらを見ていた。


「ええ。私がしたことでは、ありませんね」


 少し間があった。


「それでも、自分も魔女なのだと思うと……遠い昔のことだからと、それだけでは済ませられなくて」


 イネスは、言葉を選ぶようにゆっくり話した。


「もし本当にあったことなら、今、私にできることを、人のために使いたいんです。それが、私には償いのように思えるんです」


 エルナはその言葉を聞いていた。

 イネスの言う昔の魔女を、自分は知らない。

 その人たちのしたことと、自分が今ここで生きていることは、エルナの中では、まだつながらなかった。


「助けたいと思うのは、分かるつもりです。でも、昔の魔女のことと、自分が魔法を使うことを結びつけては、考えたことがなくて……」


「エルナさんは、どんなことを思われたんですか。守りたくて使った時に」


「昨日お話しした、ラーデンの火事で……」


 イネスが頷き、続きを待った。


「好きなお店も、知っている人もいる街で。火が広がっていくのを見て、なくなってしまうのが嫌でした」


 燃えていた屋根や、火の粉の飛んでいく先を、今も覚えている。

 水を運ぶ人がいた。土をかけ、柵を倒し、人を逃がそうとしている仲間がいた。


「私も、命が減るのは怖いです。でも、あの時は、使いたかったんです。あの街を守りたくて」


 隣で、ルークが静かに聞いていた。

 目が合うと、彼は一度頷いた。


「みんなで、火を止めました」


「……それは、本当によかったです」


 イネスが息をついた。

 エルナは、自分の膝に置いた手を見た。

 水路で拾った葉の泥が、爪の端に少し残っている。


 イネスの言う償いを、自分も同じように感じられたわけではない。

 けれど、それを尋ねても、この人は話をやめなかった。エルナがどう思って使ったのかも、聞いてくれた。


「その街へ、また帰られるんですね」


 イネスの声に、エルナは顔を上げた。


「はい。まだ、帰る日は決めていませんけど」


「どんなところなのか、また聞かせてくださいね」


「……はい。お店のお話も、してしまうかもしれませんけど」


「ええ。そういうお話も、聞きたいです」


 エルナは、そばのルークへ目を向けた。


「まず、パン屋さんでしょうか」


 ルークがイネスへ顔を向けた。


「俺も、好きな店なんです」


 エルナは、棚に並んだ木の実パンと、店で迎えてくれるハンスやリリアのことを思い浮かべた。


 車輪の音を聞きながら、どこから話そうかと考えた。




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