第121話 残された言葉
Side:ルーク
「その日記には、獣のことも書かれているんですか」
ルークが尋ねると、ヴィオラが頷いた。
「ええ。谷で見た獣が、以前とは違ってしまったと書いているわ」
少し間を置いてから、ヴィオラは日記の言葉を続けた。
『世を巡る力、滞りなくあれば、草木も獣もその生を営む。
されど、ひとたび淀めば、その地の命、やがて常の姿を失う。
あの谷にて見た獣も、かつては人を恐れ、山を下りぬものであった。
我らを災いと呼ぶ者は多い。
されど、この兆しを顧みぬままならば、人はやがて、己が住む世の焼けゆくを見ることになろう。』
「……私たちが見たようなことが、昔にも起きていたんでしょうか」
エルナが言った。
ヴィオラは、彼女へ顔を向けた。
「あなたたちも、変わった獣を見たの?」
「ラーデンで、身体から火を撒く猪と戦いました」
ルークが答えた。
「倒したあとも、燃え移った火が消えなくて。世が焼けると聞いて、あれを思い出しました」
「あの猪の中にも、その周りにも、濃く淀んだ魔力を感じました」
エルナが続けた。
「獣の身体の中にも、淀みがあったのね」
ヴィオラの言葉に、エルナが頷く。
「どうして、火を出すようになったんでしょう」
イネスが尋ねた。
「研究所でも、まだ分かっていないそうです。火や強い熱を出す獣を、仮に『焔獣』と呼んで、調べていました」
エルナが答えた。
「日記の獣が、その猪と同じだったかは、この文章だけでは分からないわ。けれど、あの人も、獣の変わりようを見て、先を恐れていたのでしょうね」
ヴィオラの返事を聞き、エルナが口を開いた。
「この言葉を残した人のことは、ほかにも分かったんですか」
「ええ。ずっと昔の人で、魔女だと知られないよう、昼間はひっそり身を隠していたようね。日記には、夜に外を歩いたことが、何度も書かれているの。その人が歩く先では、曇っていても、雨が降っていても、星空が現れたそうよ。人が探しているものがあれば、天から一筋の光が差して、その場所を示したとも書かれていたわ」
ルークは、夜道の先に光が立つところを思い描いた。
雲に覆われていた空が開け、頭の上に星が見える。探していたものが、その下にある。
「探し物も、見つけていたんですね」
エルナが言った。
「ええ。でも、その人の名前は、処刑された人たちの記録にもあったの。星の魔女という呼び名も、そこに書かれていたわ」
エルナは、ヴィオラを見たまま黙った。
「……魔女だったから、ですか」
「ええ。その頃は、魔女だというだけで処刑されることが、今よりもずっと多かったの」
ヴィオラの声は、星空の話をしていた時よりも低かった。
「……昼間は、身を隠していたんですよね」
エルナが言った。
「魔女だと知られないようにしていたのに」
「ええ。記録に名前を見つけた時は、私も、しばらく先を読む気になれなかったわ」
ヴィオラは、そこで言葉を切った。
魔女が処刑されていたことは、ルークも聞いていた。
今は、夜道を歩き、誰かの探し物を見つけていた人のことを聞いている。どんな思いで日記にあの言葉を残したのかまで、考えていた。
ルークは、卓の端へ目をやった。
エルナが畳んだ髪布と、外した腕輪が置かれている。
この部屋に入るまでは、彼女も髪を隠していた。
膝に置かれていたエルナの手を、ルークはそっと握った。
彼女がこちらを見て、ルークの手を握り返した。
「……日記は、残ったんですね」
ヴィオラへ向き直り、エルナが言った。
「魔女たちが書き残したものは、ほかにもあったそうよ。でも、その訴えも書物も、多くは処分されてしまったの。この日記は処分を免れたけれど、魔女の書いたものだからと、あとから禁書庫へ収められたの」
ヴィオラは続けた。
「薄い、小さな本よ。ただの日記だと思われて、見逃されたのかもしれないわ」
「この方の言葉が、残っていてよかったです」
「ええ。……できることなら、本人に聞いてみたかったわ。あの谷で何があったのか、何を見て、あの言葉を書いたのか」
「私も、お話を聞いてみたかったです」
エルナは小さく頷いた。
ルークも、つないだ手に目を落としてから、向かいへ顔を戻した。
「ヴィオラからあの言葉を聞いて、雨を降らせてきた土地のことを、思い返したんです」
イネスが言った。
「雨を喜んでもらえると、私もほっとするんです。でも、また水が足りないと便りが来ると、あの畑はどうなっているんだろうと、気になってしまって」
ルークにも、井戸のそばで会った畑の人の顔が浮かんだ。
あの豆の畑は、今どうなっているだろう。
「それで、薬草や獣のことも、尋ねるようになったんですか」
エルナの問いに、イネスが頷いた。
「ええ。初めは、淀みのせいで雨が降らなくなるのかと思ったんです。でも、雨が降っている最中にも、淀みを感じたことがあって」
「イネスさんの雨ではなく、自然の雨の中でも、ですか」
「ええ。それで、草や獣には何か起きていないか、気になったんです。日記には、『その地の命』とありましたから」
イネスは続けた。
「尋ねてみると、いつもの場所で薬草があまり採れなくなったという人がいました。別の土地では、畑に入る獣が増えたとも。魔獣の被害が出ているところもあるそうです」
「水が減ったという話だけでは、なかったんですね」
ルークが言うと、イネスは頷いた。
「ええ。水不足だけではなくて、草や獣にも、淀みが影響しているのかもしれませんね。ヴィオラとも、そんな話をしていたんです」
「私も、水があるところで、気になったことがあります」
エルナが言った。
「どんなところですか」
「こちらへ来る途中の、峠の水場です。石の間から出た水が、浅い槽に溜まっていました。溢れた水が溝へ流れて、草も育っていたんです。でも、道中の森で濃く感じたところと、似た感じが少しだけありました」
ルークも、その水場を覚えていた。
「斜面の土は乾いていたんですが、水の流れる溝に沿って、青い草が続いていました。俺にも、よく育っているように見えました」
「淀みは感じても、草は青かったのね」
ヴィオラが言うと、エルナは頷いた。
「はい。イネスさんの雨で、淀みが和らいだところでは、草の様子も変わるんでしょうか」
「草の変化までは、まだよく見ていなくて。雨を降らせても、淀みが残るところはあるんです。和らぐところと何が違うのか、私も知りたいです」
エルナが、イネスへ尋ねた。
「私も、その違いを感じてみたいです。イネスさんが雨を降らせるところへ、ご一緒できませんか。降る前と降ったあとの、同じ場所を歩いてみたいんです」
「ええ、ぜひ。近いうちに、王都のそばへ伺う予定があるんですよ。エルナさんがどう感じるか、私も聞いてみたいです」
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
エルナがルークを見た。
「俺も行きたいです」
ルークはイネスへ向き直った。
「現地の方にも、話を聞けますか。水がいつ頃から減ったのかや、畑と獣の様子を」
「お話を聞けるように、頼んでみますね。雨の前に、お二人と土地を見て回りたいことも、伝えておきます」
前に立ち寄った村でも、畑の人に尋ねて、初めて分かったことがあった。
今度の土地でも、そこに暮らす人の話を聞きながら、エルナと一緒に畑や水場を見てみたかった。
「それなら、その前に私のところにもいらっしゃい」
ヴィオラが言った。
「さっき、山で薬草を採って、薬も作ると言っていたでしょう。実際に使うものを見ながら、もっと聞かせてほしいわ」
「薬を作っているところを、見せていただけるんですか」
「ええ。あなたが普段どうしているかも、教えてちょうだい」
エルナの顔が、少し綻んだ。
「はい。私で分かることでしたら」
「ルークも、一緒にどうぞ」
「ありがとうございます。俺も、見てみたいです」
「ルークも、薬草の仕事をするの?」
「俺は、分けたり束ねたりするのを、少し手伝ったくらいです」
エルナが、ルークへ顔を向けた。
「手が空くと、やってくれるんです」
「じゃあ、見ているだけでは済まないかもしれないわね」
「俺にできることなら」
ヴィオラが笑い、イネスも口元を緩めた。
エルナと目が合い、ルークも笑った。二人と初めて顔を合わせた時より、ずっと話しやすかった。




