第114話 六人の暮らす家
翌朝、窓から入る光が、炉に残った灰を照らしていた。
エルナは敷布を畳み、毛布と一緒に鞄へ括りつけた。
ルークも荷の紐を締め、立ち上がる。
「忘れ物、ない?」
エルナは窓の下の台を見た。
昨日使った布が、一枚残っている。それを畳んで鞄へ収めた。
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、あの子たちにも声を掛けていこうか」
エルナが頷き、鞄の留め具へ指を掛けた時、外で声がした。
「ロイ! 誰か!」
顔を上げると、ルークも戸口の方を見ていた。
二人で外へ出る。家の脇を、赤い巻き毛の男の子が走ってきた。昨日会った三人よりも小柄で、片方の袖が肘までずり上がっている。
男の子はルークに気づくと、足を止めかけた。
「猪が、あっちに!」
腕が伸びた。
示された先は、家並みのすぐ脇にある林だった。木々の間で草が揺れ、誰かの声がする。
ルークが走り出した。
エルナは薬の入った鞄を肩へ掛け、男の子と続いた。最後の家の角を曲がると、木の間から、青みを帯びた黒髪と明るい金髪が見えた。
ノアと、トビだった。
ノアの足が木の根に引っかかった。
身体が前へ倒れ、土の上へ手をつく。トビが戻って腕を掴んだ。その後ろで、藪が大きく揺れた。
低い鼻先が、草を押し分けて出てきた。
トビの動きが止まった。
ノアの腕を掴んだまま、近づく猪を見ている。
「そこにいて!」
ルークが二人の前へ入った。
剣を抜き、横へ一歩踏み出す。猪の鼻先がそちらへ向いたところで、刃が振られた。
猪の身体が横へ崩れた。
土を蹴った脚が草を払い、やがて動かなくなる。
ノアは地面に片手をついたまま、ルークを見上げていた。
ルークは剣を下ろしきらずに、林の奥へ目を向けた。やがて刃を拭って鞘へ収め、二人を振り返る。
「怪我は?」
トビは答えなかった。額に落ちた金髪の下で、大きな目を見開いている。
ノアの腕を握っている指だけが、少し緩んだ。
エルナはそばへ駆け寄り、膝をついた。
「痛いところを見せてもらえますか」
男の子は片脚を少し動かした。
膝のところで服が擦り切れ、その下に土がついている。掌にも細い傷があった。
「……ここ」
「洗いますね。少し、しみると思います」
エルナは水袋を出した。
ノアが掌をこちらへ向けた。目尻の下がった目が、エルナの手元を追っている。
少しずつ水を掛け、傷のまわりの土を落とした。
すぐ後ろで、息を吸う音がした。
「すげえ……」
一緒に走ってきた男の子が、倒れた猪を見ていた。
ルークを見上げた顔には、鼻筋から頬にかけてそばかすが散っている。
「一回で倒した。今の、どうやったの?」
「ラルフ!」
呼び声に振り向くと、ロイが走ってきた。
長い棒を握り、まずラルフへ、それからノアとトビへ目を向ける。
「ほかは。怪我してないか」
「平気」
トビが小さく答えた。
ロイは太い眉を寄せ、ノアのそばへ屈んで擦り切れた膝を見た。
「歩ける?」
「歩ける」
「膝も、先に洗わせてください。まだ、土がついていますから」
エルナが言うと、ロイは少し身体を引いた。
けれど、ノアのすぐそばには残っていた。
「助けてくれたんだよ」
ラルフが言った。
「猪が来て、ノアが転んで、それで、ばっと入ってさ」
「ラルフ、先に息しろ」
「してるよ」
言い返してから、ラルフは口を開けて息をついた。
家の方から、足音が近づいた。
女の子が二人、こちらへ来る。小さい方の子は、淡い亜麻色の髪を耳の下で二つに結び、前を歩く女の子の服を片手で掴んでいた。
「ノア?」
前の子が、エルナの手元を覗き込んだ。
「血、出てる」
「転んで、少し擦れたんです。今、洗っています」
「薬、持ってる? 塗るやつ」
そう言って、女の子が顔を上げた。
赤みを帯びた、くすんだ茶色の髪だった。煉瓦に似た色の髪が肩に触れ、後ろで一つに結ばれている。結び目には、細い布の紐が見えた。
目が合った。
瞳は、菫色だった。
頬には幼い丸みが残っている。けれど、その顔は目を留めずにはいられないほど整っていた。
魔女だ。
薬入れへ掛けた指が止まった。
「……持ってる?」
女の子の目が、もう一度ノアの膝へ下りた。
エルナもそちらを見た。洗った傷の端に、まだ小さな土の粒が残っている。
「はい。ありますよ」
布の角を濡らし、残った土をそっと拭った。
女の子が、膝の破れた布を傷からよけてくれた。エルナは薬の蓋を開けた。
「ミラ、ピアを少し離して」
ロイが言った。
ミラと呼ばれた子は振り返り、服を掴んでいた小さな手へ自分の手を重ねた。
「ピア、こっち。ノアの脚に当たっちゃうから」
小さい子が、一歩下がった。
エルナは薬を塗り、膝の傷へ布を当てた。ノアは脚を伸ばし、巻き終わるまでじっとしていた。
布の端を留めてから、洗っておいた掌にも薬を塗る。
そばには、六人の子供がいた。
*
「肉が食べたくて、何か捕ろうと思ったんだ」
ノアの掌へ布を巻いている間に、ラルフが話し始めた。
「小さい猪を見つけて、三人で追い込もうとしたんだ。そしたら、あそこから大きいのが出てきた」
林の中を指す。
ロイはそちらを見てから、トビの顔を確かめた。トビはノアの脇に座り込み、膝に両手を載せていた。
「俺、ロイたちを呼びに行こうとしてたんだけど、そしたら……」
ラルフがルークへ向き直る。
「名前、何ていうの」
「ルーク」
「ルーク。剣、見せて」
「あとでな。先に、こっちを何とかしよう」
ルークは猪を示した。
ロイも立ち上がり、その身体を見た。
「肉にできる?」
「できるよ。切るものはあるから、作業できる場所を借りられるか」
エルナは布の端を留め、ノアの手を離した。
「私も、料理を手伝えます。皆さんも一緒に食べませんか」
ピアが顔を上げ、丸い目でエルナを見た。
ミラはその手を握ったまま、ロイを見ている。
ロイは仲間たちと、倒れた猪とを見比べた。
それから、家並みの奥を示した。
「家の前なら。火も使える」
ルークが頷いた。
「分かった。そこでやろう」
「中には、勝手に入るなよ」
「勝手には入らないよ」
ロイはノアへ手を差し出した。
ノアが掴まり、ゆっくり立ち上がる。片脚へ体重を掛けてから、小さく頷いた。
「ピア、ミラと一緒にいろ」
ロイは二人を先に家へ向かわせた。
近くの家の壁際から古い板を引き出すと、ルークと猪を載せる。縄を掛けた前の方をルークが持ち、ロイとトビが後ろを押した。
ラルフも横へついた。
けれど、すぐにルークの腰へ目が向いた。
「それ、重い?」
「剣?」
「うん。ずっとつけてるんだろ」
「慣れれば、気にならないよ」
「俺も持てるかな」
「ラルフ、そっちの端、引っかかってる」
ロイに言われ、ラルフが慌てて板へ手を戻した。
エルナはノアと、その少し後ろを歩いた。
ノアは足元を見ながら、自分で歩いている。曲がるところへ来ると、先に顎を向けて教えてくれた。
家の前には、石で囲った火の跡があった。
壁際には太さを分けた薪が積まれ、屋根の残る軒下へ、水の桶が寄せてある。
ロイが板の置き場所を決めた。
ノアを壁際の低い台へ座らせると、トビへ桶を示す。
「水、こっちに持ってきて」
ミラは戸を開け、器を取りに入った。
その向こうに、布の敷かれた床が見えた。壁沿いへ寄せた毛布の端が重なり、丸めた服が並んでいる。戸口には、膝のところへ別の布を当てた小さなズボンが掛けられていた。
「ミラ、布も」
「分かってる」
返事があり、戸口から器が渡された。
エルナは受け取った器を、乾いた場所へ置いた。
*
ルークが作業を始めると、ラルフは板のそばへしゃがんだ。
刃物の動きを覗き込みかけ、ロイに襟を引かれる。
「近い」
「あ、うん」
少し下がったところへ、ミラが布の束を置いた。
「これ、使える?」
「はい。ありがとうございます」
エルナは手を洗い、布を広げた。
ルークが切り分けた肉を受け取り、先に焼いて食べる分を取り分ける。
ピアが、両腕に枝を抱えてきた。
下の方から一本ずり落ち、足元へ転がる。
ロイが拾い、太い枝を自分の方へ寄せた。
「こっちでいい。細いのを持ってきて」
「これも燃えるよ」
「燃えるけど、持ちにくいだろ」
ピアは残った枝を抱え直し、火の跡のそばへ置いた。
ロイが乾いた枝を組んで火を起こした。細い薪を足している横で、トビが板の汚れた端へ水を掛けていた。
「塩、そんなにないぞ」
肉を見ながら、ロイが言った。
「私たちも少し持っています。料理に使う分なら、足りますよ」
エルナは鞄から小さな包みを出した。
必要な分だけ取って肉へ振り、残りを包み直す。
ミラが、細い枝の束を持ってきた。
「串、これでいい?」
「はい。先を削れば使えそうですね」
束ねていた紐をほどく手元に、細かい縫い目が見えた。細く折った布を、縫い留めて作ったものらしい。
「その紐も、自分で作ったんですか」
「うん。裂いただけだと、ほつれるから」
ミラは端から出た糸を指で押し込み、紐を畳んだ。
髪を結んでいるのも、同じような布の紐だった。
枝はロイが受け取り、先を削ってくれた。
エルナは肉を小さめに切り、串へ通していく。ピアが隣へ座り、一本ずつ串を渡してくれた。
火が落ち着いた頃、肉を通した串も揃った。
エルナが焼き始めると、ルークも肉を分け終えて手を洗い、そばへ来た。串を受け取り、並んで火へかざしていく。
エルナは鞄から小瓶を出した。
セレドで買った、乾燥した香草だった。少し取り、指の間で揉んでから肉へ散らす。
「それ、葉っぱ?」
ピアが尋ねた。
「はい。料理に入れるものです。いい匂いがするでしょう」
小瓶を少し離して差し出すと、ピアは鼻を近づけた。
すぐにミラの袖を引く。
「匂いする」
ミラも顔を寄せた。
エルナは二人が嗅ぎ終えるのを待ち、蓋を戻した。
ラルフは、ルークの隣へ移っていた。
「ルークって、冒険者なの?」
「そうだよ」
「剣は、どこで習ったの?」
「子供の頃は、孤児院で。年上のやつらと、木の棒を振ってたよ」
「何人いたの」
「一緒にやってたのは――」
「皆、あんなふうに倒せる?」
「人によるよ。得意なことも違うし」
「俺にも教えて」
ルークが肉を返してから、ラルフを見た。
「少しなら。持ち方からになるけど」
「持ち方は分かるよ。こうだろ」
拾った枝を両手で握る。
ルークはその手を見て、小さく笑った。
「じゃあ、その次からだな」
「いつ?」
「今は肉を焼いてるから、あとで少しだけ。使うのは木だよ」
「木でもいい!」
「ラルフ、器」
ロイが呼んだ。
ラルフは枝を置き、ミラのそばへ走っていった。
*
子供たちの器は、六つあった。
深さも大きさも揃っていない器へ、焼けた肉を分ける。エルナとルークも自分たちの器を出し、火から少し離れて座った。
ピアが肉へ手を伸ばしかけ、ミラに止められた。
「熱いよ。まだ」
ミラは小さい方の肉を端へ寄せ、少し冷ましてから渡した。
ピアが両手で受け取り、端へ歯を立てる。
ラルフは口へ入れてから、頬を膨らませた。
何か言いかけ、先に噛む。隣でトビも器を膝へ引き寄せた。
「中まで焼けてる?」
ロイが尋ねた。
「うん。こっちも食べて大丈夫だよ」
ルークが答え、次の肉を火から上げた。
ロイはそれを受け取り、ノアの器へも分けた。
「もっといるか」
「まだ、ある」
ノアが自分の器を少し持ち上げた。
ロイは頷き、それから自分の分を口へ運んだ。
エルナも、肉をひと口食べた。
熱が舌に触れ、噛むと香草の匂いがした。少しずつ噛み切っていると、向かいでラルフがルークへ顔を向けた。
「冒険者の仕事でも、剣を使うの?」
「使うよ。仕事によるけど」
「猪を倒す仕事もある?」
「あるよ。畑を荒らされて困ってる人から、頼まれたり」
「じゃあ、これも仕事になる?」
ラルフが、皆の器を見た。
「今日は、頼まれたわけじゃないからな」
「俺、呼んだよ」
「そうだったな」
ルークが答えると、ラルフは満足したように、また肉を食べ始めた。
その隣で、トビが顔を上げた。
「冒険者って、いろんな町に行くの」
「行くよ。仕事で行くこともあるし、自分で行きたくて向かうこともある」
「……そうなんだ」
トビはルークの腰の剣へ目を向けた。
しばらく見てから、膝の器を持ち直す。
「俺たちも、今は王都へ向かってるところなんだ」
ルークが続けると、トビはもう一度顔を上げた。
ラルフも隣から口を開きかけたが、今度はロイが先に水の器を渡した。
「先、飲め」
ラルフは受け取り、両手で口元へ持っていった。
「……俺も」
トビの声に、ルークが顔を向けた。
「見てていい? 剣、教えるとこ」
「もちろん。ラルフと一緒においで」
トビは頷いた。口元が、少しだけ緩んだ。
ピアが、自分の器を覗き込んだ。
「お肉、明日もある?」
「残りを乾かしておけば、明日からも食べられますよ」
エルナが答えると、ミラも顔を上げた。
「干すの?」
「はい。小さく、薄く切って、火の熱でよく乾かします。冷ましてから、保存に使う葉で包むんです」
「葉っぱで、いいの?」
「山でも、そうやって保存するんですよ。どの葉でもいいわけではありませんけれど」
エルナは器を脇へ置いた。
足元の土へ細い枝で葉の形を描き、縁の丸い切れ込みと、裏が白っぽいことを話す。
ラルフが、水の器を下ろした。
「あ、それ、ある。石が並んでる坂のとこ」
「この近くですか」
「うん。上がって、曲がったところ。大きい木の下にも生えてる」
彼は家の向こうを指した。
「今から行く?」
「食事が済んだら、見せてもらえますか。同じ葉か、確かめたいので」
「いいよ。俺、分かるから」
ラルフが頷いた。
ミラも土に描いた形を覗き込み、ピアがその横へ、小さな指を置いた。
「これくらい?」
「大きさは、実物を見てみましょう」
エルナは笑い、器を取り直した。
ルークが次に焼けた肉を持ってきた。
ラルフは器を差し出しかけ、それからトビの方へ少しずらした。
「トビ、まだ一個しか食べてない」
「二個」
「小さいのだったろ」
トビが口元を拭い、器を持ち上げた。
ルークが肉を分ける。その様子を見てから、エルナも自分の分をもうひと口食べた。
食べ終わると、ミラが空になった器を重ね始めた。
下を向いた拍子に、結んだ髪が肩へ滑る。ピアに呼ばれて顔を上げると、菫色の瞳が朝の光を受けた。
あの子は、自分が魔女だと知っているのだろうか。
エルナは自分の器を手に取り、立ち上がった。
ミラはもうピアの方を向き、器を重ねる手を支えている。エルナはそのそばへ屈んだ。
「一緒に洗ってもいいですか」
ミラが頷き、水の桶を示した。
エルナが袖をまくると、ピアも自分の袖を引き上げた。片方がまた下がってきて、ミラが折り返してやる。
向こうでは、ラルフが肉のついていた串を集めていた。
何本か拾うたびにルークへ話しかけ、ロイに足元の一本を指されている。
エルナは差し出された器を受け取り、二人と並んで水へ手を伸ばした。




