第113話 誰もいないはずの村
リゼルを出た日は、夕方までに次の宿場へ着いた。
その先の便を確かめ、食べるものを買い足しながら、街道を進んだ。
数日後、教わっていた石橋を渡ると、道の脇に細い道が分かれていた。
ルークが足を止め、先を見た。
「ここだな。橋を渡ったら、左って言ってた」
エルナも、草の伸びた道へ目を向けた。
木々の向こうに、屋根の端が見える。
今朝出た宿場で、この先に村の跡があると教わった。
住む人はいなくなったが、屋根の残っている家を旅人が使うことはあるという。寝具も食べ物も、自分たちで用意するようにと言われた。
その次の宿まで歩けば、着く頃には暗くなる。今日は村跡で休むつもりで、朝に水袋を満たし、食料も確かめてきた。
昼をとうに過ぎ、日が西へ傾いていた。
街道を外れると、足元の草が靴へ触れた。
道の真ん中には土の見えるところもあり、古い車輪の跡が残っている。少し進むと、木々の間から家が幾つか現れた。
戸が片方だけ残っている家。
屋根の端が落ち、壁際に板の積もった家。
その間を通る道にも、草が伸びていた。
向こうの畑らしいところには、低い畝が残っている。何を育てていたのかは、もう分からなかった。
ルークが、近くの家の入口へ顔を向けた。
「誰か、いますか」
返事はなかった。
窓の向こうでも、何も動かなかった。
二人で道を少し進むと、入口の開いた家があった。
屋根は残っている。壁の下の方も、さっきの家ほど崩れていなかった。
ルークが中を覗き、入口から声を掛ける。
「こっちは、使えそうだよ」
エルナもそばへ寄った。
部屋の奥に炉があり、手前には、床板の残っている場所がある。土の出たところには灰が残り、燃えさしの枝が寄せられていた。
「ここで、火を使ったんでしょうか」
「うん。前に泊まった人かな」
ルークは奥へ入り、床を踏んで確かめた。
エルナも続いた。壁際には枯れ葉が吹き込んでいるが、床は乾いていた。
窓には戸板がなく、その下に低い台が残っている。外は、隣の家との間の細い通路だった。
「こっちへ敷けば、二人分、広げられそうです」
エルナが壁際を示すと、ルークも頷いた。
「俺、外も見てくる。すぐ戻るよ」
「はい。私は、ここを少し片づけますね」
鞄を戸口の内側へ下ろした。
外へ括っていた寝具の紐をほどき、敷布と毛布を巻いた束を、その隣へ置く。
ルークも荷を下ろしてから外へ出た。
エルナは床の枝を拾い、枯れ葉を入口の方へ掃き寄せた。
手で払ったところへ掌をつく。細かな砂は残っているが、大きな石や、尖った木片はなくなった。
「ルーク、先に少し食べませんか」
入口の方から、ルークの返事があった。
「うん。薪になりそうな枝を寄せたら、戻る」
エルナは鞄を開き、パンの包みを取り出した。
台の上を布で拭いてから、包みを載せる。水袋も出そうと、もう一度鞄へ手を伸ばした。
窓の方で、布の擦れる音がした。
顔を上げると、包みの端が窓枠の向こうへ引かれていた。
小さな手が見え、すぐに消えた。
「……あ」
エルナは立ち上がった。
窓の外を、小さな背中が通り過ぎる。台の上には、拭く時に使った布だけが残っていた。
取られたのだと分かると、胸のあたりがざわついた。
これから二人で食べるつもりで、ついさっき取り出したものだった。
「ルーク、パンが……」
戸口へ出ると、ルークも家の脇へ顔を向けていた。
隣家との間から、明るい金髪の男の子が飛び出してきた。細い腕に、パンの包みを抱えている。
「ちょっと待って」
ルークが声を掛けると、男の子の肩が跳ねた。
けれど足は緩めず、通りを横切っていく。
ルークは戸口の脇で足を止めた。
エルナもそばへ寄る。鞄と寝具は、開いた入口のすぐ内側にある。
男の子が向かう先には、家と家の間に細い通路があった。
その入口の陰から、別の男の子が顔を出した。パンを抱えた子を見ると、通路の奥へ振り返る。
「ロイ!」
通路の奥から、長い棒を持った男の子が出てきた。黒髪は短く、不揃いに切られている。
ロイと呼ばれたその子は、太い眉を寄せて通路の前へ進み出ると、ルークに向けて棒を構えた。先が細く削られている。
「こっち来るな!」
パンを抱えた子は、ロイの脇をすり抜けた。
「トビ、行け!」
ロイが叫んだ。
トビはそのまま通路の奥へ走り、家の角を曲がって見えなくなった。
ルークは戸口のそばに立ったまま、追わなかった。
「分かった。こっちからは行かない」
ルークがそう答えても、ロイは棒を下ろさなかった。
最初にロイを呼んだ子も、家の陰から出てきた。青みを帯びた黒い髪がまっすぐに垂れ、眉に掛かっている。
手に短い枝を持ち、ロイの斜め後ろへ立つ。トビが逃げていった通路を一度振り返ってから、ルークへ目を戻した。
エルナは戸口の脇へ少し下がった。
ロイの構えた棒の先が揺れている。近づけば身体へ届く高さにあり、肩へ力が入った。
けれど、ロイは通路の前に立ったまま、二人の方へは近づいてこなかった。
ルークの手は、身体の横に下りたままだった。腰の剣には触れていない。
「俺はルーク。こっちは、エルナ」
ロイは何も言わなかった。
「王都へ向かってる途中なんだ。今夜は、この村で休もうと思って」
「誰に聞いた」
「今朝出た宿の人に。屋根の残った家で、旅人が泊まることがあるって」
ロイは、入口の内側へ置いた荷を見た。
「勝手に入んな」
「誰も住んでいないと聞いてたんだ」
「俺たちがいるだろ!」
声が、家の壁へ当たった。
ロイは棒を握り、二人の前に立っている。
「ここは、俺たちの村だ」
ルークは、すぐには答えなかった。
それから小さく頷いた。
「……そうか。君たちが、ここで暮らしてるんだな」
「そうだよ」
エルナは、先ほど通ってきた道を見た。
戸の外れた家も、草の伸びた畑も、誰も使っていないと思っていた。
その家々の間へ、パンを抱えたトビは迷わず走っていった。ロイたちも、奥へ続く通路の前を離れようとしなかった。
ロイの服の袖は、手首より短かった。
片方の肘には別の布が当てられている。棒を握る手には土がつき、指の節が白くなっていた。
「今夜、あの家を使わせてもらってもいいか」
ルークが尋ねた。
ロイはすぐには答えず、二人と、戸口の内側にある荷を見比べていた。
隣の子も短い枝を握ったまま、ルークを見ている。
「……何日いるんだよ」
「今夜一晩。明日の朝には出るつもりだ」
ロイは隣の子へ顔を寄せ、小さく言葉を交わした。声を落としていて、内容までは分からなかった。
やがてロイが棒の先を下げ、開いた入口を示した。
「そこだけだぞ」
「分かった」
「奥の家には、入るなよ」
「うん。勝手には入らない」
エルナも頷いた。
「ありがとうございます。今夜、お借りします」
ロイはまだ棒を両手に持ち、二人を見ていた。
隣の子がロイの袖を引く。ロイは足を少し引き、家の間の通路へ下がった。
「ノア、行くぞ」
枝を持った子が頷いた。
二人の姿も、やがて建物の陰へ隠れた。
ルークが戸口へ戻ってきた。
エルナも部屋へ入り、窓の下の台を見た。
拭く時に使った布だけが、その上に残っている。
「……パンは」
ルークが足を止めた。
「うん。あのままで、いい?」
エルナは、窓から引っ込んだ小さな手を思い出した。
包みを抱えて走っていた腕も、細かった。
「はい。まだ、こちらにもありますから」
エルナは鞄の脇へ座り、残っている食料の包みを取り出した。
ルークも隣へ腰を下ろし、自分の鞄を開く。
「前にも、ああいう子たちに会ったことがあるんですか」
エルナが尋ねると、ルークは顔を上げた。
「あるよ。傭兵の頃も、冒険者になってからも。仕事で行った町で」
出しかけていた包みを膝へ置く。
「俺のいた孤児院では、毎日、飯を出してもらえたから。食べ物を探して回ったことはなかった」
エルナは、一緒に訪ねた建物を思い出した。
庭で遊ぶ子供たちがいて、部屋には寝台が並んでいた。夕飯の支度をしているところだと、パンを受け取ったイダが話していた。
「でも、外へ出てからは見たよ。食べるものがなくて、動けなくなった子も。病気で、そのまま死んだ子もいた」
ルークは短く言って、膝の包みを開いた。
二人の間へ置かれた食べ物に、エルナは目を落とした。
朝、包みを開いて確かめた時には、今日どれを食べるか、次の宿場まで足りるかを考えていた。
今は、家々の向こうへ運ばれた分のことも気になっている。
「あのパンも、すぐになくなってしまいますね」
「うん。何人で食べるかも、分からないしな」
エルナは頷いた。
三人の男の子がいた。そのうちの二人は、パンを持った子を逃がすために、ここへ残った。
奥の家へ入るなと言ったロイの顔を思い出す。あの奥には、ほかの子供たちや、一緒に暮らす大人もいるのだろうか。
「明日の朝、出る前に、もう一度声を掛けてみませんか」
「うん。会えたら、少し話してみよう」
「はい」
さっきは、何と声を掛ければいいのか分からなかった。
こちらへ向いた棒を見て、エルナも身構えた。ロイたちも、二人が何をするつもりか、ずっと見ていた。
今は家の間に、誰の姿もない。
エルナは干し肉を少し切り分け、半分をルークへ渡した。
彼が食べ始めてから、自分も口へ入れる。水を一口飲み、水袋をルークへ渡した。
戸口からは、村へ入ってきた道が見えた。
風が窓から入り、台に置いた布の端を揺らした。
食べ終えると、エルナは残りを包み直し、水袋と一緒に鞄へ戻した。
ルークが立ち上がる。
「暗くなる前に、寝るところを用意しておこうか」
「はい」
ルークが集めてきた枝を炉へ寄せる間に、エルナは寝具を広げた。
窓から入る光が薄くなった頃、ルークが小さく火を起こした。
家々の向こうから、何かを置くような音がした。
エルナは顔を上げたが、戸口から見える道には誰もいなかった。
やがて外が暗くなり、炉の火が寝具の端を照らすようになった。
エルナは炉のそばへ座り、毛布を膝へ掛けた。
あの子たちの眠るところにも、火はあるのだろうか。
戸口の向こうへ目を向ける。
ロイたちの消えた通路は、もう暗がりに紛れていた。




