第112話 峠の向こう
最初の駅へ着くと、御者が客車の戸を開けた。
「ここで馬を替える。休むなら降りていいが、遠くへは行かないでくれ」
ルークに続いて地面へ降りた。
鞄を肩へ掛け直し、エルナは少し膝を伸ばす。客車の前では、厩から出てきた人が馬の手綱を受け取っていた。
御者が引き具を外す間も、馬はその場に立っている。一本ずつ革の帯が外され、脇へ寄せられた。
「こっちへ寄ろうか」
ルークと道を空けると、馬が二人の前を通っていった。
背中には汗の跡がある。厩の方へ顔を向け、手綱を持つ人について歩いていく。
「もう、ご飯でしょうか」
「どうかな。水は、もらえるんじゃないか」
厩の戸の向こうへ姿が消えた。
ほどなく、別の馬が引かれてくる。御者が首の辺りへ手を当て、位置を直してから引き具を掛け始めた。
エルナは、今来た道へ目を向けた。
ここまで引いてきた馬は休み、次の馬が、この先を進む。
「昨日の馬も、こうして替わるんですね」
「うん。次の駅にも、待ってるんだろうな」
建物の脇には、水を使える場所があった。
二人で手を洗い、持ってきたパンを少し食べた。向こうでは護衛の一人が鞍の荷を直し、もう一人が御者と話している。
声を掛けられて戻る頃には、新しい馬が客車の前に並んでいた。
*
その夜は、便の行程で決まっている宿場へ泊まった。
翌朝も、食事を済ませると客車へ戻る。
乗り合わせた人と挨拶を交わし、鞄を座席の下へ収めた。
道は、次第に上りが多くなった。
車輪が石を踏むたび、座席から身体へ揺れが伝わる。ルークの肩へぶつかりそうになって手をつくと、彼も座り直した。
「大丈夫?」
「はい。今のは、少し大きかったですね」
窓の外では、先を行く護衛が曲がり角へ入っていく。
客車から見えなくなってしばらくすると、道の上手に、その姿がまた現れた。
その日も宿場で一夜を過ごし、三日目の朝を迎えた。
御者は、今日は峠の関所を通ると教えてくれた。
馬車が上っていくにつれ、木々の向こうに、空が広く見えるようになった。
幹の間を埋めていた緑が途切れ、灰色の岩が露出している。低い草の生えた斜面を、細い影が流れていった。
エルナは窓へ顔を向けたまま、少し身を起こした。
「ルーク、あそこ……」
彼も窓の方へ寄った。
道が曲がると、斜面の下に、細く続く道が見えた。その先は木々に隠れ、さらに遠くには、色の薄い山が重なっている。
「ずいぶん、上がってきたな」
「さっきまで通っていた道が、あんな下に見えるんですね」
車体が揺れ、見えていた道が窓の下へ隠れた。
エルナは座席へ背を戻した。それでも、顔はしばらく外へ向けていた。
やがて馬車は、道の脇の広くなった場所で止まった。
石を積んだ低い囲いの向こうに、水が引かれている。御者から休憩だと聞き、エルナも鞄を持って降りた。
地面へ立つと、風が頬へ当たった。
外套の裾を押さえ、ルークと、馬車の通る場所から離れる。道端の平らなところまで行くと、上ってきた道が、今度はゆっくり見られた。
木々の間から現れ、岩の陰へ消え、また少し下に続いている。
「私の山では、こんなに遠くまで見える場所は、あまりなかったです」
「木が多いものな」
「はい。歩いていると、次の木や、足元のものばかり見ていました」
採る草や、折れた枝。雨のあとに水の溜まる窪み。
ここから見えている斜面には、足を踏み入れたことがない。岩の向こうへ続く道も、まだ知らなかった。
「向こうへ下りたら、ここも見上げるんでしょうか」
ルークが山の先へ目を向けた。
「見えるところがあるかもしれないな」
「その時、分かるといいですね」
「うん。あそこを通ったって」
エルナは頷き、もう一度道をたどってから、水場へ向かった。
石の間から流れ込む水が、浅い槽へ溜まっていた。
溢れた分は端の溝へ流れ、すぐ下の土を濡らしている。エルナは水へ手を浸し、指の間を通る冷たさに、手首までつけ直した。
溝に沿って、青い草が細く続いていた。乾いた土の見えていた斜面とは違い、ここには小さな葉が幾つも重なっている。
その緑を眺めているうちに、少し眉を寄せた。
「……エルナ?」
そばに来たルークへ顔を上げた。
ほかの客は、少し離れた建物の前で食べ物を広げていた。水場には、二人だけだった。
「ここでも、少し感じます。魔力のことです」
声を落として伝えると、彼も近くへ寄った。
「前に言ってたのと、同じ?」
「はい。でも、ラーデンを出てから通った森で、濃く感じたところよりは、薄いです」
ルークも、溝のそばの草へ目を向けた。
「ここは、青いな」
「はい。よく育っているように見えるんですけど……」
水から手を上げ、布で拭いた。
草の様子と、この感覚に関わりがあるのかは分からなかった。ただ、ここでも、あの森で気になったものを感じる。
「場所によって、違うんですね」
ルークは頷き、水場から周りの斜面へ目を移した。
エルナもその先を見てから、手元の布を畳んだ。
御者の声がした。
エルナは布をしまい、ルークと馬車へ戻った。
*
峠の関所には、先に二台の馬車が止まっていた。
道の脇に石造りの建物があり、その前で、槍を持った人が御者と話している。
荷台の後ろでは、布をめくって中を見せている人もいた。
客車が止まり、前から御者が声を掛けた。
「証を出せるようにしておいてくれ。順が来たら呼ぶ」
向かいの男が、上着の内側から小さな袋を取り出した。
エルナも鞄を膝へ載せ、冒険者証を出す。配達の書付をその下へ重ねた。
ルークも自分の証を用意していた。
前の馬車が動き、二人の乗る客車も少し進んだ。
御者が係の人へ紙を渡し、問いかけに答えている。やがて戸が開き、乗客も降りるように言われた。
鞄を持って地面へ降りた。
先に確認を受ける人の後ろで待っていると、ルークがこちらへ少し顔を寄せた。
「書付、出せた?」
「はい。これです」
重ねた紙を少し持ち上げたところで、係の人に呼ばれた。
二人で前へ進み、冒険者証を差し出す。
「行き先は?」
「まずリゼルへ。そのあとは、王都へ向かいます」
ルークが答えた。
証へ目を落としていた係の人が、二人を見た。
「用向きは」
「知人の紹介で、会いに行く方がいます。それと、リゼルのギルドへ、手紙を届ける仕事を受けています」
エルナは書付を差し出した。
係の人は、届け先と期限を確かめてから、鞄へ目を向けた。
「配達物を見せてくれ」
「はい」
鞄の口を開き、布の包みを取り出した。
示された台へ載せて紐をほどくと、封をした五通が重なっている。
係の人は書付と表書きを見比べ、頷いた。
「戻していい」
手紙を包み直した。
受け取った書付を出しやすいところへ戻し、鞄を閉じる。冒険者証も返され、エルナはしまう前に、自分のものを確かめた。
確認を終えた客から、馬車へ戻っていった。
エルナも乗り込み、ルークの隣へ座る。
外では係の人が道を空け、先に護衛が進み始めた。
車輪が動いた。
窓のそばを石の建物が通り過ぎ、その向こうに、また山の道が続いている。
「……もう、ヴァルディスなんですね」
「うん」
ルークも外を見ていた。
岩の間に草が生え、道の端には車輪の跡が残っている。すぐ向こうの曲がり角へ、人が荷車を引いていくのが見えた。
「向こうから来る人も、あそこで確かめるんですね」
「そうだな。俺たちも、帰りに通るかもしれない」
エルナは、後ろへ遠ざかった建物の方を見た。
それから前へ向き直り、膝に載せていた鞄を座席の下へ戻した。
*
峠を下る道でも、客車は何度も曲がった。
窓の下に見えていた木々が、いつしか道のすぐ脇へ並ぶようになった。
宿場で夜を過ごし、翌朝、また馬車へ乗る。
四日目の午後、畑の向こうに家々が見え始めた。
道を行く人が増え、車輪の音に、店先からの声が重なる。
御者がリゼルへ着いたと告げた時、エルナは鞄を足元から引き寄せた。
乗場へ止まると、膝に包みを抱えていた男が、先に戸から降りていった。
ルークも外へ出て、振り返る。エルナは鞄を肩へ掛け、段へ足を下ろした。
脚を伸ばすと、膝の裏が張った。
少し足を動かしてから、馬のそばへ戻っていた御者へ声を掛ける。
「すみません。ギルドは、どちらでしょうか」
「あの通りをまっすぐ行って、二つ目の角を右だ。看板が出てる」
示された方を確かめ、二人で礼を言った。
ルークが自分の鞄を掛け直す。
「先に、届けようか」
「はい」
教わった通りには、布を広げた店や、籠を並べた店があった。
エルナは角を数えながら歩いた。右へ曲がった先に看板を見つけ、ルークと戸をくぐる。
窓口へ寄り、ベルネから手紙を預かってきたと伝えた。
書付を渡すと、職員が受け取り、棚から帳面を持ってくる。
「こちらでお預かりします。手紙を、お願いします」
エルナは包みを出した。
職員と五通を数え、表書きを確かめる。最後の一通が卓へ置かれると、職員は書付へ受領を書き入れた。
「確かに受け取りました。ここから先は、こちらで手配します」
その言葉を聞いてから、エルナは肩を少し下ろした。
ルークも、卓に並んだ手紙からこちらへ目を向けた。
「間に合ったな」
「はい。よかったです」
報酬を受け取り、二人で額を確かめた。
エルナは硬貨をしまい、手紙を入れていたところの布を畳み直した。鞄の口を結び、肩へ掛け直す。
続けて、王都へ向かう道について尋ねた。
職員が地図を広げ、街道と、途中にある宿場を示してくれる。
次の宿場までは、朝に出れば徒歩でその日のうちに着けるという。そこから先へ向かう便もあるが、この町から乗り継げる次の便は、数日待つことになる。
ルークが、宿場までの道と、水を足せる場所を確かめた。
エルナも横から地図を見て、分かれ道の目印を覚える。
今夜泊まれる宿も教えてもらい、礼を言って窓口を離れた。
*
宿の部屋へ入ると、エルナは寝台の脇へ鞄を置いた。
外へ括っていた敷布と毛布の束も下ろし、壁際へ寄せる。
ルークも寝具を括った鞄を下ろし、戸へ鍵を掛けた。
窓の布を引いてから、外套を脱いだ。
髪布と腕輪を外し、靴を脱いで腰を下ろす。脚を伸ばすと、馬車の中では縮めていた足首まで、ゆっくり動かせた。
つま先を上げたり下げたりしてから、両足を床へ戻した。
向かいの寝台では、ルークも靴を脱いでいた。脚を伸ばしてひと息つき、鞄へ手を伸ばす。
「明日は、歩いてみようか」
「次の宿場まで、ですね」
「うん。朝に出れば、明るいうちに着けるって言ってたし。そこで、先の便も聞ける」
「パンは、朝に買い足したいです。残りが、もう少ないので」
「俺も。それと、水だな」
エルナは自分の鞄を開いた。
食べ物を包む布を出し、残った干し肉を確かめた。
「久しぶりに、一日歩きますね」
「足、痛くなってない?」
「今は、大丈夫です。座っていたので、少し伸ばしたいくらいです」
ルークも頷き、取り出した食べ物を包み直した。
「俺も。明日は、途中でちゃんと休もう」
「はい」
荷を整え、エルナは髪を布へ収め直した。腕輪を戻し、外套を着てフードをかぶってから、二人で夕食へ下りた。
宿代と食事代には、受け取った報酬の一部を充てられた。エルナは温かい器へ手を添え、卓の下で足の位置を変えた。
向かいのルークも、ゆっくり椅子へ座り直している。
「……関所、思っていたより、人がいました」
「荷馬車も待ってたな」
「はい。私たちの後ろにも、来ていましたね」
順を待っていた車輪と、荷を見せるために持ち上げられた布を思い出した。
あの道を行く人も、戻っていく人もいる。自分たちも、あそこで証を見せて、山のこちら側へ下りてきた。
「上から見た道、あんなに曲がってたんですね」
「乗ってると、次が見えないものな」
「馬車だと、見ているうちに通り過ぎてしまいますね」
「うん。もう少し見たくても、止まれないしな」
「明日は、気になったところで足を止められますね」
ルークは匙を置き、こちらを見た。
「何か見つけたら、教えて。俺も見たい」
「はい」
エルナは頷いた。
馬車の窓から見ていた草も、明日は近くで見られる。道端に知っているものがあったら、ルークにも見せたいと思った。
食べ終わったら、今夜は早く休もうと話した。
明日の朝は、水を汲み、パンを買ってから町を出る。
エルナは器を引き寄せ、もうひと口、温かいうちに食べた。




