第104話 遠い土地の記録
宿へ戻ると、入口の脇で、主人が朝食の器を片づけていた。
エルナたちに気づき、重ねた皿を卓へ置く。
「お仲間は出たのかい」
「はい。私たちは、もう少し泊まりたいんですが」
「ああ。今夜の部屋も使うなら、取っておくよ」
エルナは隣のルークを見た。宿へ入るところで離した手へ、もう一度触れたくなった。彼もこちらへ顔を向ける。
「部屋、どうしようか」
「……一緒に使いませんか」
口にしてから、その顔を見た。
「ルークと、同じ部屋がいいです」
彼の口元が緩んだ。
「うん。俺も、その方がいい」
すぐに返ってきて、エルナも笑った。
主人が帳面を開き、空いているところへ指を置く。
「寝台が二つある部屋でいいかい」
「はい。お願いします」
「何泊する?」
「まだ決まっていないので、まずは今夜の分を」
「わかった。延ばすなら、また言ってくれ」
鍵を受け取り、二人で階段を上がった。
新しく使う部屋には、壁沿いに寝台が二つあった。奥の窓の下には小さな机と椅子があり、窓から入る光が、床の途中まで伸びている。
荷を運び直したあと、ルークが前の部屋の鍵を返しに行った。戻ってきた彼が戸へ鍵を掛け、エルナは窓の布を引いた。
「どっちを使う?」
「私は、こっちにします」
窓に近い寝台を示すと、彼は頷き、もう一方の脇へ鞄を下ろした。剣も腰から外し、手の届くところへ立てかける。
エルナは外套を脱ぎ、鞄の上へ重ねた。
髪布をほどく。まとめていた髪が肩へ落ちると、指を入れ、背へ払った。腕輪も外し、畳んだ布と一緒に机へ置く。
ルークが、こちらを見ていた。
「……何ですか」
「いや。出かけて戻ってきたら、ここにエルナもいるんだなと思って」
彼は言ってから、自分でも少し笑った。
エルナは机から手を離し、そばへ寄った。
「今も、いますよ」
「うん。だから、嬉しい」
ルークが差し出す手を取る。
ルークが寝台の端へ腰を下ろしたので、エルナも隣へ座った。肩が触れ、そのまま彼の方へ寄る。
背中へ腕が回った。
彼の肩へ頬を預けると、外を歩いてきた服が、少し温かかった。エルナは膝の上にあった彼の手へ、自分の手を重ねた。
「私も、嬉しいです」
近くで、彼が小さく息を吐いた。
顔を上げると、目が合う。頬へ指が触れ、エルナも顔を近づけた。
唇が重なる。
離れたあとも、ルークの顔は近かった。エルナは彼の袖を軽く掴み、もう一度、短く口づけた。
「……出かける前に、少しこうしていたいです」
「俺も」
腕が、もう少しこちらを抱き寄せる。
エルナは肩へ戻り、脚の置き場所を少し変えた。寝台が柔らかく沈む。窓の布を通った光の中で、彼の手が自分の手を握り直した。
廊下を人が歩き、どこかの戸が閉まった。
「あとで、ギルドへ寄ろうか。伝言、来てるかもしれないし」
「はい。帰りの馬車のことも、聞くんですよね」
「うん。どんな便があるかだけでも」
エルナは頷いた。
聞きたいことも、行ってみたいところもある。けれど、立つ前にもう少しだけ、彼の肩へ身体を預けていた。
ギルドへ出かける前に、髪をまとめ直した。
腕輪を左手首へ戻し、髪布の端を入れる。外套を着ると、ルークも剣を腰へ戻し、鞄の中を確かめていた。
部屋を出ると、廊下の窓から、通りを行く荷車が見えた。
*
今朝、四人の馬車を見送った道を、今度は二人で歩く。店先へ品物を出す人や、空の籠を抱えた人とすれ違った。エルナはフードの縁を直し、ルークと並んでギルドへ入った。
窓口で名前を伝えると、職員が手元の紙を確かめた。
「研究所のヘルマンさんから、伝言をお預かりしています。今日の午後なら、お時間を取れるそうです」
エルナは、少し身を寄せた。
「記録のお話を、聞かせてもらえるんですか」
「はい。お尋ねのものが見つかったので、と」
「ありがとうございます。午後に伺います」
ルークも頷いていた。
ほかに伝言はないと確かめてから、彼が窓口へ尋ねる。
「ラーデンへ戻る馬車のことも、聞いていいですか。まだ出る日は決まっていないんですが」
職員は乗合の便と、商人の馬車へ便乗する場合について教えてくれた。日によって空きも変わるため、帰る日が決まりそうになったら、改めて確かめに来てほしいという。
ルークは礼を言い、エルナと窓口を離れた。
「午後、聞けるね」
「はい」
戸口から入る光へ目を向ける。
遠い土地の水や草木について、どんなことが残っているのだろう。エルナは鞄の肩紐を掛け直し、外へ出た。
昼には、通りで見つけた店へ入った。
薄いパンに、焼いた肉と煮た豆を挟んだものを頼む。運ばれてきた時には、端から具が少しはみ出していた。
エルナが両手で持ち上げていると、ルークが笑った。
「どっちから食べるか、迷うな」
「こっちからだと、豆が落ちそうです」
「反対も、肉が出てる」
エルナは一度皿へ戻し、はみ出した豆を匙で寄せた。それから端を少し潰して、口へ運ぶ。
焼いた肉の香ばしさと、柔らかい豆の味がした。
ルークも片方を押さえて食べ始める。彼の皿へ豆が一つ落ちたので、目が合い、二人で少し笑った。
*
午後、研究所の入口で名を伝えると、昨日も顔を合わせた男が、中へ知らせに行ってくれた。
案内された部屋では、ヘルマンが机の上へ紙を広げていた。脇には綴じた記録と、巻かれた地図がある。
「来たな。そこへ座ってくれ」
椅子を勧められ、エルナはルークと並んで座った。鞄を足元へ置き、ヘルマンへ顔を向ける。
「昨日お願いした、水や草木のことなんですが」
「ああ。あの鹿が出た地方の記録を、ほかの担当にも確かめてもらった」
ヘルマンは一枚を手前へ寄せた。
「魔獣の報告とは別件だが、村で使っている水場の流れが細くなったという記録があった」
「同じ土地で、ですか」
「同じ地方だ。場所は、ここになる」
地図が広げられた。
ヘルマンがラーデンを示し、そこから遠くへ指を移す。国境を越えた先で止まり、街の位置と、その周りを順に示した。
「鹿が現れた街がここ。水の記録は、この辺りから来ている。ただ、鹿が下りてきた山の水を調べたものではない」
エルナは、二つの場所を見た。
ラーデンからセレドへ、六人でたどってきた道を目で追う。地図の上では、その先にも、まだ幾つも街や山があった。
そこでも、水が減っている。
「魔獣が出るより前に、減っていたんでしょうか」
「そこまでは、比べられない。水の変化がいつ始まったのか、鹿がその前にどこで暮らしていたのかが、揃っていないんだ」
ヘルマンは紙へ目を戻した。
「この記録だけでは、山の水も同じだったとは言えんな」
エルナは頷き、地図から顔を上げた。
「私の住んでいる山でも、水が減っています」
ヘルマンが、こちらを見る。
「どんな場所だ?」
「家で使う水を汲んでいるところです。同じ桶がいっぱいになるまで、前より時間がかかるようになりました。流れのそばも、以前は濡れていたところが、乾いていて」
ヘルマンは新しい紙を取り、筆を持った。
普段通っている町の名と、そこから山へ入る道を伝える。いつ頃から気になっていたか尋ねられ、エルナは思い出しながら答えた。
「俺も、そこの水は汲みました」
ルークが口を開いた。
「少なくなったとエルナが気づいた時にも、一緒に見ています。流れの脇に、乾いた跡が残っていました」
ヘルマンが書き足す。その手が止まってから、エルナは続けた。
「薬草も、同じ場所で採れる量が少なくなっています。小さい株が増えていて、前ならもう少し採れたところでも、残して戻ることがありました」
「育ちきっていないものが、多いのか」
「はい。土も、乾いているところが増えています」
ヘルマンは頷き、そばの記録へ一度目を向けた。
「途中の村の畑にも、変わったことがあったと言っていたな。葉に斑点があると」
「はい。豆の畑でした」
エルナは、葉の斑点が裏へ広がるという畑の人の話と、自分が見た枯れた葉のことを伝えた。豆の莢も、まだ細いまま先が黒ずみ、腐り始めていた。
「水は、どうしていた?」
「井戸から運んで、根元へ回していました。でも、枯れるのが止まらない株があるそうです。隣には、ちゃんと育っている列もあったんですが」
ヘルマンの筆が止まった。
「山の薬草にも、その斑点があったのか?」
「いいえ。私が見た薬草には、あの畑のような斑点はありませんでした。小さい株や、採れる量が減ったところはありますけど」
「葉の様子は、違ったんだな」
「はい」
ヘルマンは書いたところを読み返し、紙の端へ短く付け加えた。
エルナも、先ほどの記録へ目を向ける。
「その水場の近くでは、畑はどうなっていたんでしょう」
「葉や実の詳しい状態までは、書かれていない。今回は、そこまで分かる記録は見つからなかった」
「そうですか」
エルナは地図の上へ目を戻した。
遠い土地の水も減っていると分かった。けれど、その周りにどんな草が生え、畑で何が育っていたのかは、この紙からは見えなかった。
自分が見た畑にも、元気な葉の列はあった。
同じ村の中でも、少し場所が変われば違っていたのだ。
ヘルマンに道中のことを尋ねられ、旅の二日目に寄ったことと、通ってきた街道を伝えた。ルークも、途中の橋や分かれ道の様子を添える。ヘルマンは分かるところまで書き留め、紙をそばへ置いた。
「この話も、ほかの担当へ渡しておこう。畑を調べている者に、確かめてもらいたい」
「お願いします」
エルナが答えると、ヘルマンは机の端から、別の綴りを引き寄せた。
「それから、鹿の方も見ていくか。昨日は、こちらを出せなかったからな」
開かれた頁には、横から見た魔獣の図があった。
細い脚と、長い首。脇には、体の大きさが書き添えられている。
エルナはその記載を読み、もう一度、図を見た。
「……小鹿のような姿だと聞いていましたけど、こんなに大きかったんですか」
「ああ。通常の鹿型魔獣より大きい」
グレンから小鹿のような姿だと聞いた時には、もっと小さな身体を思い浮かべていた。細い脚で岩壁を駆け下りる姿も。
けれど、書き添えられた長さを考えると、頭の中の姿を、そのままにはしておけなかった。
隣のルークも、図へ身を寄せていた。
「討伐した時には、成獣だと見られていた。解体したあと、骨と歯の状態から、まだ幼体だと判断されている」
ヘルマンが、次の紙を開く。
骨格の図だった。手元の別の資料も広げ、二つを並べる。
「こちらが成獣の記録だ。現地の者が確かめたのは、この辺りだな」
指された骨のつなぎ目を、順に見比べた。違う形で描かれているところへ、細かな所見が添えられている。
「まだ成長が終わっていない。歯も合わせて調べたうえで、訂正したそうだ」
「身体は、それだけ大きくなっているのに?」
「そうだ」
エルナは、初めの図へ目を戻した。
大きな身体の中で、骨や歯は、まだ育つ途中だった。
「いつから、こうなっていたんでしょう」
「それが分からん。変わる前の姿が残っていない。どれほどの間に、この大きさになったのかも」
ヘルマンは別の紙を取り、こちらへ向けた。
「蹄にも変化がある。現地では、鋼鉄化が確認されている」
「蹄が、ですか」
エルナは足先の図へ目を落とした。
岩壁を駆け下りてきたと聞いている。その足が石を蹴るところを思い浮かべると、今度は、あの猪の黒い牙が重なった。
「猪の牙も、似たことが起きているんでしょうか」
「そこを比べたい。牙の方は、まだ調べているところだ」
ヘルマンは昨日受け取った試料の記録を、蹄の紙の脇へ寄せた。
「硬くなること自体は、普通の魔獣にもある。見た目だけで同じとするわけにもいかんからな」
ルークが、身体の図へ目を戻した。
「この近くの街道でも、火を出す個体が見られた報告はありますか」
「詳しく比べられるのは、今はこの二件だ。ただ、近くの道の新しい目撃は、ギルドでも確かめてくれ。こちらへ届く前の話があるかもしれん」
「はい。帰る前にも、聞いてみます」
ヘルマンが頷く。
エルナは、図の足先から顔を上げた。
同じように火を撒いても、猪と鹿では身体が違う。変わっているところも、牙と蹄だった。
あの猪には、どんな変化が起きていたのだろう。
「調べて分かったことがあれば、また、聞かせてもらえますか」
「ああ。連絡は、ギルドでいいな」
「はい。お願いします」
ヘルマンは二人の名が書かれた紙を確かめ、記録を重ねた。
エルナも鞄を取り、ルークと椅子から立ち上がる。
「お時間を取ってくださって、ありがとうございました」
「こちらも、話を聞けて助かった。水場のことも、葉や莢のことも、残しておく」
机の上には、エルナが話したことを書いた紙があった。
自分が通り過ぎてきたところの話が、遠い街の記録のそばへ置かれていた。
エルナはもう一度礼を言い、ルークと部屋を出た。
*
外へ出ると、荷を運ぶ人の声が聞こえた。
エルナは戸口の脇へ寄り、通りへ顔を向ける。ルークも隣へ来て、鞄の紐を直した。
「あの図、ニーナにも見せたかったですね」
「うん。蹄の話も、気になるだろうな」
「戻ったら、話したいです。グレンさんたちにも」
ルークが頷いた。
四人は今頃、どの辺りを進んでいるのだろう。ニーナがあの図を見たら、どこから確かめようとするだろうか。
道を歩きながら、エルナはもう一つ、口にした。
「王女様が見た畑のことも、もう少し聞いてみたいです。葉の様子や、何を育てていたのかも」
「そうだな。水を運ぶ話も、途中までだったし」
「はい」
人を避けて少し横へ寄ると、ルークの手が触れた。エルナもその手を取り、並んで歩く。
通りの先から、何かを焼く匂いがしていた。
ルークがそちらへ顔を向ける。開いた店先には、料理の名を書いた板が出ていた。
「あそこ、夕飯も出してるかな」
「見ていきますか」
「うん。昨日と違うところも、食べてみたいし」
エルナも店へ目を向けた。奥には卓が並び、店の人が、空いた器を運んでいる。
「肉を焼いているみたいですね」
「さっきから、いい匂いするな」
二人で通りを渡り、店の前で足を止めた。
夕飯の店を決めたら、宿へ戻る。
朝に荷物を置いた部屋には、自分の鞄の隣に、彼の鞄もあった。
ルークが、板に書かれた料理の一つを指す。エルナは繋いだ手をそのままに、彼の見ているものへ顔を寄せた。




