第44話「最後の日々」
桜が満開の間——柊と母は、毎日対話を続けた。
いつもより長く。いつもより深く。
二人の時間を——大切にするように。
◇
「柊——昔の話、していい?」
ある夜、母が言った。
「いいよ。何でも」
「あなたが——小さかった頃の話」
母は微笑んだ。
「三歳の時——あなた、よく泣いてたわね」
「そうだったの?」
「ええ。お父さんが——いなくなった後」
「……」
「でも——泣き止まない時は、抱っこして歌を歌ったの」
「歌?」
「子守唄。『ゆりかごの歌』——覚えてる?」
柊は首を振った。
「覚えてない」
「そう。でも——あの歌を歌うと、あなた、すぐに泣き止んだの」
母は懐かしそうに目を閉じた。
「『ゆりかごのうたを——カナリアが歌うよ——』」
柊は——黙って聞いていた。
「あの頃——私、必死だった。あなたを——一人で育てなきゃって」
「……」
「でも、あなたの寝顔を見ると——がんばれた。この子のためなら——何でもできるって」
母は柊を見た。
「あなたは——私の、生きる理由だった」
柊の目から、涙が溢れた。
「母さん——」
「ありがとう、柊。私に——生きる理由を、くれて」
◇
また、ある夜——
「お父さんのこと——もっと、話してほしい」
柊が言った。
「颯太さんのこと?」
「ああ。俺——父さんのこと、ほとんど知らないから」
母は少し考えた。
「颯太さんは——優しい人だったわ」
「それは——聞いた」
「でも——弱い部分もあった」
「弱い部分?」
「自分一人で——全部、抱え込んでしまう人だった」
母は遠くを見つめた。
「仕事のストレスも、悩みも——私に、話してくれなかった」
「……」
「私——もっと早く気づいていれば。もっと——支えてあげられていれば」
「母さん——」
「でも、気づかなかった。颯太さんが——どれだけ苦しんでいたか」
母の声が震えた。
「だから——あの日、来てしまった」
「……」
「私——ずっと、後悔してた。もっと——颯太さんの話を、聞いてあげれば良かったって」
柊は母の手を握った。
「母さんのせいじゃない」
「でも——」
「父さんは——自分で、決断した。母さんのせいじゃない」
「……」
「父さんは——弱かったかもしれない。でも、母さんを愛してた。俺のことも」
柊は母を見つめた。
「それだけは——確かだと思う」
母の目から、涙がこぼれた。
「ありがとう——」
「父さんの分も——俺は、生きていく。ちゃんと」
「……」
「だから——母さんも、安心して」
母は——柊を抱きしめた。
「ありがとう、柊——」
◇
桜が散り始めた。
花びらが風に舞い、地面を覆っていく。
終わりの時が——近づいていた。
「そろそろ——だね」
柊が言った。
「ええ——」
母は桜を見上げた。
「きれい。散る桜も——」
「ああ」
「日本人は——散る桜を、愛するのよね」
「そうらしい」
「私も——そう」
母は微笑んだ。
「満開の桜より——散り際の桜の方が、好き」
「……」
「だから——今が、ちょうどいいの」
柊は——母を見つめた。
「母さん——」
「成仏の日——決めましょう」
「……」
「桜が——散り終わる日。その日に——」
柊は——しばらく黙っていた。
そして——頷いた。
「わかった——」




