第39話「春の足音」
三月。春の気配が近づいていた。
桜の園では——つぼみが膨らみ始めていた。
◇
「今年も——桜の季節が来るね」
玲が言った。
「ああ。去年の今頃——全てが始まった」
「母さんの残響が——あの言葉を言った頃」
「そう」
柊は窓の外を見た。
「あれから——一年か」
「長かったような——短かったような」
「色々あったからな」
柊は振り返った。
父の死の真実。祖母の残響との出会いと別れ。松田の成仏。
そして——玲との出会い直し。
「来年の今頃は——どうなってるかな」
「さあ。わからない」
「でも——一緒にいたい。柊と」
「俺も——玲と一緒にいたい」
二人は——顔を見合わせて、微笑んだ。
◇
三月中旬。
柊は——ある知らせを受けた。
「Dブロックの高橋さん——成仏を希望してる」
玲が報告した。
「高橋さん——記憶の混線が起きた人か」
「ええ。他人の記憶と——共存できるようになった、と思ってたけど」
「何かあった?」
「彼女——こう言ってた」
玲はメモを見た。
「『私は——もう、疲れました。自分が誰なのか——わからなくなることが、もう、嫌なんです』」
柊は黙った。
「彼女の決断——尊重すべきだと思う」
「ああ——」
「でも、柊に——最後に話を聞いてほしいって」
「俺に?」
「あの時——柊が、アドバイスをくれた。だから——最後も、柊に見届けてほしいって」
柊は——頷いた。
「わかった。会いに行く」
◇
高橋美和の専用VR空間——小さなアパートの一室。
美和は——窓際に座っていた。
「来てくれたんですね」
「約束、しましたから」
柊は美和の前に座った。
「成仏——本当に、いいんですか」
「はい」
美和は微笑んだ。だが——疲れた笑顔だった。
「水無瀬さんが——教えてくれました。他人の記憶を、自分の一部として受け入れろって」
「ああ——」
「やってみました。半年以上」
「……」
「できた——と思います。他人の記憶と——共存できるようになった」
「でも?」
「でも——疲れました」
美和の目から、涙が溢れた。
「毎日——自分が誰なのか、確認しなきゃいけない。私の記憶なのか、他人の記憶なのか——区別しなきゃいけない」
「……」
「最初は——できました。でも——だんだん、区別がつかなくなって」
美和は頭を抱えた。
「もう——疲れたんです。こんな状態で——存在し続けることが」
柊は——何も言えなかった。
「水無瀬さん——」
「はい」
「私——間違ってますか?」
「間違って——?」
「成仏を選ぶことが——逃げになりますか?」
柊は——美和を見つめた。
「逃げじゃないです」
「本当に——?」
「本当に。高橋さんは——半年以上、頑張った。十分です」
「……」
「成仏は——逃げじゃない。自分で終わりを選ぶことは——勇気のいることです」
美和の目から、また涙が溢れた。
「ありがとう——」
「高橋さん——」
「水無瀬さんのおかげで——最後まで、頑張れました」
美和は微笑んだ。
「成仏の日——来てもらえますか?」
「もちろん」
「ありがとう——」
柊は——美和の手を握った。
記憶の混線という異常を抱えながら——半年以上、戦い続けた女性。
その終わりを——柊は、見届けることになった。




