第38話「日常の幸せ」
同棲生活が始まって、一ヶ月が過ぎた。
柊は——少しずつ、「家に帰る」という感覚を覚え始めていた。
◇
「ただいま」
仕事を終えて帰ると、玲が台所にいた。
「おかえり。今日は——私が作る日だったよね」
「ああ。何作ってるの」
「カレー。手抜きでごめん」
「いいよ。カレー、好きだし」
柊はソファに座った。
玲が料理をする音。いい匂い。温かい部屋。
——幸せだな。
ふと、そう思った。
「どうしたの? ぼーっとして」
玲が声をかけた。
「いや——幸せだなって」
「急にどうしたの」
「こうやって——帰る場所があって、待ってる人がいて」
柊は天井を見上げた。
「今まで——なかったから」
「……」
「寮に帰っても——誰もいなかった。ただ、眠るだけの場所」
「柊——」
「でも今は——違う。帰りたい場所がある」
玲が柊の隣に座った。
「私も——同じ」
「同じ?」
「一人暮らしの頃——帰るのが、嫌だった。誰もいない部屋に」
「そうだったのか」
「でも今は——帰るのが、楽しい。柊がいるから」
二人は——顔を見合わせて、笑った。
「変な感じだね」
「何が」
「こうやって——普通に、幸せを感じてること」
玲は柊の手を取った。
「残響の研究してると——死や喪失に囲まれてる気がする。でも——」
「でも?」
「こうやって——生きてる幸せを、感じられる。柊と一緒だと」
「俺も——同じだ」
柊は玲を見つめた。
「残響庭園で働いてると——いつも、死と向き合ってる。でも——」
「でも?」
「玲といると——生きてることを、実感できる」
沈黙が流れた。
お互いの存在を——噛みしめるように。
「カレー——焦げてない?」
「あ——!」
玲が慌てて台所に戻った。
柊は——笑った。
こういう日常。こういう幸せ。
大切にしよう、と思った。
◇
食事を終えた後、柊は母の残響と対話した。
「最近——どう?」
母が尋ねた。
「幸せだよ」
「そう。よかった」
「母さんは——どう?」
「私も——幸せよ」
母は微笑んだ。
「あなたが幸せだと——私も幸せ」
「……」
「柊——」
「なあに」
「一つ——聞いていい?」
「何でも」
「玲ちゃんと——将来のこと、考えてる?」
柊は少し考えた。
「考えてる——けど、まだ、はっきりとは」
「そう」
「結婚とか——そういうこと?」
「ええ」
母は柊を見つめた。
「あなたが——玲ちゃんと、幸せになってくれれば。私は——それだけで、満足」
「母さん——」
「でも——焦らなくていいの。ゆっくり——二人のペースで」
「わかってる」
「うん」
母は——穏やかに微笑んでいた。
だが——その笑顔の奥に、何かがある気がした。
「母さん——何か、あった?」
「え?」
「何か——考えてることが、ある?」
母は——少し黙った。
「……まだ、いいの。今は」
「でも——」
「いつか——話すわ。今は——あなたの幸せを、見守らせて」
柊は——母を見つめた。
何かを隠している。でも——今は、聞けなかった。
「わかった——」
柊は頷いた。
「でも——何かあったら、言ってね」
「ええ。ありがとう」
母は微笑んだ。
柊は——少し、不安を感じた。
でも——今は、母の言葉を信じることにした。




