第32話「休日」
九月の第二週。秋晴れの日曜日。
柊と玲は、二人で水族館に出かけた。
「久しぶりに——こういう場所、来たな」
柊が言った。
「私も。仕事ばっかりで——遊びに行く暇、なかったから」
玲は大水槽を見上げた。青い光の中を、魚たちが泳いでいる。
「きれい——」
「ああ」
柊は玲の横顔を見た。
水槽の光に照らされた玲の顔は——とても綺麗だった。
「何見てるの?」
「いや——」
柊は慌てて目を逸らした。
「魚を、見てた」
「嘘。私のこと、見てたでしょ」
「……」
「いいよ。見ても」
玲は微笑んだ。
「私も——柊のこと、見てたから」
◇
イルカショーを見た後、二人はカフェで休憩した。
「今日——楽しかった」
玲が言った。
「俺も」
「また——来たいな。こういうところ」
「いつでも。誘ってくれ」
玲はコーヒーを飲みながら、柊を見つめた。
「柊——聞いてもいい?」
「何を?」
「お母さんの残響のこと。最近——どう?」
柊は少し考えた。
「安定してる。真実を知ってから——穏やかになった気がする」
「そう。よかった」
「でも——時々、不安になる」
「不安?」
「いつか——成仏する日が来る。その時——俺は、どうなるんだろうって」
玲は黙って聞いていた。
「母さんがいなくなったら——俺は、一人になる。それが——怖い」
「柊——」
「でも——」
柊は玲を見た。
「最近は——少し、マシになった」
「なぜ?」
「玲がいるから」
玲の目が潤んだ。
「柊——」
「母さんも言ってた。『玲ちゃんがいれば、安心』って」
「お母さんが——」
「母さんは——俺の将来を、考えてくれてる。自分がいなくなった後のことも」
柊は深呼吸をした。
「俺も——考え始めてる。母さんがいなくなった後の、人生を」
「そう——」
「その人生に——玲がいてくれたら、嬉しい」
長い沈黙が流れた。
玲は——涙を拭いた。
「私も——柊の人生に、いたい」
「本当に?」
「本当。ずっと——」
玲は柊の手を取った。
「ずっと——柊のそばにいたい」
柊は——玲の手を握り返した。
「ありがとう——」
二人は——しばらく、手を繋いだまま、カフェにいた。
◇
帰り道、二人は並んで歩いた。
夕暮れの空。オレンジ色の光。秋の風。
「今日——告白したことになるの?」
玲が尋ねた。
「告白——」
柊は考えた。
「なるのかな」
「曖昧だね」
「ごめん。こういうの——慣れてなくて」
玲は笑った。
「私も。でも——」
「でも?」
「いいよ。曖昧でも。ゆっくり——わかっていけばいい」
柊は玲を見た。
「付き合う——ってことでいいのか?」
「そうなるね」
「そうか——」
柊は空を見上げた。
「俺——初めてだ。誰かと付き合うの」
「私も」
「そうなのか?」
「研究ばっかりで——恋愛、する暇なかった」
玲は柊の腕に、自分の腕を絡めた。
「でも——柊となら、いいかなって」
「……」
「何?」
「いや——嬉しいなって」
柊は微笑んだ。
「俺も——玲となら、いいかなって思う」
二人は——腕を組んだまま、駅まで歩いた。
◇
その夜、柊は母の残響と対話した。
「今日——玲と、デートしてきた」
「あら。どうだった?」
「水族館に行った。楽しかった」
「そう。よかったわね」
母は微笑んだ。
「それで——どうなったの?」
「どう、って——」
柊は少し照れた。
「付き合うことに——なった、かも」
母の表情が輝いた。
「本当に?」
「ああ——多分」
「よかった——」
母の目から、涙が溢れた。
「母さん——泣くほどのことじゃ——」
「泣くわよ。嬉しいもの」
母は柊の手を取った。
「私——ずっと、心配してた。あなたが——一人で、孤独に生きていくんじゃないかって」
「母さん——」
「でも——玲ちゃんがいてくれる。あなたを——支えてくれる」
母は微笑んだ。
「安心したわ。これで——」
母は言葉を切った。
「これで?」
「何でもないわ」
母は首を振った。
「とにかく——おめでとう。幸せになってね」
「ああ——ありがとう、母さん」
柊は——母を見つめた。
母の言葉の続きが——気になった。
だが——聞けなかった。




