第19話「別れの日」
成仏の日が来た。
五月の初め。ゴールデンウィークの真っ最中。
桜の園は、花見客で賑わっていた。桜は散り終わり、新緑が眩しい季節。
だが、美月の専用VR空間は——いつもと変わらぬ草原だった。
青い空。白い雲。風に揺れる草花。
そこに——美月と、藤原夫妻がいた。
柊は、少し離れた場所で見守っていた。
最後の対話。親子三人の、最後の時間。
「美月——本当に、いいの」
香織が涙声で尋ねた。
「うん。いいの」
美月は微笑んでいた。
「パパ、ママ、泣かないで」
「泣くなって言われても——」
誠一も泣いていた。大人の男が、子どものように泣いていた。
「美月——パパは、美月に会えて幸せだった」
「私も。パパとママに会えて、幸せだった」
美月は両親の手を取った。
「ねえ、一つだけ、お願いがあるの」
「何でも言って」
「私が——成仏した後も、幸せでいてね」
香織が嗚咽を漏らした。
「美月——」
「私、ずっと——パパとママのこと、見てるから。天国から。だから——泣いてばかりじゃ、ダメだよ」
「美月——」
「笑って。私のこと、思い出す時は——笑ってね」
美月は両親を抱きしめた。
小さな体。小さな腕。
だが——その抱擁には、大人以上の強さがあった。
「パパ、ママ、大好き」
「美月——パパもママも、美月が大好きだよ」
「うん。知ってる」
美月は両親から離れた。
そして——柊を見た。
「お兄さん、ありがとう」
「俺は——何もしてないよ」
「話を聞いてくれた。それだけで——嬉しかった」
美月は微笑んだ。
「お兄さんも——幸せになってね」
柊は——何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
「じゃあ——」
美月は空を見上げた。
「行くね」
柊は端末を操作した。
成仏プロトコル——実行。
美月の体が——光り始めた。
草花が風に舞うように。桜の花びらが散るように。
美月の姿が——少しずつ、透明になっていく。
「パパ、ママ——さようなら」
美月の声が——遠くなっていく。
「美月——!」
香織が叫んだ。
「美月——!」
誠一が叫んだ。
だが——美月は微笑んでいた。
最後の瞬間まで——穏やかに、優しく。
「大丈夫。怖くないよ——」
そして——美月は、光の粒子になって、空に舞い上がった。
草原に——風が吹いた。
美月がいた場所には——何も残っていなかった。
◇
成仏プロトコルが完了した後、藤原夫妻はしばらくその場に座り込んでいた。
柊は——何も言えずに、見守っていた。
やがて、誠一が立ち上がった。
「水無瀬さん」
「はい」
「ありがとうございました」
誠一は深々と頭を下げた。
「美月を——最後まで、見守ってくれて」
「いえ——俺は、何も——」
「美月が——成仏を決められたのは、あなたと話したからだと思います」
誠一は柊を見た。
「美月は——あなたに会った後、変わりました。何かを——決心したみたいに」
「……」
「きっと——あなたの言葉が、美月の背中を押したんだと思います」
柊は——何も答えられなかった。
自分は——美月に、何を言っただろう。
『ここにいたい?』——そう聞いただけだ。
でも——それが、美月にとっては、大きな意味を持ったのかもしれない。
「これから——私たちは、どうすればいいんでしょうか」
香織が尋ねた。
「美月がいなくなった後——何を支えに、生きていけばいいんでしょうか」
柊は——考えた。
美月の最後の言葉を、思い出した。
「美月さんは——こう言ってました」
「何と?」
「『パパとママのこと、ずっと見てるから。だから——笑ってね』と」
香織が——また、泣き出した。
「美月さんは——お二人に、幸せでいてほしいと思ってたんです。それが——美月さんの、最後の願いだったんだと思います」
誠一は——黙って、頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ——」
「私たちは——美月の願いを、叶えます。幸せになります。必ず」
藤原夫妻は——桜の園を去っていった。
柊は——しばらく、その場に立っていた。
◇
その夜、柊は母の残響と対話した。
「今日——美月ちゃんが、成仏した」
「そう——」
母の声は、静かだった。
「どうだった?」
「美月ちゃんは——最後まで、笑ってた。パパとママに——幸せでいてほしいって」
「……」
「すごい子だった。俺より——ずっと、強かった」
柊は目を閉じた。
「母さん」
「なあに」
「俺は——まだ、母さんを送り出す準備ができてない」
「わかってるわ」
「でも——いつか、その時が来たら——」
柊は母を見た。
「母さんも——笑っていてほしい。最後の瞬間まで」
母は——微笑んだ。
「約束するわ」
二人は——しばらく、黙って、夜の桜の園にいた。
美月がいなくなった空の下で。




