第九章:氷の令嬢の密約と、三者鼎立の火種
地面に転がったチョココロネを、蓮は虚ろな目で見つめていた。
「……白河財閥?」
蓮の口から乾いた声が漏れた。
国内の経済界を牛耳る三匹の巨龍。それが、インフラと物流を握る「桐生」、金融とハイテクを牛耳る「西園寺」、そして医療・製薬・重工業を一手に束ねる「白河」だ。いわゆる『御三家』。前世で株式の端株を握りしめてはチャートに張り付いていた蓮にとって、それは天上の神々の名前も同然だった。
その一角の直系にして、学年トップの優等生・白河綾乃が、いま自分の目の前で完璧な令嬢の礼法で頭を下げている。
「顔を上げてください、白河会長。……いや、白河さん。何か勘違いをされてるみたいですけど、俺は本当に普通の生徒で――」
「神崎様、戯れはおやめください」
綾乃はすっと背筋を伸ばし、涼やかな瞳で蓮を見つめた。その黒髪が秋風にさらりと揺れる。普段の学校生活で見せる優等生然とした笑顔は消え去り、そこにあったのは百戦錬磨の経営者と同じ、怜悧で底知れない光だった。
「身分を隠してこの高校に潜伏されていたこと、道明寺先生の託宣により桐生グループの命運を一夜で救われたこと、そして今朝、西園寺の姑息な地上げを一撃で粉砕し、特捜部を動かして東京の株価を動かしたこと……全て祖父・修一郎の耳に届いております」
(いや、だから全部偶然と事故なんだってば……!)
心の中で叫ぶ蓮を他所に、綾乃は一歩、音もなく間合いを詰めてきた。ほのかに高貴な白檀の香りが鼻腔をくすぐる。
「西園寺は焦って力であなたを囲い込もうとし、桐生は盲目的な忠誠で手足になろうとしている。ですが、我が白河家は違います。私たちは、若君が望まれる『真の目的』を理解しております」
「真の目的……?」
蓮が思わず聞き返すと、綾乃は意味深に薄く微笑んだ。
「ええ。これほどの智謀と人脈をお持ちでありながら、あえてこの辺境の公立高校で、目立たず慎ましい生活を貫かれている理由……。それは、既存の財閥の腐敗した利権構造を外側から観察し、時が来れば一掃して新たな秩序を打ち立てるための『雌伏の時』をお過ごしだからでしょう?」
(深読みのレベルが宇宙まで行ってんのよ……!!)
ただ前世で見栄を張って死んだから、今世は慎ましく地味に暮らしたいだけだ。なぜそれが「腐敗した財界を浄化するための潜伏」などという壮大すぎる大義名分に化けてしまうのか。
「我が白河家は、若君のその崇高な理念に共鳴いたします」
綾乃はブレザーのポケットから、薄いプラチナ製のケースを取り出し、そこから一枚のカードを蓮に差し出した。
「白河グループが保有する全医療機関、プライベートジェット、ならびに国内外のセーフハウスの最優先利用権です。身元を隠したまま、いかなる緊急事態にも即座に対応できるバックアップラインをご用意いたしました。桐生や西園寺のように、あなた様を矢面に立たせるような真似はいたしません。ただ、影から若君をお支えしたいのです」
「い、いや、だから受け取れません! なんでみんなそうやって俺に物騒なカードを押し付けるんですか!」
蓮が本気で後ずさると、綾乃の瞳に一瞬だけ驚きが走り、すぐさまそれが深い陶酔と敬意へと塗り替えられた。
「……見返りを一切求めず、我が白河の全面支援すら軽やかに袖にする……。噂以上の無欲と高潔さ。やはり祖父の言った通り、あなたは『本物』ですね」
(違う! 無欲なんじゃなくて、持ってるだけで命が危ないからいらないんだよ!!)
「ご安心ください。無理に受け取れとは申しません。ただ、これだけはお伝えしておきます」
綾乃は蓮にぐっと顔を近づけ、小声で囁いた。その距離の近さに、蓮の心臓が跳ね上がる。
「西園寺司が本日夕刻、桐生巌を介さず、あなた様に直接『手打ち』を申し出るため、この学校の近隣にある料亭『松風亭』を貸し切りました。あの方はプライドをズタズタにされた獣です。平伏するふりをして、あなた様を試すような罠を仕掛けてくる可能性が高い。……どうか、お気をつけください」
「え……西園寺が、俺と直接?」
「はい。そして桐生巌もまた、その動きを察知して部隊を松風亭の周囲に配備し始めています。今夜、あの場所は二大財閥が激突する火薬庫となりますわ」
綾乃は優雅に一礼すると、屋上の扉へ向かって歩き出した。
そして扉に手をかけたところで、振り返り、蠱惑的な笑みを蓮に向けた。
「我が白河家は、中立の立場でその茶番を見届けさせていただきます。……若君が、あの二頭の猛獣をどう手懐けられるのか、楽しみにしておりますね」
バタン、と重い鉄扉が閉まった。
屋上に残された蓮は、一人呆然と立ち尽くした。
足元には、すっかり冷え切って砂まみれになったチョココロネ。
「……二大財閥が激突する火薬庫?」
蓮の額から、今日何度目か分からない冷や汗が吹き出した。
「冗談じゃない……! なんで放課後に料亭でヤクザの抗争みたいな話し合いに呼び出されてんだよ! 行くわけないだろ、俺は学校が終わったら速攻で家に帰ってアニメ観るんだよ!!」
蓮は頭を抱えて屋上の床に崩れ落ちた。
だが、その時、胸のポケットでスマホが激しく震えた。
画面を見ると、登録のない番号からのメッセージ。
添付されていたのは、蓮の住むボロアパートの大家が、西園寺の息のかかった黒服たちに笑顔で囲まれている一枚の写真だった。
そして、短いテキスト。
『今夜六時、松風亭にてお待ちしております。お一人でお越しください。――西園寺司』
「……あの野郎、外堀から埋めてきやがった……ッ!」
前世で悪徳金融に追い詰められた時と同じ、逃げ場を塞がれた感覚。
しかし、前世と今の蓮には決定的な違いが一つだけあった。今の蓮の背後には、彼を「神」と崇める巨大財閥と、裏社会の怪物の知恵が、望みもしないのに勝手に結集していたのだ。
蓮はギリッと奥歯を噛み締め、スマホの画面を睨みつけた。
「いい度胸じゃねえか西園寺……。平穏を邪魔するってなら、前世の修羅場くぐりの意地を見せてやるよ」
平凡を願う高校生の、意図せぬ「財界制覇」の夜が迫っていた。




