第八章:西園寺の屈辱と、張り巡らされた盤上
正午を回った頃、西園寺ホールディングス本社ビルの役員会議室には、凍りつくような重苦しい空気が満ちていた。
「……申し訳ございません、副社長! 東都地所の代表および幹部が全員、特捜部に連行されました!」
冷汗を滝のように流した法務部長が、震える両手で報告書を差し出す。
楕円形の巨大なガラステーブルの端で、副社長・西園寺司は額に青筋を浮かべ、無言のまま手元のタブレットを睨みつけていた。
画面に並ぶ経済ニュースの速報は、どれも西園寺グループにとって致命的な打撃を物語っている。
『西園寺傘下の不動産企業に強制捜査』
『駅前再開発メガプロジェクト、不正融資疑惑で全面凍結』
『メインバンク、西園寺関連の新規社債引き受けを突如見合わせ――桐生グループによる資本工作か』
わずか半日。たった半日で、西園寺が数年がかりで根回しを進めていた数百億円規模の再開発事業が、瓦解の危機に瀕していた。
「地上げ屋のチンピラ数人をアパートに差し向けた……それだけのはずだ。なぜこれほど完璧な反撃が、一分の隙もなく即座に飛んでくる……!?」
司は歯ぎしりし、銀縁眼鏡を乱暴に外した。
ただの高校生を少し脅し、生活拠点を奪って自分の陣営へ誘い込むだけの、取るに足らない小細工だったはずだ。それがいまや、桐生グループの全勢力を動員した全面戦争の引き金となっている。
そこへ、血相を変えた情報調査室の室長が駆け込んできた。
「副社長、判明いたしました! 地検および金融庁を動かした決定的な内部告発書類……あれを桐生側へ流したのは、東都地所の内通者ではありません。神崎蓮本人の端末を経由し、極秘暗号化プロトコルで送られた形跡があります」
「何だと……!?」
「さらに、その告発データに用いられていた帳簿分析のアルゴリズム、ならびに資金の流れの追跡手法……十年前に我がグループの創業者を失脚寸前まで追い込んだ、道明寺宗雲先生の『毒筆』と完全に一致しております!」
会議室にいた重役たちが一斉にどよめき、息を呑んだ。
司の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜ける。
――『そんな薄っぺらい餌で釣れる相手かどうか、自分の頭でよく考えるんだな』
昨日、夕暮れの路地裏で蓮が言い放ったあの冷徹な言葉が、司の脳内で鮮明にリフレインした。
「そうか……最初から、誘い受けだったのか……!」
司は拳をテーブルに叩きつけた。
「私が強引な手段に出ることなど、あの男は最初からすべて見抜いていたのだ。あえて貧乏アパートに留まり、地上げ屋という分かりやすい獲物を誘き寄せ、私が手を出した瞬間に桐生を動かして我が社の急所を抉り取った……!」
「ふ、副社長……では、神崎蓮という少年は……」
「底が知れん。ただの高校生どころか、すでに桐生グループすら意のままに操る真の司令塔だ。道明寺宗雲を参謀に従え、若くしてこれほどの知略と胆力を持つ男が、この世に存在していいはずがない……!」
司の瞳に、激しい屈辱とともに、抗いがたい畏怖が広がっていく。
敵対し、力でねじ伏せようなどという傲慢な考えは完全に吹き飛んでいた。もしこれ以上あの青年に敵意を向ければ、次は西園寺グループの屋台骨そのものが粉砕される。
「直ちに動け! 特捜部への根回しと同時に、桐生との調停の場を設けるのだ」
司は立ち上がり、側近たちに低く命じた。
「そして……私自らが、神崎蓮に直接頭を下げに行く。桐生よりも先に、我が西園寺家の誠意を形として示さねば、明日の朝には我が社が消滅しているかもしれんぞ!」
その頃、光陵高校の屋上。
青空の下で一人、神崎蓮は金網に背中を預け、冷めた菓子パンをかじりながら深いため息をついていた。
「……もう、どうすりゃいいんだよ」
午前中の授業中、スマホのバイブレーションが一度も鳴り止まなかった。
桐生巌からは『若君のお導きにより、西園寺の牙城を崩す第一歩を踏み出せました』と歓喜と狂信に満ちた長文メッセージが届き、ニュースアプリを開けば、朝にドアの外で暴れていた地上げ屋の親会社が粉微塵に吹き飛んでいる。
前世で怪しげなセミナーに騙され、悪徳業者に借金を背負わされた経験から、「相手の不正の証拠を握っておくことの重要性」は痛感していた。だから昨夜、道明寺から渡されたUSBのデータを桐生側の弁護士に転送しただけなのだ。「これで警察に突き出してくれれば、立ち退きを免れて静かに暮らせるだろう」と。
まさかそれが、国家の中枢機関まで巻き込む財閥戦争の最終兵器になるとは夢にも思っていなかった。
「目立たず慎ましく生きる……俺の高校生活、どこでボタン掛け違えたんだ?」
屋上のフェンスを吹き抜ける風が、蓮のボサボサの前髪を揺らす。
手元にあるのは、限度額無限のブラックカード、財界の裏帳簿が詰まったUSB、そして財閥の首領直通の連絡先。
平凡な高校生とは程遠い装備を前に、蓮は天を仰いだ。
ガラリ、と屋上の重い鉄扉が開く音が響いた。
「神崎くん、やっぱりここにいたんだね」
透き通るような、鈴の鳴るような声。
蓮が驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、光陵高校の全男子生徒の憧れの的であり、生徒会長を務める三年生の白河 綾乃だった。
長い黒髪を風になびかせ、凛とした佇まいで蓮を見つめる彼女。普段は誰に対しても一定の距離を保ち、氷の令嬢とも呼ばれる優等生だ。
「白河会長? どうしてここに……」
蓮が身構えると、綾乃は静かに歩み寄り、蓮の目の前で立ち止まった。
そして、誰もいない屋上の空の下で、彼女は両手を前で揃え、信じられないほど優雅な仕草で深々と一礼したのだ。
「突然の無礼をお許しください。……白河財閥総裁、白河修一郎の孫娘にございます。桐生様と西園寺様が動かれたと聞き、我が白河家もご挨拶に参じました、若君」
蓮の手から、食べかけの菓子パンがポロリと地面に落ちた。
(……待て。嘘だろ? 桐生、西園寺に続いて……御三家最後の『白河』まで学校に潜伏してたのかよ――ッ!?)
静寂を望む少年の周囲に、逃れられない巨大な包囲網が、また一つ音を立てて完成しつつあった。




