第七章:立ち退きの刺客と、禁断のホットライン
翌朝、午前七時。
神崎蓮がトーストをかじり終えた瞬間、ボロアパートの薄い鉄扉がドンドンと乱暴に叩かれた。
「おい、神崎蓮! いるのは分かってんだぞ、開けろ!」
下品で野太い怒声。ドアスコープを覗くと、安物の派手なスーツを着たパンチパーマの男と、柄の悪い取り巻きが二人、狭い共用廊下を塞ぐように立っていた。
(道明寺の爺さんが言ってた通り、本当に来やがった……!)
蓮は昨夜、古びたノートPCで道明寺から渡されたUSBメモリの中身を確認していた。そこに入っていたのは、単なる脅迫のネタなどではない。市内の都市開発計画、地権者の裏金リスト、そして西園寺グループが裏で操るフロント企業「東都地所」の違法買収スキーム――かつて国家の影を牛耳ったフィクサーだからこそ握り得た、劇薬そのものの機密データだった。
蓮は深呼吸を一つして胸の内ポケットに手を当てた。そこには桐生巌から渡された漆黒のカードと、直通のホットラインが書かれた和紙がある。
チェーンをかけたまま、扉を五センチだけ開けた。
「何の用ですか。朝早くから迷惑なんですが」
男は蓮の顔を見るなり、脂ぎった顔を歪めて下卑た笑みを浮かべた。
「お前が神崎蓮だな? 俺は東都地所の鮫島だ。単刀直入に言う。このアパート一帯は西園寺グループの再開発指定区域になった。今日中に荷物をまとめて出て行ってもらう」
「今日中? 賃貸契約の満了はまだ先ですし、退去通知の法的手続きも取られていませんが」
「あぁん? ガキが生意気に法律語ってんじゃねえぞ!」
鮫島はドアの隙間に革靴を強引に突っ込み、顔を近づけて凄んだ。
「立ち退き料として百万円くれてやる。これで手を打て。西園寺の息がかかった開発に逆らって、この街でまともに生きていけると思うなよ? 登下校の道、トラックに轢かれないよう気をつけるこったな」
あからさまな脅迫。前世の蓮なら、この手のチンピラに凄まれただけで竦み上がり、言われるがままにサインしていただろう。だが、今の蓮の胸にあったのは恐怖ではなく、冷え切った計算だった。
西園寺司は昨日、自らスカウトに失敗したことで、実力行使に出たのだ。蓮の生活拠点を奪い、路頭に迷わせることで、力関係を叩き込もうという魂胆。
(本当に底が浅いな、西園寺……。平穏を脅かされるのは御免だが、売られた喧嘩を黙って買うつもりもない)
蓮はポケットからスマートフォンを取り出すと、スピーカー通話のボタンを押した。
発信先は、桐生巌のホットライン。
ワンコールすら鳴らなかった。
『――桐生でございます。若君、いかがなさいましたか』
スピーカーから漏れ出たのは、財界の巨頭・桐生巌本人の、極めて張り詰めた重厚な声だった。
鮫島たちチンピラは一瞬キョトンとした顔をし、「おいおい、警察か親父にでも電話したか?」と嘲笑を浮かべた。
蓮は鮫島の目を真っ直ぐに見据えたまま、淡々とスマートフォンへ語りかけた。
「桐生会長、朝早くからすみません。実は今、私の自宅アパートに東都地所の鮫島と名乗る方がいらしていまして」
『……東都地所? 確か西園寺の息がかかった地上げ屋の……。それが、若君の元に?』
電話越しの声の温度が、一瞬で絶対零度まで急降下した。
「ええ。今日中に立ち退かなければトラックで轢く、とおっしゃっています。どうやらこの一帯は西園寺グループの再開発指定区域だそうで……私のような者が住んでいると、街の発展の邪魔になってしまうようです」
蓮はあえて困ったような、哀れみを誘う声音を完璧に演じてみせた。前世で数え切れないほどの詐欺師の口車に騙されてきたからこそ、「人の感情をどう動かすか」の手の内は嫌というほど熟知していた。
次の瞬間、電話の向こうから、獣の咆哮のような凄まじい怒号が轟いた。
『――西園寺の餓鬼どもが、あろうことか若君の尊厳を踏みにじり、命を脅かすなどと……ッ!! 即刻、桐生家の全顧問弁護士団と機動警備課をそちらへ向かわせます! 若君、どうかその下衆どもの前で一歩もお引きになられますな! 桐生グループの総力を挙げ、東都地所、並びに西園寺の再開発計画を骨の髄まで叩き潰して御覧に入れます!!』
ガチャリ、と通話が切れた。
廊下に、気まずいほどの静寂が落ちる。
鮫島は引きつった笑いを浮かべ、「おいおい、今の芝居か? 桐生会長のモノマネとはいい度胸じゃねえか」と強がりを口にした。
しかし、それからわずか三分後。
アパートの外から、激しいタイヤのスキール音が連続して響き渡った。
一台、二台、三台――十台を超える大型の黒塗り車両がアパートの狭い路地を完全に埋め尽くし、バリケードのように取り囲んだのだ。
ドタドタと非常階段を駆け上がってきたのは、仕立ての良いスーツを着た屈強な男たち数十人と、アタッシュケースを抱えたエリート弁護士の集団だった。先頭に立つのは、昨朝の教室でも蓮の前に現れた桐生の第一秘書。
「神崎様、ご無事でしょうか!」
秘書は蓮に向かって深々と最敬礼をすると、振り返り、冷酷な瞳で鮫島たちを見据えた。
「東都地所、鮫島だな。貴様らの背任、恐喝未遂、および建築基準法違反の証拠は、今この瞬間をもって東京地検特捜部および警視庁捜査二課へ提出された。西園寺グループのメインバンクへの融資差し止め要請も、桐生会長の一声で完了している」
「は……? な、何言って……」
鮫島の顔から血の気が完全に引いた。目の前で起きている事態の規模が、チンピラの地上げの枠を遥かに超越していた。
弁護士の一人が冷ややかに書類を突きつける。
「貴様の会社は、本日正午をもって倒産する。そして貴様には、懲役十年の実刑が待っているぞ」
廊下に響き渡る鮫島の絶叫と、SPたちによって引きずり下ろされていく地上げ屋たちの無様な姿。
蓮はチェーンを外し、廊下で恭しく頭を下げ続ける秘書と弁護士たちを見下ろした。
秘書が感動に震える声で蓮を仰ぎ見る。
「会長へのご下命、誠にありがとうございました。西園寺の姑息な挑発を逆手に取り、奴らの再開発プロジェクトを一撃で粉砕する……まさに神算鬼謀、若君の深慮遠謀には平伏するばかりです」
蓮の引きつった笑みが、朝日に照らされた。
(……いや、俺はただ助けを呼んだだけなんだが?? なんで一瞬で会社が一個吹き飛んでんだよ……!?)
桐生家の狂信的な忠誠心と、道明寺から託された情報の破壊力。
ただ静かに暮らしたい高校生・神崎蓮の意図とは完全に真逆の方向へ、事態は「財閥抗争の全面戦争」という破滅的なスケールへと突き進んでいた。




