第六章:路地裏の再会と、暴かれる過去
安アパートへの帰り道、神崎蓮は背後を何度も振り返りながら、抜き足差し足で階段を上がっていた。
「頼むからもう誰も待ち伏せしてないでくれよ……」
築四十年、家賃三万円の木造モルタル。薄暗い共用廊下の蛍光灯がチカチカと不穏に明滅している。
部屋の前に辿り着き、ポケットから鍵を取り出そうとした瞬間、蓮の視界の端に何かが映った。
ドアの脇、古びた給湯器の影に、見覚えのあるボロボロの毛布が丸まっていた。
「……っ!?」
蓮は息を呑み、思わず二歩後ずさった。
ゆっくりと毛布が持ち上がり、無精髭に覆われた浅黒い顔が覗く。昨夜、ガード下で幕の内弁当を渡したあのホームレスの老人――桐生巌が「伝説の相場師、道明寺宗雲」と呼んで震え上がっていた男だった。
「よ、爺さん……なんでここに……」
蓮の喉がカラカラに乾いていた。
昼間の西園寺副社長とのやり取りで神経をすり減らしていた蓮にとって、すべての元凶とも言えるこの怪物の登場は、胃に穴が開きそうなほどのプレッシャーだった。
老人はゆっくりと立ち上がった。背筋は曲がっているはずなのに、放たれる気配は昼間の西園寺や桐生巌をも圧倒するほど重厚だった。老人は無言のまま、蓮の顔をじっと見つめ、それから蓮の制服の内ポケットに鋭い視線を走らせた。
「……桐生のブラックカードに、西園寺の札束か。小僧、一日でずいぶんと財界の首を絞めたようだな」
「全部あんたのせいだろ!」
蓮は思わず声を荒らげ、周囲を気にしてすぐにトーンを落とした。
「あんたが変な予言を残したせいで、俺はとんでもない名家の跡継ぎだと勘違いされてるんだ! 頼むからどこかへ行ってくれ! 俺は前世で……いや、俺は金持ちの権力争いなんかに巻き込まれたくないんだよ!」
老人は蓮の必死の訴えを、表情一つ変えずに聞いていた。
そして、ぼろ布の袖から手を出し、ポケットから何かを取り出した。それは、昨夜蓮が渡した弁当についていた、割り箸の紙袋だった。
「昨夜、ワシに弁当を寄越した時……お前は『腹が減ってちゃ朝まで持たない』と言ったな」
「……言ったよ。それがどうした」
「あの時のお前の目だ。……他人に情けをかける余裕などない、底辺の泥水をすすった者特有の、飢えと後悔の目をしていた」
老人の瞳が、夜の闇の中で怪しく光った。
「桐生や西園寺の腑抜けどもは、お前を『海外の隠世名家の若様』などとめでたい妄想で崇めているようだが……ワシの目は誤魔化せんぞ、小僧」
蓮の心臓がドキンと跳ねた。
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
「お前……身の丈に合わぬ見栄を張り、欲に目を眩ませてすべてを失い、惨めに野垂れ死んだ口だな?」
「ッ……!!」
蓮は息が止まりそうになった。
転生などというオカルトを信じる人間がいるはずがない。だが、この老人は蓮の魂の奥底にある「前世の死因」を、寸分の狂いもなく言い当てていた。
「な、何者なんだよ、あんた……」
蓮が震える声で問いかけると、老人は自嘲するように低く喉を鳴らした。
「道明寺宗雲。……十年前までは、そう呼ばれていたただの亡霊だ。国家の予算を転がし、他人の人生を数字で弄び、勝った気になっていた大馬鹿者さ。気づいた時には周りにはハイエナしか残っておらず、全てを失ってこのザマだ」
老人は静かに息を吐き出し、蓮の肩に痩せた手を置いた。その手は骨張っていたが、驚くほど温かかった。
「お前が昨夜見せた動き、そして先ほど西園寺の巨額の富をゴミのように蹴り飛ばした肚の据わり方……見事だったぞ。一度地獄を見て、虚飾の虚しさを知った者だけが持つ、本物の『冷徹さ』だ。奴らが勘違いして崇めるのも無理はあるまい」
「褒められても嬉しくない! 俺はただ、普通に生きたいだけなんだ!」
「だが、一度回り始めた歯車は止まらんぞ」
道明寺の声が、酷薄な現実を告げる。
「桐生は救われた恩義からお前を囲い込もうとし、西園寺はお前が桐生の懐刀になるのを恐れて手段を選ばず潰しにかかる。お前がいくら『ただの高校生だ』と叫んだところで、奴らは『これほどの器が正体を隠すのは、さらに巨大な策略があるに違いない』と深読みするだけだ。……逃げれば逃げるほど、奴らの妄想はお前を神へと押し上げる」
蓮は頭を抱えた。
まさにその通りだった。昼間の西園寺との会話がまさにそれだったのだ。否定すればするほど、相手は勝手に「底知れぬ怪物」として解釈を深めていく。
「じゃあ……どうすりゃいいんだよ」
絶望する蓮を見つめ、道明寺の口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
「簡単だ。奴らの勘違いを逆手に取り、利用してやればいい」
「は……?」
「お前が望む『平穏』とやらを手に入れるには、奴らが手を出せないほどの高みに立つしかない。桐生と西園寺……この二大財閥を掌の上で転がし、互いに牽制させろ。奴らが勝手にひれ伏している間、お前はその影で悠々自適に暮らせばいいのだ」
「そんな無茶苦茶な! 俺には知識も力も――」
「知識ならある。前世で味わった破滅の痛みが、何よりの武器だ。そして……」
道明寺はボロボロの懐から、古びたUSBメモリを一本取り出し、蓮の掌に押し付けた。
「足りぬ知恵は、このワシが貸してやる。温かい弁当一つの礼にしては、ちと高すぎる家庭教師だがな」
「おい、待てよ爺さん……!」
蓮が制止する間もなく、道明寺は音もなく身を翻し、暗い階段を軽やかな足取りで下りていった。
闇の中に消え去る間際、老人のしゃがれた声が再び廊下に木霊した。
「明日の朝、西園寺の息のかかった不動産屋がお前のアパートの立ち退きを迫ってくるぞ。……受けて立て、若君」
静まり返った廊下で、蓮は掌の冷たいUSBメモリを見つめたまま、天を仰いだ。
(平穏に暮らすって言ったよな……? なんで前世で大失敗した俺が、伝説のフィクサーを参謀にして、日本屈指の財閥相手に頭脳戦を仕掛けることになってんだよ……!!)
運命の濁流は、蓮のささやかな願いを嘲笑うかのように、少年を裏社会の頂点へと押し流そうとしていた。




