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第五章:放課後の包囲網と、黒塗りの影

放課後を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、神崎蓮は脱兎のごとく教室を飛び出した。

「おい、神崎! 一緒に帰ろうぜ!」

「神崎くん、今日の夜ヒマかな!?」

背後からクラスメイトたちの呼び止める声が雨霰のように飛んできたが、蓮は一度も振り返らなかった。下駄箱へ滑り込み、ローファーを乱暴に引っ掛けて裏門へと猛ダッシュする。

(付き合ってられるか! 一緒に帰ったら最後、根掘り葉掘り聞かれて取り巻きができて人生が終わる!)

前世の見栄っ張りだった自分なら、これほど周囲にチヤホヤされる状況に鼻の下を伸ばし、大喜びで高級飯でも奢っていたかもしれない。だが、メッキで固めた人間関係がいかに脆く、落ちぶれた時にいかに冷酷に背中を押して谷底へ突き落としてくるかを、蓮は骨の髄まで知っていた。

(あのカードだってそうだ……あんな物騒な板切れ、絶対に使えるか!)

制服の内ポケットには、桐生巌から押し付けられた金属製のブラックカードと、達筆な和紙が重々しく収まっている。まるで胸ポケットに小型の手榴弾を抱えているような落ち着かなさだった。

校庭を抜け、裏門の錆びたフェンスを飛び越える。住宅街の路地裏へと滑り込み、息を切らしながら歩幅を緩めた。

「はぁ……はぁ……よし、ここまで来れば誰も追ってこれないだろ」

額の汗を手の甲で拭い、ようやく一息ついた時だった。

前方の十字路の角から、静かに、そして音もなく滑り込んできた一台の車が、蓮の行く手を完全に塞ぐように横付けされた。

車種は漆黒のベントレー・フライングスパー。

朝に見た桐生の車列とは、明らかに纏う空気が違っていた。洗練された威圧感の奥に、どこか冷酷で剃刀のような鋭さを孕んだ佇まい。

「……またかよ」

蓮の喉が引きつった。引き返そうと後ろを振り向くが、すでに背後の路地にも別のセダンが停車しており、前後を完全に挟み込まれていた。

ベントレーの後部座席のドアが、音もなく開く。

車内から姿を現したのは、完璧に着こなしたスリーピースのスーツに身を包んだ、三十代半ばほどの怜悧な男だった。銀縁の眼鏡の奥で、氷のように冷たい瞳が蓮を品定めするように細められる。

男の周囲には、鍛え抜かれた体躯のSPが四人、無言で配置についていた。

「初めまして、神崎蓮くん……いや、『若君』とお呼びすべきかな」

男は唇の端をわずかに吊り上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。その声は低く、よく通る美声だったが、底知れぬ圧迫感を含んでいた。

「俺は名乗るほどの者じゃありません。急いでるんで通してください」

蓮は警戒心を剥き出しにして身構えた。桐生巌のような、分かりやすい敬意や好意のオーラではない。この男からは、他人の弱みを握り、利用し尽くそうとする冷徹な捕食者の気配がプンプンと漂っていた。

「そう警戒しないでほしいな。私は西園寺(さいおんじ) 司(つかさ)。西園寺ホールディングスの副社長を務めている」

(西園寺……!?)

蓮の背筋に冷や汗が流れた。

前世の記憶が警鐘を鳴らす。西園寺ホールディングスといえば、桐生グループと長年にわたり国内の覇権を激しく争っている、もう一方の巨大コングロマリットだ。特にこの西園寺司は「政財界の若き冷血漢」と恐れられ、敵対企業を容赦のない買収と罠で次々と解体してきたことで知られる男だった。

「朝の桐生巌の無様な茶番は、すでにこちらの耳にも入っているよ。あのみっともない老いぼれは、君を桐生の手駒として囲い込もうと必死らしい」

西園寺は一歩、蓮へと歩み寄った。

「だが、道明寺宗雲先生の教えを受け、一夜にして千億の損害を無効化した君ほどの傑物が、あんな落ち目の旧態依然とした財閥に飼い殺されるのはあまりに惜しい。どうだろう、我が西園寺グループと手を組まないか?」

西園寺は懐から、一通の黒い封筒を取り出した。

「手付金として、都心の一等地に建つプライベートタワーマンションの権利書と、スイス銀行の無記名口座を用意した。桐生が出したはした金とは桁が違う。君が我が陣営につくだけでいい。道明寺先生の『次の託宣』を、我が社に最優先で降ろしてくれれば、君をこの国の経済の真の支配者にしてあげよう」

蓮は乾いた笑いを漏らしかけた。

(次の託宣もクソもねえよ! ただの空腹の爺さんに弁当あげただけだって言ってんだろ!!)

内心では叫び散らしていたが、前世で数々の悪質な詐欺師や修羅場を見てきた蓮には、西園寺の目が何を企んでいるか手に取るように分かっていた。

こいつは自分を敬っているのではない。自分を都合のいい「予言の道具」として利用し、桐生を潰すための弾丸に仕立て上げようとしているだけだ。利用価値がなくなれば、即座に路地裏へ放り出されて始末されるのが目に見えている。

甘い誘いに乗って背伸びをすれば、前世の二の舞だ。

蓮はすっと背筋を伸ばし、西園寺の目を真っ直ぐに見据えた。

怯えも、欲望も、一切見せない。前世の最底辺で死を覚悟した時のような、虚無に近い冷徹な視線だった。

「西園寺副社長。あんた、大きな勘違いをしてる」

「……何?」

西園寺の眉がピクリと動いた。

「俺は誰の手駒にもならないし、あんたらのくだらない陣取り合戦に興味もない。都心のマンションもスイスの口座も、俺にはただのゴミ同然だ。……それとその封筒、さっさとポケットに仕舞いな」

蓮は顎で西園寺の手元を指した。

「そんな薄っぺらい餌で釣れる相手かどうか、自分の頭でよく考えるんだな」

そう吐き捨てると、蓮は西園寺の横を平然とすり抜けようとした。

SPの一人が蓮の肩を掴もうと手を伸ばしたが、西園寺が鋭い手勢でそれを制した。

「……待て」

西園寺の声の温度が、一段と下がっていた。蓮は足を止めず、そのまま歩き続ける。

西園寺は、夕暮れの路地を去っていく蓮の後ろ姿を、眼鏡の奥から凝視していた。

その眼には、先ほどまでの冷徹な打算ではなく、底知れぬ恐怖と畏敬の念が宿り始めていた。

「副社長、よろしいのですか? 力ずくで連れて行くことも可能ですが……」

SPのリーダーが耳打ちしたが、西園寺は青ざめた顔で首を横に振った。

「馬鹿者、手を出すな。……見えなかったのか、あの青年の目を」

西園寺の指先が、わずかに震えていた。

「数十億の資産を前にして、眉一つ動かさず『ゴミ同然』と言い放った。それどころか、我が西園寺家の圧力に一片の怯えも見せなかった。……あれはただの高校生や、道明寺の傀儡などではない。すでに巨万の富も権力も知り尽くし、それらを完全に超越した場所から我々を見下ろしている……真の『覇者の目』だ」

西園寺は深く息を吸い込み、冷たい汗を拭った。

「桐生巌が土下座した理由がようやく分かったよ。あれは敵に回していい人間じゃない。もし下手に怒らせれば、西園寺グループなど一夜にして地上から消し去られるぞ……!」

その頃、角を曲がって西園寺たちの視界から完全に消えた蓮は、電柱に手をついて激しく膝から崩れ落ちていた。

「ひ、ヒィィィィ……!! 死ぬかと思ったあああああ!!」

全身からドッと冷や汗が噴き出し、足の震えが止まらない。

「なんなんだよあの目! 絶対にヤバい奴らじゃん! なんで高校生が下校中にマフィアみたいな連中に絡まれなきゃいけないんだよ!」

平穏に暮らしたい。ただ質素に、真面目に、誰の邪魔もせず生きたいだけなのに。

蓮の必死の拒絶は、大物たちの脳内で「底知れぬ器の大きさ」へと勝手に変換され、事態はさらに制御不能な領域へと加速していた。

そしてその夜、蓮のアパートの前に、再び「あの老人」の気配が音もなく近づいていた――。

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