第四章:深まる誤解と、ブラックカードの重み
教室中が静まり返り、エアコンの微かな作動音すら途切れたかのような錯覚を覚える。
床にへたり込んだ担任教師は呼吸を忘れ、さっきまで教科書を借りに来ていた前の席の友人は、口元をワナワナと震わせながらじりじりと後ずさっていた。
「……あ、あの」
蓮は喉の奥から絞り出すように声を漏らした。背中にはびっしょりと冷や汗が張り付き、心臓が早鐘のように肋骨を叩いている。
前世で培った「嘘をつくと破滅する」という痛恨の教訓が、脳内で警告音を乱打していた。ここで変に調子に乗れば、前世と同じく底なし沼に叩き落とされる。今すぐ全力で否定し、誤解を解かなければならない。
「桐生会長、人違いです。俺はただの貧乏高校生で、名家の若君なんかじゃありません。昨夜のことも、ただの偶然で通りかかっただけなんです」
蓮はできる限り誠実な表情を作り、両手を振って平身低頭に否定した。
これでいい。大企業のトップともあろう切れ者なら、「なんだ、勘違いか」とあっさり引き返してくれるはずだ――そう信じていた。
だが、巌の反応は蓮の予想の真逆を行っていた。
巌はゆっくりと頭を上げると、慈父のような深い笑みを浮かべ、満足そうに何度も頷いたのだ。
「……素晴らしい。さすがは道明寺先生が認められた若君だ。功を誇らず、身分をひけらかさず、市井の徒として徹底して爪を隠すその忍耐力……感服いたしました」
(は?? なんでそうなるんだよ!?)
「私の配慮が足りませんでしたな。隠世の掟により、正体を公にするわけにはいかないお立場なのでしょう。このような衆人環視の場で大層に押しかけてしまい、ご不快な思いをさせたことを深くお詫び申し上げます」
巌はそう言うと、背後の第一秘書に軽く目配せをした。
秘書が恭しく取り出したのは、漆黒の桐箱だった。巌はその箱を両手で捧げ持ち、蓮の机の上に静かに置いた。
蓋が開かれる。
ベルベットの敷布の上に鎮座していたのは、鈍く光る艶消しの金属製カード――限度額が存在しないことで知られる、桐生グループ最上位のブラックアメックスだった。
「これは昨夜の物流拠点を救っていただいた、ほんの心ばかりの謝礼にございます。口座はすでにダミー名義で開設済み、このカードは世界中のいかなる決済でも無制限にご利用いただけます。どうか、お受け取りください」
「い、いや! 困ります! こんなもの受け取れません!」
蓮は本気で後ずさった。こんな恐ろしいカードを一枚持っているだけで、どこかの裏組織や税務署に目をつけられて人生が即座に詰む。
「本当に金なんていりません! 返してください!」
拒絶し、押し返そうとする蓮の手。
しかし、巌はその手を両手で包み込むようにそっと押し留めた。その瞳には、もはや崇拝にも似た熱が宿っている。
「……欲を一切見せず、巨万の富を前にしても眉一つ動かさない。やはり噂通りの器量格……。ですが若君、これをお受け取りいただけねば、桐生家のメンツが立ちません。『受け取ってやった』という体裁だけでも構いませんので、どうかお納めください」
巌は蓮に拒否する隙を一切与えず、懐から一枚の和紙を取り出した。
そこには、達筆な毛筆で電話番号が一つだけ記されていた。
「こちらは私直通のホットラインです。車の手配、トラブルの処理、あるいは街一つ買い取るようなご用命であっても、昼夜問わず二十四時間、桐生家の全リソースを動員して対応いたします。それでは、授業の邪魔をしてしまい失礼いたしました」
巌はもう一度最敬礼をすると、黒服の側近たちを引き連れ、嵐が去るかのように整然と教室を後にした。
廊下を遠ざかる革靴の音。
静寂が戻った教室の中で、蓮は机の上に残された漆黒のカードと和紙を見つめ、完全にフリーズしていた。
次の瞬間、教室が爆発したような騒乱に包まれた。
「か、神崎……お前、マジで何者なんだよ!?」
「桐生グループの会長が頭下げる高校生って何!?」
「若君って呼ばれてたぞ! おい、隠し財閥の御曹司ってマジか!?」
クラスメイトたちが怒涛の勢いで蓮の机を取り囲む。女子生徒たちの目は尊敬と好奇心で輝き、男子生徒たちは恐る恐る距離を保ちながら蓮を拝むように見つめている。担任の教師に至っては、普段の威圧的な態度はどこへやら、「か、神崎くん、何か学校生活で不都合な点があれば、いつでも校長室へ相談に来てくださいね……!」と揉み手をしながら擦り寄ってくる始末だった。
(終わった……俺の静かで平凡な高校生活が、完全に消し飛んだ……)
蓮は机に突っ伏し、心の中で頭を抱えて呻いた。
だが、運命の歯車はここで止まるはずもなかった。
同じ頃、街の反対側にある高級ホテルの一室では、桐生グループの動きを察知した競合財閥の密偵たちが、血眼になって蓮の身元調査を開始していた。
「桐生巌が高校生ひとりに頭を下げただと……? 裏にいるのは道明寺宗雲か。急ぎその青年の素性を探れ。桐生に先を越されるな、我らの陣営に引き込むのだ!」
ただ目立たず慎ましく生きたいだけの転生少年を、政財界の巨大な怪物たちが「伝説の覇者」と勘違いしたまま奪い合う、さらなる大波乱の幕が切って落とされようとしていた。




