第三章:巨頭の確信と、校門前の黒き車列
翌朝の空は、昨夜の阿鼻叫喚が嘘のように青く澄み渡っていた。
都心の一等地にそびえ立つ桐生グループ本社ビル。その最上階にある会長室には、重苦しい静寂と、張り詰めた緊張感が漂っていた。
「……信じられん。本当に、我が物流拠点は無傷だったのだな?」
重厚な一枚板のデスクを前に、財界の巨頭・桐生巌が低く唸るような声を出した。その手元には、現場から送られてきた被害状況の最終報告書が広げられている。
黒川流域の工場群や倉庫街は、軒並み濁流に呑まれて壊滅的な損害を被っていた。他社の被害総額は全体で数千億円に達すると試算されている。しかし、桐生グループの最新鋭物流ターミナルだけは、奇跡的に主要区画の浸水被害ゼロ。来週出荷予定の精密基板や車載半導体は、埃ひとつ被ることなく保管されていた。
「はい、会長。現場の統括マネージャーおよび当直責任者からの報告によりますと……未曾有の濁流が押し寄せる直前、突如として現れた一人の若者が完璧な避難・放水ルートを指示したとのことです」
黒服を着た第一秘書の男が、タブレット端末を巌の前に差し出した。
「現場の超高感度AIカメラが捉えた映像を復元いたしました。ご覧ください」
画面が再生される。
叩きつける暴風雨の中、泥水に怯える百戦錬磨の作業員たちを前に、レインコートを羽織った青年が迷いなく指示を飛ばしている。その立ち姿、指先の動き、そして一切の迷いがない眼光。
「この青年が、地下排水弁の遮断と北側側溝の開放を即座に命じました。さらに主電源喪失の時間を秒単位で予測し、予備電源車のバイパス接続を間に合わせております。土木工学、電気設備、そして危機管理の全てにおいて、最高峰の専門家でなければ不可能な即断即決です」
巌はディスプレイに顔を近づけ、青年の横顔を鋭く見つめた。
どこかあどけなさを残した、まだ十代とおぼしき少年。だがその瞳の奥には、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた者特有の、冷え切った凄みが宿っていた。
「……何者だ、この若者は。我がグループを貶めようとする競合の影か? それとも――」
「それだけではありません。昨夜の足取りを市内の防犯カメラネットワークで徹底的に遡ったところ、戦慄すべき事実が判明いたしました」
秘書が息を呑み、震える指先で画面を切り替えた。
映し出されたのは、高架下のガードレール沿い。暗がりの中で、青年がひとりの路上生活者に弁当を差し出している場面だった。
「この老人に見覚えはございませんか?」
巌は眉をひそめ、薄汚れた老人の顔を拡大させた。無精髭に覆われ、ボロボロの毛布を纏ったその男の瞳と目が合った瞬間、巌の全身に電撃のような衝撃が走った。
巌の手から高級万年筆が滑り落ち、机上に高い音を立てて転がる。
「ば、馬鹿な……! 道明寺……道明寺宗雲先生なのか!?」
「はい。十年前に政財界から突如として姿を消した、伝説の相場師にして影のフィクサー。かつて先代会長すら膝を屈して教えを乞うた怪物が、この街の片隅に潜んでおりました」
秘書はごくりと唾を飲み込み、監視カメラの音声復元データを読み上げた。
「道明寺氏は、この青年の施しを受け取り、こう警告しております。『今宵、黒川の流域には絶対に近づくな。龍が腹を立て、泥水が街の富を呑み込むぞ』と。それを受け、青年は一目散に我が物流拠点へ向かい、あの神業のような指揮を執ったのです」
会長室が完全に静まり返った。
巌は立ち上がり、ガラス張りの窓から眼下に広がる街並みを見下ろした。その両手は、興奮と武者震いで小刻みに震えている。
「傲岸不遜を絵に描いたようなあの道明寺先生が、他人の施しを素直に受け取り、あまつさえ未来の天変地異を授けただと……? あり得ん。相手がただの学生であるはずがない」
巌の頭の中で、点と点が猛烈な勢いで一本の線へと繋がっていく。
「……そうか。そういうことだったのか! 噂は本当だったのだな」
「会長……?」
「海外の巨額ファンドを牛耳り、国家の裏で暗躍すると囁かれるあの『不可侵の隠世名家』だ。次代を担う若君をあえて身分を隠して市井に放ち、極限の孤独と貧困の中で帝王学を修めさせているという密約……! 道明寺先生はその監視役、あるいは試練の案内人だったのだ!」
巌は確信に満ちた笑みを浮かべ、拳を強く握りしめた。
「若君は先生の試験を見事に突破し、さらにその恩恵を独り占めすることなく、見返りも求めず我が桐生家を破滅から救ってくださったのだ。これほどの器、これほどの知略……! この恩を仇で返すようなことがあれば、桐生家は末代まで呪われるぞ!」
「では、直ちに礼を……!」
「うむ! 最上級の敬意を示さねばならん。車を回せ! 桐生家の直系幹部を全員招集しろ! 私自らが若君の元へ赴き、御礼を申し上げる!」
同じ頃、県立光陵高校の三年二組。
神崎蓮は、自分の席で盛大なあくびを噛み殺していた。
「ふあぁ……眠い。完全に寝不足だ……」
昨夜の泥だらけのレインコートは風呂場で綺麗に洗い流し、今朝は何食わぬ顔で登校した。ニュースでは黒川の氾濫と桐生グループの奇跡的な無傷劇がトップで報じられていたが、蓮は心の中で「ふん、助かってよかったじゃん」と鼻を鳴らしただけだった。
目立たず、騒がれず、平穏な高校生活を終えて、身の丈に合った小さな整備工場か運送会社にでも就職する。前世のような見栄や虚栄心とは無縁の、堅実な人生設計。それこそが蓮の理想だった。
「おーい、神崎! 今日の一時間目って現代文だっけ?」
前の席の男子生徒が気安く声をかけてくる。
「おう、そうだよ。教科書忘れたのか?」
「やべっ、見せてくれよー」
こんな他愛のない、どこにでもある日常。これこそが欲しかったのだと、蓮は満足そうに微笑んだ。
その平和が破られたのは、朝のホームルームが始まる五分前のことだった。
校門の方から、地響きのような重低音が響いてきた。
一台、二台ではない。漆黒の高級サルーン――マイバッハとセンチュリーで構成された、常軌を逸した長さの車列が、静まり返った学校の正門を次々とくぐり抜けてきたのだ。
「な、なんだあれ!? ヤクザか!?」
「すげえ、全部一千万円以上する車じゃん!」
窓際にいた生徒たちが一斉にざわめき、教室の窓に鈴なりになる。教職員たちが慌てふためいて校庭へと飛び出していくのが見えた。
蓮も何気なく窓の外を見下ろした。
先頭のマイバッハから、威圧感のある黒服のSPたちに守られながら、仕立ての良い漆黒のスーツを纏った白髪の老紳士が降り立つ。その顔を見た瞬間、蓮の背筋に冷たい氷柱が突き刺さった。
(……嘘だろ? あの爺さん、経済ニュースの顔ぶれで一番よく見る……桐生グループの総帥、桐生巌会長じゃねえか!? なんでこんな地方の公立高校に……!?)
嫌な予感どころではない。前世で培った「最悪の事態を察知するセンサー」が、脳内でけたたましく非常ベルを鳴らし始めた。
「まずい、なんか知らんが絶対にまずい!」
蓮が反射的に席を立ち、教室の非常階段へ逃げ出そうとした、その時だった。
ドタドタと廊下を走るけたたましい足音が響き、勢いよく教室の前扉がガラリと開け放たれた。青ざめた担任教師と校長が、直立不動で震えながら道をあけている。
そして、黒服の男たちを両脇に従えた桐生巌が、ゆっくりと教室の中に足を踏み入れてきた。
教室中の全生徒と教師が息を呑み、静寂が張り詰める。
巌の鋭い眼光が教室を見渡し――窓際で立ち尽くしていた蓮の姿を捉えた瞬間、その厳格な顔が歓喜と深い敬意に緩んだ。
スタスタと、一点の迷いもなく蓮の机の前まで歩み寄る財界の巨頭。
蓮が冷や汗を流しながら引きつった笑みを浮かべた刹那、桐生巌は背筋を正し、教室中の誰もが見たこともないほどの角度で、深く、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、若君。桐生家当主、桐生巌にございます」
教室が、凍りついた。
「昨夜は我がグループの急所を的確なるご采配でお救いいただき、一族一同、感謝の念に堪えません。道明寺先生の試練をお見事に越えられたあなた様の英姿、拝見いたしました。……どうか、この桐生巌、ならびに桐生グループの全勢力、若君の今後の大業のため、手足としてお使いいただきたく存じます!」
クラスメイトたちの視線が、一斉に蓮へと突き刺さる。
担任は腰を抜かして床にへたり込み、先ほどまで教科書を借りに来ていた前の席の友人は、口をあんぐりと開けて蓮を神を見るような目で見上げていた。
蓮の頭の中で、必死に築き上げようとしていた「平穏で目立たない二度目の人生」の設計図が、音を立てて粉々に砕け散った。
(道明寺!? 若君!? 手足として使えぇぇぇ!? 待て待て待て、俺はただ昨日の夜、腹を空かせた爺さんにコンビニの幕の内弁当を奢っただけの貧乏高校生だぞ――ッ!?)
心の中で血を吐くような絶叫を上げながらも、蓮の顔には引きつった完璧なポーカーフェイスが張り付いていた。
周囲の勘違いと崇拝の濁流に、今まさに呑み込まれようとしていることだけを悟りながら。




