第二章:黒き奔流と、雨中の指揮官
トタン屋根を激しく打ち付ける轟音で、神崎蓮は跳ね起きた。
耳をつんざくような雨音。窓ガラスがビリビリと不穏に震えている。枕元のスマートフォンを手に取ると、時刻は午前三時十二分を指していた。
画面の上部には、真っ赤な帯で【緊急安全確保(警戒レベル5)】の通知がずらりと並び、激しい警告アラームがスピーカーから鳴り響いている。
「なっ……なんだこの雨!? 天気予報じゃ晴れだったはずだろ!」
カーテンを引き開けた蓮は、目の前の光景に言葉を失った。
空からバケツをひっくり返したどころではない。まるで滝の底に放り込まれたかのような猛烈な豪雨が、街灯の薄暗い明かりの中で白い幕となって渦巻いていた。道路はすでに踝の上まで冠水し、茶色い泥水が波打っている。
――『今夜、黒川の流域には絶対に近づくな。龍が腹を立て、泥水が街の富を呑み込むぞ』
ガード下にいた老人の、あの冷え切ったしゃがれ声が脳裏に蘇った。
「あの爺さん……本当に当てやがったのか!?」
全身の毛穴が開くような戦慄が走る。
蓮の借りている木造アパートは高台のふもとに位置しているため、直接の倒壊や土砂崩れの危険は薄い。だが、頭をよぎったのは、老人から警告された『黒川の流域』だった。
黒川の河川敷に隣接する巨大な低地埋立区画。そこには、国内最大の総合流通企業『桐生グループ』が巨費を投じて建造したばかりの超大型ハイテク物流ターミナルがある。
前世、見栄を張るために経済ニュースや株式市場ばかり血眼で追いかけていた蓮には、痛いほど分かっていた。
あそこには、翌週から国内外の大手電機メーカーへ一斉に出荷される予定の、極めて高精度な次世代車載半導体と精密基板が保管されている。もしあそこが水没すれば、数千億円規模の損害が出るだけでなく、国内の自動車や精密機器のサプライチェーンが完全に停止し、日本経済そのものが揺らぐ。
「……いや、関係ないだろ。俺には何の得もない。目立たないって決めたんだ」
蓮は自分に言い聞かせ、スマートフォンを布団の上に投げ捨てた。
自分はただのしがない十八歳の高校生だ。財閥の倉庫が水浸しになろうが、大企業の社長が頭を抱えようが、貧乏人の平穏な暮らしには何の関係もない。布団をかぶって朝まで寝ていれば、それで済む話だ。
だが、胸の奥底で、前世の忌まわしい記憶が疼いた。
――『危険な兆候に気づいていたのに、誰も声を上げなかった』
――『小さな判断ミスが連鎖し、一瞬で人生が崩壊した』
見栄を張り、失敗から目を背け、破滅していった前世の自分。現場の阿鼻叫喚と、すべてを失った人間の絶望の味を、蓮は誰よりも知っていた。
「……クソがっ! 意地でも平穏に生きるって決めたのに!」
蓮は荒々しく悪態をつきながら、玄関に掛けてあった厚手のレインコートを羽織り、長靴を履いた。
人助けのヒーロー気取りをする気はさらさらない。だが、あの現場で起こるであろう地獄をただ見過ごすことは、前世の後悔を引きずる蓮の魂がどうしても許さなかった。
濁流と化した坂道を駆け下り、黒川の物流ターミナルへ向かう。
雨脚は衰えるどころか、暴力的な勢いで叩きつけてくる。息をするのも苦しいほどの豪雨の中、蓮がターミナルの巨大な正門にたどり着いた時、そこはすでに混乱の極致にあった。
「水門が閉まりません! 漂流ゴミが挟まってモーターが焼き付きました!」
「地下の電源設備と第一倉庫に浸水が始まってます! このままだとあと十五分で地下が全滅します!」
「統括マネージャー! どうすればいいんですか!? 避難指示を出しますか!?」
土嚢を積もうにも水流に押し流され、社員や警備員数十人が泥まみれになりながら右往左往している。指示を出すべきマネージャーも顔面蒼白で立ち尽くし、完全にパニックに陥っていた。
このままでは、地下の主電源が落ち、排水ポンプがすべて停止して完全に施設が呑み込まれる。
見かねた蓮は、レインコートのフードを深く被ったまま、猛然と水の中へ踏み込んだ。
「全員、動きを止めろ!!」
雷鳴をも圧するような怒声が、土砂降りのターミナルに響き渡った。
泥水に足を取られかけていた社員たちが、弾かれたようにその声の主を振り返る。そこには、全身ずぶ濡れになりながらも、冷徹なまでの眼光で現場を見据える一人の青年が立っていた。
「だ、誰だ君は!? 部外者は危険だ、早く避難しろ!」
マネージャーが叫び返したが、蓮は取り合うことなく、鋭い手招きで現場の作業員たちを指し示した。
「喚いてる暇があるなら耳をかっぽじって聞け! 倉庫の構造を見れば分かるだろ! 地下の排水弁を手動で全部遮断しろ! 水が入ってから塞いでも遅いんだよ!」
前世で工場の設備投資詐欺に引っかかった際、嫌というほど叩き込まれた建築基準と配管図の知識が、蓮の頭の中で瞬時に組み上がっていた。
「北側のアプローチ道路を見ろ! 道路の傾斜を利用して、第二ゲート側の側溝カバーを重機で全部跳ね上げろ! あそこを臨時の放水路にして川の裏手の遊水池へ泥水を逃がすんだ! それから、予備電源車のキーを持ってる奴はいるか!?」
「あ、俺が持ってます……!」
若い整備士が、青年の異様な迫力に圧倒されて思わず手を挙げた。
「今すぐ電源車を高台の第三搬入口へ移動させろ! ケーブルを二階の予備分電盤に直結しろ! 十五分以内に地下の主電源が落ちる、それまでに切り替えの準備を終わらせろ! 死にたくなきゃ走れッ!!」
その指示には、迷いが一片もなかった。
何が最優先で、何を切り捨て、どこに活路があるのか――数々の失敗と破滅を見てきた者だけが持つ、冷酷なまでに的確な危機管理の判断。
マネージャーの喉がゴクリと鳴った。
(何者だ……? ただの少年じゃない。この現場の構造も、電気系統の弱点も、すべて最初から知っていたかのように把握している……!)
「な、何を突っ立ってる! あの人の言う通りに動け! 電源車を回せ! 側溝を開けろ急げぇっ!!」
マネージャーの怒号が響き、作業員たちが一斉に動き出した。
蓮の指示は、狂った歯車をピタリと噛み合わせるように機能した。跳ね上げられた側溝へと濁流が吸い込まれて水位の上昇がピタリと止まり、地下への浸水がギリギリのところで遮断される。そして蓮の予告通り、十四分後に地下の主電源がショートして爆発音とともに落ちたが、間髪入れずに高台の予備電源車が稼働し、主要な排水ポンプは一度も止まることなく唸りを上げ続けた。
「……ふう。これで持ちこたえるだろ」
作業員たちが歓声を上げ、復旧作業に追われる混乱の最中、蓮は誰にも気づかれないよう静かに列を離れた。
泥まみれのレインコートを脱ぎ捨て、再び深夜の暗闇の中へと姿を消す。
「おい、待ってくれ! あなたは一体――!」
背後からマネージャーが必死に呼び止める声が聞こえたが、蓮は一度も振り返ることなく、雨に煙る夜道を足早に歩き去った。
「危ねえ危ねえ……調子に乗って出張りすぎた。これでバレたら平穏な生活もおしまいだぞ」
自室の安アパートに戻り、熱いシャワーを浴びながら蓮は深く安堵のため息をついた。
これだけの大雨だ。暗闇と泥の中、レインコートで顔もろくに見えていなかったはず。これで自分の日常が脅かされることはない――そう高をくくっていた。
しかし、蓮は決定的なことを見落としていた。
桐生グループが誇る最新鋭物流ターミナルには、夜間でも人間の顔をミリ単位で鮮明に識別できる、軍事規格の超高感度AI監視カメラが網羅されていたという事実を。




