第一章:ガード下の予言と、温かい弁当
安いプラスチック容器越しに伝わる温もりが、神崎蓮のかじかんだ指先をじわりと温めていた。
深夜一時過ぎ。二十四時間営業のコンビニで買った、値引きシールの貼られた幕の内弁当とお茶のペットボトル。前世の自分であれば、こんな安売り弁当を手にすること自体、屈辱で耐えられなかったに違いない。
「……見栄なんて張るもんじゃないな、本当に」
蓮は自嘲気味に息を吐き出した。吐き出した白い息が、夜の街灯に照らされて溶けていく。
前世の記憶は、今でも鮮明な悪夢として蓮の胸にこびりついていた。
実力もないのにプライドばかり肥大化させ、金持ちの投資家を装って身の丈に合わない高級ブランドを買い漁り、人前で札束をばらまいては優越感に浸っていた日々。だが、メッキで塗り固めたハリボテの人生など長続きするはずがない。怪しげな投機話に騙され、借金は雪だるま式に膨れ上がり、最後は全財産を差し押さえられた。誰も助けてくれず、誰にも看取られず、吹きすさぶ寒風の中、凍てつく路地裏で孤独に息を引き取ったのだ。
その最期の瞬間に抱いたのは、後悔しかなかった。
大金持ちになりたかったわけじゃない。ただ人に認められたくて、バカにされたくなくて、必死に虚勢を張り続けていただけだった。
十八歳としてこの地方都市の安アパートで目を覚ましたとき、蓮は神に誓った。
二度目の人生では、絶対に背伸びをしない。大金も名誉もいらない。目立たず、騒がれず、日陰の片隅で慎ましく平凡に生きるのだと。
薄暗い高架下のガードレール沿いを歩いていると、視界の隅に黒い塊が映った。
湿ったダンボールを幾重にも敷き、ボロボロの毛布を纏って縮こまっている老人だった。夜風が吹き抜けるたび、小刻みに肩が震えている。通り過ぎようとする車や歩行者は、まるでそこにゴミ袋でも置かれているかのように視線を逸らして足早に去っていく。
蓮の足が止まった。
前世、すべてを失った自分が路上で行き倒れかけた日の光景が、フラッシュバックのように重なる。空腹で胃が焼け付くような痛み、寒さで指先の感覚が失われていく絶望。あの時、通り過ぎる誰かが一口の温かいものを恵んでくれたなら、どれほど救われただろうか。
「……関わるなよ、俺。目立たないって決めたろ」
自分に言い聞かせながらも、蓮の手は自然と動き、老人の前で膝をついていた。
「おい、爺さん」
声をかけると、毛布の隙間からわずかに白髪混じりの頭が動いた。
蓮はレジ袋からまだ温かい幕の内弁当を取り出し、老人の膝元にそっと置いた。さらに、温かいお茶のペットボトルのキャップをあらかじめ緩めてから、その脇に添える。
「これ、食えよ。腹が減ってちゃ、この冷え込みは越えられないだろ」
老人はゆっくりと毛布を払いのけ、顔を上げた。
薄暗い街灯の光に照らされたその表情を見て、蓮は思わず息を呑んだ。路上生活者特有の無気力さや怯えが微塵もない。無精髭に覆われた浅黒い顔郭の奥で、異様なほど鋭く冷徹な瞳が蓮をじっと射抜いていたからだ。
老人は弁当の蓋をじっと見つめ、それから蓮の顔を見上げた。乾いた唇がわずかに開き、しゃがれた重い声が夜気をつんざく。
「……小僧。施しか?」
「施しっていうか……ただの余り物だよ。腹が減ってるなら食えばいい」
蓮はそれ以上深く関わるのを恐れ、すぐに立ち上がって背を向けた。お人好しを演じるつもりはない。自分の気が済んだから、さっさと帰って寝るだけだ。
だが、背後から再び、低く地を這うような声が届いた。
「情けをかける相手を間違えるな。……だが、温かい飯の恩は返す主義でな」
蓮が足を止めると、老人は弁当の割り箸を割りながら、前を向いたまま言葉を続けた。
「今夜、黒川の流域には絶対に近づくな。龍が腹を立て、泥水が街の富を呑み込むぞ」
「……は?」
蓮が怪訝そうに振り返ったが、老人はすでに黙々と白米を口に運んでおり、二度と蓮の方を見ようとはしなかった。
「黒川に近づくな……?」
蓮は夜空を見上げた。雲一つない夜空には、澄んだ月と無数の星が静かに瞬いている。天気予報でも降水確率はゼロパーセントと言っていたはずだ。
「……ボケてるのか、それとも変な予言者気取りか」
蓮は肩をすくめ、足早に自分の安アパートへと向かった。
しかし、その時の蓮は知る由もなかった。老人が口にした「龍」が、数時間後に街を地獄へと変える前兆であったことも、そしてあの老人の正体が何者であるかも――。




