第十章:松風亭の晩餐と、絶対零度のブラフ
夕闇が濃くなる午後六時五分前。
郊外の竹林に囲まれた老舗料亭『松風亭』の周囲には、異様なまでの静寂と張り詰めた殺気が満ちていた。
一見すると静謐な日本庭園のあちこち、灯籠の陰や竹藪の隙間に、無線機を装着した桐生家の屈強な警備員たちが身を潜めている。さらに遠くの県道には、桐生巌が手配した救急車と防弾仕様の車両が待機していた。
そんな一触即発の結界を、制服のブレザー姿にボロいリュックを背負った神崎蓮が、ただ一人で歩いてくぐり抜けた。
(胃が……胃が痛すぎる……! 前世の借金の取り立てより百倍ヤバい空気だろこれ……!)
内心では膝をガクガクと震わせ、心臓が口から飛び出しそうな蓮だったが、前世で培った「ハッタリのポーカーフェイス」だけは完璧だった。
一度でも怯みを見せれば食い殺される。全財産を失い、冷酷な債権者たちに囲まれて死線をくぐった男の眼差しは、無意識のうちに氷のように冷徹な光を帯びていた。
料亭の最深部、池に面した離れの座敷。
床の間の掛け軸の前に、スリーピースのスーツを着た西園寺司が一人、静かに正座して待っていた。卓の上には湯気を立てる極上の懐石料理と、分厚い茶封筒が二つ置かれている。
「よく来てくれたね、神崎くん」
司は眼鏡の奥の目を細め、完璧なビジネスマナーで頭を下げた。だが、その声の端々には、朝の敗北を挽回しようとする獣のような執念が滲んでいた。
「単刀直入に用件を話してください。大家さんに手を出したらタダじゃ置かないと言ったはずです」
蓮は靴を脱いで座敷に上がると、勧められもしない座布団にドカッと腰を下ろした。礼儀もへったくれもない無造作な態度。だが、それが司の目には「財閥の副社長ごときに対等以上の態度を取る絶対的な強者の余裕」に映った。
司は薄く笑い、茶封筒を一つ、蓮の前へと滑らせた。
「誤解しないでほしい。君の住むアパートの大家さんには、迷惑料として相場の三倍の立ち退き保証金を支払った上で、熱海の高級温泉旅館への長期宿泊券をプレゼントしただけだ。危害を加える気など毛頭ないよ」
「……」
「そして、こちらは手打ちの証だ」
司がもう一つの封筒を押し出す。中から覗いたのは、都心部の一等地に新設される商業ビルの、未公開優先株式の割当証明書だった。額面にして数十億円、上場すれば数百億円に化けるプラチナペーパー。
「東都地所の件はこちらの落ち度だ。謝罪しよう。その代わり、この株を受け取り、我が西園寺と『不可侵条約』を結んでほしい。桐生に肩入れせず、中立を保ってくれるだけでいい」
司は身を乗り出し、蓮の瞳の奥を射抜くように凝視した。
これは謝罪であると同時に、最後の「踏み絵」だった。もし蓮がただの強運な高校生であれば、この巨額の富に目が眩むか、あるいは恐怖で受け取るはずだ。だが、もし本物の黒幕であるならば――。
蓮は封筒の束をちらりと一瞥した。
そして、小さく鼻を鳴らした。
「西園寺副社長。あんた、まだそんな紙切れで俺を試せると思ってるのか?」
「……何?」
「この未公開株、第三者割当増資の議決権制限条項が入ってるな? さらに譲渡制限特約付きだ。これを手にした瞬間、俺の個人情報は西園寺の監査部門に筒抜けになり、資産の動きを完全に監視される。……違うか?」
前世、ベンチャー投資の詐欺に引っかかり、契約書の罠で全財産を毟り取られた蓮にとって、この手の優先株のからくりは「見飽きた手口」だった。見栄を張って騙された過去の血の滲むような勉強が、完璧な分析となって口をついて出た。
司の背筋に、冷たい汗がツーと流れた。
(なっ……!? なぜ一目見ただけで、我が社の法務部が仕組んだ極秘の拘束条項を見抜いた……!?)
蓮はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップして卓の上に放り出した。
画面には、道明寺から渡されたUSBのフォルダ一覧が表示されている。そこには『西園寺グループ海外ダミー会社一覧』『粉飾決算裏帳簿(2018-2024)』という、触れれば西園寺財閥が一撃で爆散するような禁断のファイル名がずらりと並んでいた。
蓮は冷え切った声で、司の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺が本当に欲しいのは、金でも権力でもない。『静けさ』だと言ったはずだ。あんたがこれ以上、俺の日常に土足で踏み込んでくるなら……次は東都地所のような雑魚のトカゲの尻尾切りじゃ済まないぞ。本体の喉笛を噛みちぎる」
座敷の中の温度が、一瞬で氷点下に達した。
司の額から脂汗が吹き出し、膝の上で握りしめた拳がガタガタと震え始めた。
目の前にいるのは、高校の制服を着ただけの十八歳の少年ではない。百戦錬磨の老獪なフィクサーすら赤子のように手玉に取り、財閥の生死を指先一つで握る「絶対者」そのものだった。
「わ……分かった。私の完敗だ、神崎殿……」
司はプライドを粉々に砕かれ、畳に両手をついて深く頭を下げた。
「西園寺グループは今この瞬間より、あなた様の領域から一切手を引く。大家の件も白紙に戻し、アパート周辺の再開発計画も永久に凍結させよう。どうか……その刃を収めていただきたい」
「……分かればいいんだよ」
蓮は息を殺しながらスマホを回収し、座敷を立ち上がった。
足の震えを必死に抑え込みながら、背中を見せて引き戸を開ける。
(勝った……! 命拾いした……! もう二度とこんなヤバい場に来るもんか!!)
心の中で勝利の雄叫びを上げ、さっさとこの恐ろしい料亭から逃げ出そうとした、その時だった。
「見事な手腕でございました、若君」
庭の縁側の暗がりから、カツンと下駄を鳴らす音が響いた。
闇の中から姿を現したのは、桐生巌と、その後ろに控える白河綾乃だった。
二人の目は、完全なる心酔と崇拝の色に染まりきっていた。
「西園寺の狡猾な罠を完膚なきまでに論破し、膝を屈服させるとは……! まさに我が国の真の覇者にふさわしいご威光!」(桐生)
「お見事でしたわ、神崎様。これで御三家すべてが、あなた様の手のひらの上で踊る準備が整いましたね」(綾乃)
「……は?」
蓮はその場に凍りついた。
平伏したままの西園寺、感涙にむせぶ桐生、蠱惑的に微笑む綾乃。
日本の経済を牛耳る『御三家』のトップたちが、全員ひとつの座敷に揃い、高校生である蓮に向かって最敬礼を捧げているという、前代未聞の怪奇現象。
(待って……なんで全員ここに揃ってんの!? 俺はただ、大家さんのアパートを守って静かに暮らしたかっただけなのに……なんで俺が日本の裏の支配者みたいになってんだよぉぉぉぉッ!?)
少年の魂の絶叫は誰の耳にも届かず、勘違いの頂点へと登りつめた『伝説の若君』の覇道が、今まさに幕を開けてしまったのだった。




