第十一章:玉座の拒絶と、三つ巴の狂詩曲
縁側に立ち並ぶ桐生巌と白河綾乃、そして畳に額を擦り付けたままの西園寺司。
静まり返った座敷に響くのは、庭のししおどしが「カコォン」と竹を鳴らす音だけだった。
蓮は引きつりそうになる口元を必死に引き締め、喉元まで出かかった悲鳴を胃の底へと力技で飲み込んだ。
(落ち着け、落ち着け俺……! ここで『人違いです』『みんな帰ってください』なんて弱音を吐いたらどうなる? 『あんな神業のハッタリをかました男が今さら何を』と深読みされるか、あるいは嘘がバレて西園寺に東京湾へ沈められるかの二択だ……!)
前世で怪しげな投資グループの修羅場に巻き込まれた時、蓮が学んだ鉄則は一つだけだった。
――【怪物の群れに囲まれたら、自分が一番凶暴な怪物のフリを続けろ】
蓮は深く、長いため息をわざとらしく吐き出した。
その吐息は、呆れと侮蔑が完璧にブレンドされた「絶対者のため息」として座敷に響き渡る。
「……揃いも揃って、下らない真似をしてくれたな」
蓮の声は低く、氷のように冷たかった。
桐生巌がびくりと肩を震わせ、白河綾乃の瞳に一瞬の緊張が走る。
「桐生会長。誰がここまで嗅ぎ回っていいと許可した?」
「はっ……! 申し訳ございません、若君! 西園寺の卑劣な罠からあなた様をお守りせねばと、身勝手な焦りから越権行為を……!」
財界の巨頭が、子犬のように縮こまって頭を下げる。
「白河会長もだ。高みの見物を決め込むと言っておきながら、桐生を誘導してこの場を演出し、我が物顔で現れるとはな。……俺を舞台の上の役者か何かと勘違いしているのか?」
綾乃の涼やかな頬が、わずかに蒼白に染まった。
蓮はただ、学校の屋上で彼女が言っていた「中立で見届ける」という言葉を適当に咎めただけだった。だが綾乃の頭の中では、「裏で桐生に情報を流して共闘体制を敷こうとした自分の浅知恵を、この怪物は一手目から完全に見抜いていた」と変換されていた。
「……滅相もございません。若君の御前での浅はかな小細工、恥じ入るばかりですわ」
誇り高き氷の令嬢が、深々と頭を垂れる。
座敷の空気は完全に蓮の独壇場だった。
畳に平伏したままの西園寺司は、もはや呼吸すら満足にできないほどの恐怖に打ち震えている。桐生、白河という名だたる財閥の頂点が、自分と同じように一人の青年の前で平伏しているのだ。
蓮は腕を組み、三人を冷徹に見下ろした。
「いいか、よく聞け。俺はお前たちの『御三家』だの『経済の支配』だのという下らないごっこ遊びに加わる気は一切ない。利権を奪い合って共倒れしようが知ったことじゃないが……」
蓮は一歩踏み出し、床の間の柱をコツンと指の背で叩いた。
「俺の高校生活、俺の住むアパート、俺の食う飯――俺の日常の半径五メートルにこれ以上土足で踏み込んでみろ。……その時は、道明寺の爺さんから預かった残りのデータを使って、お前ら三家まとめて市場から永久追放してやる」
完璧なブラフだった。
残りのデータなど、蓮には難解な財務諸表の羅列で半分も理解できていない。だが、この三頭の怪物を縛り付けるには、それだけで十分すぎた。
「肝に銘じておきます……!」(桐生)
「決して、神崎様の平穏を脅かすような真似はさせません」(綾乃)
「誓います……! 西園寺グループの名にかけて……!」(司)
「話は終わりだ。……料理代は西園寺、お前が払っておけ」
蓮は背を向け、一度も振り返ることなく料亭の廊下を歩き去った。
堂々たる足取り、一切の無駄がない背中。
残された三人は、蓮の姿が完全に闇に消えるまで、誰一人として顔を上げることができなかった。
料亭の門をくぐり、竹林の暗がりを抜けて大通りに出た瞬間――。
「ぎゃああああああああああああっっっっ!!!」
蓮はガードレールに両手をつき、その場に崩れ落ちた。
全身から滝のように吹き出す脂汗。膝は笑い、歯の根がガチガチと音を立てて鳴っている。
「言った……! 言っちまったよ!! 『三家まとめて永久追放してやる』ってなんだよ中二病か!? 死ぬ! 本当にいつかバレて殺される!!」
だが、安堵の息を吐きながら夜空を見上げた蓮は、ふと気づいた。
「……あれ? でもこれで、大家さんも無事だし、西園寺も手を引いたし、桐生も白河も勝手にビビって近づいてこない……のか?」
そう、蓮のハッタリは完璧に機能したのだ。
三財閥はお互いに「神崎蓮の機嫌を損ねた者が真っ先に滅ぼされる」という強烈な恐怖を植え付けられた。結果として、誰も蓮の半径五メートルに手を出せない、歪で完璧な「不可侵の平穏」が成立してしまったのである。
「よ、よし……! これで明日からは、本当に普通の高校生として平和に暮らせるはずだ……!」
蓮は胸を撫で下ろし、泥のように重い足取りでボロアパートへの帰路についた。
だが、蓮はまだ知らなかった。
料亭に残された三人の怪物が、互いに顔を見合わせ、全く別の結論に至っていたことを。
「……聞いたか、桐生殿、白河のお嬢さん」
顔を上げた西園寺司の瞳には、敗北の屈辱ではなく、異様なまでの野心が燃え盛っていた。
「若君は『俺の日常の半径五メートルに踏み込むな』と仰った。……逆に言えばだ」
桐生巌が獰猛な笑みを浮かべて頷く。
「うむ。若君の『見えない外側』で、若君が不快に思われる全ての障害を先回りして排除せよ……という至上命令だな」
白河綾乃もまた、魅惑的な笑みを唇に湛えた。
「ふふ、ええ。若君が『平凡な高校生』として快適に過ごせるよう、学校の理事会、街のインフラ、通学路の治安……全てを陰から完璧にプロデュースして差し上げるのが、我らの務めですわね」
『若君に最も忠実な僕は誰か』――。
三つ巴の覇権争いは、「誰が一番完璧に神崎蓮の平穏を偽装できるか」という、常軌を逸した狂気の忖度合戦へと姿を変えようとしていた。




