第十二章:見えざる鉄壁と、行き届きすぎた日常
翌朝、目覚まし時計の電子音で飛び起きた神崎蓮は、まず恐る恐る部屋の窓から外を覗き見た。
昨日までの物々しい黒塗りの高級車列はない。SPの姿も、ヤクザまがいの地上げ屋の影もなかった。
静まり返った住宅街を、登校中の小学生や散歩中の犬がのんびりと横切っていく。
「……勝った。本当に終わったんだ……!」
蓮は胸を撫で下ろし、心底からの安堵の息を吐き出した。
あの老獪な怪物たちを相手に、昨夜のハッタリ一本で乗り切ったのだ。二度目の人生、前世の修羅場で培った泥臭い演技力が初めて役に立った瞬間だった。
身軽な気分で制服に着替え、いつもの通学路へ足を踏み出す。
目立たず、騒がれず、ただの平凡な高校生として生きる日常が、ようやく戻ってきたのだ――そう信じていた。
しかし、歩き始めて三分で、蓮は猛烈な違和感に襲われた。
通学路の曲がり角にあった、長年ボロボロで放置されていたアスファルトの陥没穴が、なぜか一晩でピカピカの最新舗装に変わっている。しかも、道路の隅には「見守り隊」と書かれた蛍光ベストを着た男が立っていた。
男の体躯はあからさまに鍛え抜かれており、ベストの下から仕立ての良い防弾スーツの襟元が覗いている。
(……え? あの人、明らかに昨夜の桐生グループのSPじゃないか……?)
蓮が恐る恐る近づくと、男は背筋をピシリと伸ばし、視線を合わせないまま直立不動で「おはようございます、いってらっしゃいませ」と機械のように深く会釈した。蓮の半径五メートルに決して踏み込まないよう、ミリ単位で距離を保ちながら。
(待て待て待て、気のせいだ。きっと地域のボランティアだ……)
冷や汗を拭いながら、いつものコンビニに立ち寄る。
朝食用の百二十円のツナマヨおにぎりを手に取ってレジに持っていくと、レジ打ちの店員の動きが異様に洗練されていた。まるで一流ホテルのチーフコンシェルジュのような無駄のない所作でバーコードを読み取り、お釣りを両手で恭しく差し出してくる。名札を見ると「研修生・西園寺」と小さく印字されていた。
(おい! 西園寺の息がかかったエリート社員がなんで早朝バイトやってんだよ!!)
さらに、棚のサンドイッチやおにぎりは全て、ミシュラン三つ星店が監修したような超高級オーガニック食材のシールがひっそりと貼られており、値段だけが百円均一に据え置かれていた。
「……いや、おかしい。絶対におかしい」
蓮は逃げるようにコンビニを出て、高校の正門へと急いだ。
校門をくぐると、いつもなら小うるさい生活指導の教師が仁王立ちしているはずの場所には、なぜか校長自らが立っていた。校長は蓮の姿を視界に捉えるなり、一歩後ずさって道を開け、腰が折れ曲がるほど深々と一礼した。
教室に入ると、さらに狂気は加速していた。
「あ、神崎! おはよう!」
前の席の男子生徒が、極めて自然に、だがどこか事前に何百回もリハーサルを重ねたかのような完璧な笑顔で話しかけてくる。
「今日の小テスト、めちゃくちゃ簡単らしいぜ。あ、あとこれ、購買でパン余ってたから食うか?」
差し出されたのは、銀紙に包まれたクロワッサンだった。どう見ても銀座の高級ベーカリーから今朝プライベートジェットで空輸してきたような、信じられないバターの香りを放っている。
「……お前、これどこで買ったんだ?」
「え? 購買だけど? 普通に百五十円で売ってたぞ?」
男子生徒の瞳には一片の悪気も嘘もない。周囲を見渡せば、クラスメイトたちは蓮に対して腫れ物に触るような態度を一切見せず、ごく「普通のクラスメイト」として接してくる。
だが、その全員の行動が、あまりにも不自然なほど蓮の快適さのために最適化されていた。
蓮が窓を開けようとすれば、隣の席の生徒が「あ、風通し良くしようか!」と絶妙なタイミングで立ち上がり、蓮が教科書を忘れそうになれば、前の席の生徒が「二冊あるから貸すよ」と予備を差し出す。
誰も「名家の若君」などとは呼ばない。誰もあの事件に触れない。
――『若君の日常の半径五メートルに踏み込むな』
昨夜、蓮自身が放ったあの言葉が、恐ろしい精度で実行されていたのだ。
(あいつら……俺の言葉を文字通り受け取って、裏で街ごと、学校ごと俺の環境を作り変えやがった……ッ!!)
窓の外を見下ろすと、中庭の木陰に白河綾乃が立っていた。
彼女は蓮の視線に気づくと、誰にも見えない絶妙な角度で、指先を揃えて胸元で小さく一礼してみせた。その涼やかな瞳は、「ご満足いただけましたでしょうか、若君」と雄弁に語っていた。
さらにスマホが一度だけ震えた。
画面を開くと、桐生巌から極めて短く、暗号のようなメッセージが一件だけ届いている。
『通学路の舗装、不審者の排除、購買の栄養管理、完了しております。若君の平穏を脅かす因子は、我が桐生が影となって未来永劫、完璧に消去し続けます』
蓮は机に突っ伏し、両手で頭を抱え込んだ。
「違う……俺が求めてた平穏は、こんなディストピアみたいな接待空間じゃない……!!」
大物たちを恐怖で縛り付けた結果、世界そのものが「神崎蓮を満足させるための壮大な舞台装置」へと歪んでしまった。
そして放課後。
この異常すぎる完璧な日常に、さらなる「予測不能な外敵」が、海外から牙を剥いて近づきつつあった――。




