第十三章:海を越えてきた狼と、歪んだ平穏の亀裂
放課後のチャイムが鳴り響いても、蓮は席から立ち上がれずにいた。
あまりにも快適すぎる。息苦しいほどに。
教室を出れば、まるでモーセの十戒のように廊下の生徒たちが自然と道を譲り、下駄箱を開ければ湿気ひとつない完璧な脱臭が施されている。校門を出る蓮の背後では、三財閥の私服SPたちが一般人を装いながら半径五メートルの不可侵サークルを厳格に維持していた。
(もう嫌だ……。コンビニのおにぎりがトリュフの香りがするのも、通学路の野良猫が首輪付きの高級ペルシャ猫に入れ替わってるのも、全部耐えられない……!)
前世で憧れた「何不自由ないセレブの生活」が、これほど精神をすり減らす拷問だったとは思いもしなかった。見栄を張って死んだ前世の自分を、蓮は今さらながら心の底から殴り飛ばしたかった。
ため息をつきながら、アパートへ向かういつもの路地を歩く。
その時だった。
「――ほう。この国を牛耳る三匹の豚をまとめて手懐けたのが、そのガキか」
低く、ザラついた異国の訛りが混じる日本語。
蓮の足がピタリと止まった。
路地の前方を塞ぐように、一人の男が立っていた。
年の頃は三十手前。彫りの深い精悍な顔立ちに、無造作に刈り上げられたプラチナブロンドの髪。軍用のタクティカルジャケットを羽織り、ポケットに両手を突っ込んでいる。その全身から放たれているのは、桐生や西園寺のような「資本の力」ではなく、純粋な「暴力と死線」の匂いだった。
男の後ろには、音もなく黒塗りの大型SUVが二台、アイドリング音を潜めて停まっている。
「……誰だ?」
蓮は直感的に悟った。国内の勢力ではない。三財閥の過剰な忖度ガードを、力ずくで突破して入り込んできた本物の外敵だと。
男は口元を歪め、獰猛な狼のように歯を剥いて笑った。
「名乗るほどの者じゃねえが、海を渡ってきた『ハウンド・セキュリティ』の頭、レオン・ヴァレンタインとでも呼んでもらおうか。……桐生と西園寺が、日本の片田舎の高校生に屈服したと聞いてな。どんな化け物かと思えば、ずいぶんと可愛らしい坊ちゃんじゃねえか」
(ハウンド・セキュリティ……!?)
前世の記憶が警鐘を乱打した。
海外の紛争地帯で要人警護や非合法工作を請け負う、悪名高い超巨大民間軍事会社(PMC)だ。なぜそんな血生臭い連中が、日本の地方都市の路地裏にいるのか。
「お前が持ってる道明寺のネタ……あれのせいで、俺たちのクライアントである海外の多国籍ファンドが、西園寺経由で数十億ドルの損失を食らいかけてるんだよ」
レオンは一歩、蓮へと踏み出した。その足取りには一切の迷いがない。
「三財閥の腰抜けどもはお前のハッタリに怯えて平伏したようだが、俺たちには関係ねえ。データが入ったUSBを渡してもらおう。……断るなら、その華奢な手足を一本ずつ折ってから持ち帰るだけだ」
瞬間、路地の両脇の電柱の陰や建物の屋根から、桐生と西園寺の私服SPたちが一斉に飛び出した。
「そこまでだ! 若君の領域から退け!」
「不法侵入および脅迫現行犯で拘束する!」
訓練されたエリート警備員たちが、一斉にレオンを取り囲む。
だが、レオンは眉一つ動かさなかった。
「……チッ、ハエどもが」
レオンが身を翻した瞬間、常人の目では捉えきれない鋭い拳と蹴りが繰り出された。
ゴッ、バキッという生々しい骨の軋む音。
わずか五秒。桐生と西園寺が誇る最高峰のSP四人が、反撃すら許されず、泥水の上へくの字に折れ曲がって沈んでいた。
圧倒的な、暴力の絶対値。
「おいおい、こんな粗大ゴミで俺を止められると思ったか?」
レオンは靴の先についた泥を払い、冷酷な瞳で蓮を見据えた。
「さあ、坊ちゃん。命乞いの時間だぜ」
周囲に助けはいない。半径五メートルを死守していた見えざる鉄壁は、レオンという本物の狂獣によって一瞬で粉砕されたのだ。
蓮の心臓は激しく跳ね上がり、呼吸が詰まりそうになっていた。
逃げ場はない。相手は前世で出会ったどんな詐欺師やヤクザよりも、遥かに死に近い存在だった。
(死ぬ……! 今度こそ本当に殺される……!)
恐怖で視界が明滅する。
だが、その極限のパニックの中、蓮の脳裏にふと、前世の最期の光景が蘇った。
借金取りに囲まれ、凍え死ぬ寸前、ただ見苦しく命乞いをして見下されたあの惨めな記憶。
――『二度目の人生でまで、同じように無様に死んでたまるかよ』
奇妙な開き直りが、蓮の恐怖を急速に冷却していった。
どうせ死ぬなら、最後までハッタリを貫いてやる。前世の二の舞だけは絶対に御免だ。
蓮はすっと背筋を伸ばし、ポケットから両手を抜いた。
そして、泥まみれで倒れるSPたちを一瞥もしないまま、レオンの目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、恐怖も動揺も、一片の焦りすら浮かんでいなかった。
「……ハウンド・セキュリティのレオン、だったか」
蓮の声は、夕暮れの路地を切り裂くほど静かで、平坦だった。
「お前たちの雇い主である海外ファンド……ケイマン諸島にダミーを置く『アトラス・キャピタル』だな?」
レオンの眉が、わずかにピクリと跳ねた。
「昨夜、道明寺の爺さんと話した時、ついでに聞いたよ。お前たちが過去五年間に紛争地域で横流しした兵器のシリアルナンバーと、その裏金のロンダリング経路……あれを国際刑事警察機構と国連安保理の査問委員会へ同時に送信するマクロが、俺のスマホのワンタップで起動するようにセットしてある」
完全なる嘘。出まかせの極地だった。
アトラス・キャピタルという名前は、前世で経済雑誌のゴシップ欄で読んだことのある怪しげなファンドの名前を適当に口にしただけだ。
だが、蓮は前世で「見栄を張るためだけに培った無駄な知識」と「死線をくぐった者にしか出せない虚無の眼光」を総動員し、冷徹に言葉を紡ぎ続けた。
「手足を折る? 面白いな、やってみろよ。……その代わり、お前が俺の骨を一本折るのと引き換えに、お前の組織は世界中で口座を凍結され、テロ支援組織に指定されて全員が国際指名手配犯になる。お前の部下も、家族も、逃げ場は地球上のどこにも残らないが……それでもやるか?」
蓮は自ら一歩、レオンの目の前へと踏み出した。
距離、わずか五十センチ。触れれば即座に首を折られる間合い。
だが、蓮は瞬き一つせず、レオンの喉元を見据えていた。
路地に、重苦しい沈黙が落ちた。
レオンの額に、ツッと一筋の冷や汗が流れた。
歴戦の傭兵であるレオンの直感が、全身の毛穴を逆立てて叫んでいた。
――『こいつは、ただのガキじゃない。自分の命すら最初から計算に入れた上で、こちらの組織全体を道連れに爆破する準備を終えている狂人だ』
「……クソが」
レオンの喉から、掠れた悪態が漏れた。
上げた拳を、握りつぶすようにゆっくりと下ろす。
「……情報源が道明寺だけじゃないとは思っていたが、そこまで筒抜けだったとはな。『隠世の名家』の若頭……噂以上の化け物だ」
レオンは吐き捨てるように踵を返し、SUVのドアを開けた。
「今回は引き上げる。だが覚えておけ、神崎蓮。海外の連中はお前をこれ以上野放しにはしない。……次は俺のような分かりやすい暴力じゃないぜ」
けたたましいスキール音を残し、SUVは夕闇の中へと逃げ去っていった。
車のテールランプが角を曲がり、完全に気配が消えた瞬間。
「ひ……っ、ひぎゃああああああああああああああっっ!!!」
蓮の膝が音を立てて崩れ落ち、道路の泥水の中へ四つん這いになった。
心臓は早鐘を通り越して破裂寸前、胃液が逆流しかけ、両手は痙攣したようにガタガタと震えている。
「死んだ! 絶対に死んだと思った!! なんで適当に言ったファンドの名前がドンピシャで刺さってんだよバカヤローッ!!」
泥まみれの制服のまま、蓮は路地裏で涙目になって叫んだ。
前世の記憶の断片が奇跡的に噛み合っただけの一世一代のギャンブル。だが、その代償として、蓮の存在は「国内の財閥を支配した怪物」から「国際的な軍事組織すらブラフ一つで退ける正体不明の怪童」へと、世界規模で格上げされてしまっていた。
その時、倒れていた桐生家のSPが、血を流しながらも感激の涙を浮かべて蓮を仰ぎ見た。
「わ、若君……自ら矢面に立ち、我が身を挺して我らをお救いくださるとは……! この桐生、命に代えてもあなた様にお仕えいたします……!」
「ち、違うんだ……お前らを助けたかったわけじゃなくて……」
蓮の弱々しい弁明は、駆けつけてきた白河家の医療ヘリの爆音にかき消され、夜空の彼方へと消えていった。




