第十四章:深夜の密談と、真の怪物の足音
頭上を旋回する白河家の医療ヘリが巻き起こす猛烈なダウンウォッシュに、蓮のボサボサの髪が激しく煽られていた。
白衣を着た医療班が路地裏へ次々とラペリング降下し、血を流して倒れていた桐生と西園寺のSPたちを手際よく担架へ乗せていく。その一連の救護活動の指揮を執っていた白河綾乃は、泥水に四つん這いになって震えていた蓮の元へ静かに歩み寄ると、自らのカシミアのショールをそっとその肩に掛けた。
「……無茶をなさいましたね、神崎様」
綾乃の瞳は、これまでに見たどの瞬間よりも濃密な熱と狂信を帯びていた。
「レオン・ヴァレンタイン……欧州の裏社会で『首刈り狼』と恐れられる男を相手に、たった一人で前に立ち、組織の急所を突いて撤退に追い込むなど。あの歴戦の猛獣を前に、一歩も退かぬ胆力……祖父もこの報告を受け、武者震いを禁じ得ない様子でしたわ」
「いや、だから……」
蓮はショールを握りしめながら、力なく呟いた。
「俺は……ただ腰が抜けて……動けなかっただけで……」
「ええ、分かっております。表向きは『ただの高校生が怯えていただけ』――そう世間に思わせるための擬態ですね。完璧なカモフラージュです」
(通じねえ……! このお嬢様、俺の日本語を全部『高度な暗号』に脳内変換してやがる……!!)
「ご安心ください。倒れた方々の処置も、現場の痕跡消去も、我が白河が完璧に済ませます。若君はどうぞ、温かいお風呂に入ってお休みくださいませ」
深々と頭を下げる綾乃に見送られ、蓮は幽霊のような足取りで、ようやくアパートの自室へと逃げ帰った。
泥だらけの制服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びて布団に潜り込んでも、全身の震えは一向に収まらなかった。
前世で背伸びをした結果は借金地獄だった。だが今世でやっている背伸びは、もはや国家レベルの爆薬の上でタップダンスを踊っているようなものだ。一歩踏み外せば、借金どころか物理的に消し飛ばされる。
「……もう限界だ。明日、全部ぶちまけよう」
蓮は暗闇の天井を見上げ、固く決意した。
桐生にも、西園寺にも、白河にも、土下座して正直に言おう。「俺はただの元借金塗れの転生者で、知識も適当、ハッタリをかましただけの貧乏高校生です」と。殺されるかもしれないが、このまま世界規模の紛争に巻き込まれるよりはまだマシだ。
そう心を決めて、ようやく浅い眠りに落ちかけた――深夜二時過ぎのことだった。
カタ、と窓の外で小さな音がした。
二階の部屋のはずだった。
蓮が跳ね起きると、施錠していたはずのベランダの窓が音もなく滑るように開き、夜風とともに一人の影が室内に滑り込んできた。
「……よお、小僧。派手に暴れたそうだな」
ぼろ布の毛布を纏い、片手にコンビニの安酒のカップを持った老人――道明寺宗雲だった。
「じ、爺さん!? なんで鍵を開けて入ってきてんだよ!」
「この程度の安アパートの鍵なんぞ、針金一本あれば三秒だ」
道明寺は無造作に畳の上にあぐらをかき、蓮をじろりと見据えた。
「ハウンドのレオンを口先一つで追い払ったと聞いてな。……おいおい、アトラス・キャピタルのロンダリングルートをインターポールに流すマクロだと? よくもまあ、そんなデタラメなブラフをあの狂犬の前で堂々と吐けたもんだ」
蓮は息を呑んだ。
「……やっぱり、出まかせだって気づいてたのか?」
「当たり前だ。あんな即席の脅し、ハウンドの分析班が本腰を入れて調べれば、三日と持たずに『そんなマクロは存在しない』とバレる」
「じゃ、じゃあ……ッ!?」
蓮の顔から血の気が引いた。
「ああ。バレた瞬間、レオンは部隊を引き連れて戻ってくるぞ。今度は話など聞かず、遠距離からスナイパーライフルでお前の頭を吹き飛ばしにな」
「ひっ……!」
喉から引きつった悲鳴が漏れる。
道明寺は酒を一口呷り、ニヤリと獰猛に笑った。
「だが、安心しろ。そのデタラメなハッタリを『真実』に変えてやればいいだけの話だ」
「……は?」
「昨夜渡したUSBの第三フォルダ……その奥にある暗号化ファイルを、ワシの指紋で先ほどロック解除しておいた。そこには、アトラス・キャピタルが過去十年に渡って行ってきた、本物の国際不正送金の全ログが入っている」
道明寺はカップ酒を畳に置き、蓮の顔に鼻先がつくほど顔を近づけた。
「お前が口先で描いた出鱈目の絵画に、ワシが本物の血の絵の具を塗ってやったのさ。……これで、お前がレオンに放った脅迫は、完璧な『事実』になった。奴らは今頃、本国の拠点で顔面蒼白になりながら防空壕に潜り込んでいるはずだぞ」
蓮は開いた口が塞がらなかった。
この怪物は、自分が生き残るために適当に口走った嘘の帳尻を合わせるためだけに、世界規模の金融スキャンダルを本当に引き金を引いて炸裂させたのだ。
「なんで……なんでそこまで俺に肩入れするんだよ、爺さん! 俺はただ、あんたに余った弁当を渡しただけの赤の他人だぞ!?」
蓮の叫びに対し、道明寺はふっと目を細め、静かに夜の窓の外を見つめた。
その横顔には、伝説の相場師としての冷酷さではなく、人生の全てを失った老人の、底知れない哀愁が漂っていた。
「……ワシはな、かつて世界を意のままに動かしている気になっていた。だが、周りに集まってきたのは、ワシの金と権力に群がるハイエナどもだけだった。飢えと寒さで野垂れ死にかけた時、手を差し伸べてくれた奴など、誰一人としていなかった」
道明寺は蓮を振り返った。
「だが、お前は違った。見返りも求めず、名も名乗らず、ただ腹を空かせた老いぼれに温かい飯を置いていった。……前世で見栄を張って死んだと言ったな? だからこそ、お前のその無欲な施しには、魂の底からの本物の血が通っていたのだ」
「爺さん……」
「お前が望む『平穏』とやらは、もうこの世界のどこにも転がっていない。怪物の群れの中で羊のふりをして生きることはできんのだ。……ならば、怪物の王になれ」
道明寺は立ち上がり、開いた窓の縁に足をかけた。
「舞台は整えてやったぞ、神崎蓮。明日、東京の帝国ホテルで、御三家と政財界の重鎮が一堂に会する極秘の円卓会議が開かれる。……お前を、この国の真の『影の統治者』として推戴するための戴冠式だ」
「は!? ちょ、待て! なに勝手に話を進めて――!」
「逃げれば殺されるぞ。……堂々と乗り込み、奴ら全員の首に首輪をはめてこい」
老人は不敵な笑みを残し、夜の闇の中へと音もなく溶けるように消え去った。
取り残された六畳一間の安アパート。
蓮は頭を抱え、絶望のあまり畳を激しく叩きつけた。
「平穏に生きるって……目立たずにひっそり暮らすって……俺、言ったよなあぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」
高校生のささやかな願いを完全に置き去りにしたまま、運命の濁流は彼を、日本という国家の最高意思決定機関の頂点へと押し流そうとしていた。




