第二十二章:漆黒の鳳凰と、極上の同調
V12気筒、5リッター。日本の匠の粋を集めた怪物エンジンは、二十年以上の眠りと放置によって、まるで息絶えた巨獣のように冷え切っていた。
蓮は作業灯をボンネットの裏側に吊るし、ツナギの胸元を少し緩めた。
手元には、大滝工場長から譲り受けた年季の入ったバキュームゲージと、四連スロットルシンクロナイザー。今のディーラーの若手メカニックなら、OBD-IIコネクターに最新の診断機を挿して「通信エラー、ASSY交換不可」と吐き出された時点で匙を投げる案件だ。
「左右バンクでスロットルボディが独立……さらに電子制御のスロットルモーターと負圧ラインが複雑に絡み合ってやがるな」
蓮は指先の腹で、硬化したバキュームホースの弾力を確かめていく。
前世でバブル崩壊後の怪しげなヤードに転がっていた高級車を、安物工具と知恵だけで動かした泥臭い経験。そして、道明寺宗雲から叩き込まれた「複雑怪奇に見える組織も、血液(金と情報)の流れを一つずつ解きほぐせば必ず急所が見える」という冷徹な構造分析の思考法。
車と人間、その二つが蓮の頭の中で完璧に同期していた。
(エアサスのベローズが裂けてるのは、予定通り機械式の金属バネに換装。配管のソレノイドバルブを細工して、ECUに『エアサスは正常です』とダミー信号を返すバイパス抵抗を噛ませれば、警告灯のキャンセルもいける)
蓮はリューターを手に取り、クラウン用のブラケットを現物合わせでコンマ数ミリ単位で削り込んでいく。
火花が散り、鋼鉄の焼ける匂いが冬のピットに立ち込める。
深夜二時を回る頃、足回りの組み換えが完了した。落ち込んでいた車高は、新車時と寸分違わぬ優美な水平姿勢を取り戻している。
「よし……次は心臓部だ」
蓮は点火プラグを十二本すべて抜き、燃焼室に特殊な洗浄剤を噴射してカーボンを溶かした。
そして、左右六気筒ずつに自作のゲージを接続。
セルモーターを回す。
キュルルルル……キュルルルル……
最初はぐずつくような重い回転音。蓮は左右のスロットルリンケージの調整スクリューにドライバーを当て、手のひらから伝わるエンジンの脈動と、ゲージの指針の微小な揺れだけに全神経を集中させた。
――ほんのわずか、右バンクが濃い。左の吸入負圧が追いついていない。
ドライバーを四分の一回転、いや、八分の一回転だけ戻す。
カチリ、と何かが噛み合う手応えがあった。
ズオォォォォン……。
突如として、甲高いセル音が消え去り、ピットの空気が一変した。
排気音ではない。まるで水力発電所の巨大なタービンが静かに回り始めたかのような、一切の振動を感じさせない極限のハミング。
アイドリングの回転数は、狂いなく六百回転でピタリと静止していた。インテークマニホールドの上に置いた百円玉が一ミリも倒れずに立ち続ける、完全なるV12の同調。
「……完璧だ」
蓮は額の汗をウエスで拭い、小さく笑った。
前世の自分がどれだけ背伸びしても手に入らなかった「本物の達成感」が、冷え切った真夜中のガレージを満たしていた。
翌朝、午前九時。
雪のちらつく中、白河修一郎と綾乃を乗せたセダンが再びガレージを訪れた。
修一郎は杖をつきながら、ピットの中央に佇むセンチュリーの前に歩み寄った。
くすんでいた漆黒のボディは、蓮の手による徹底的なポリッシュとガラスコーティングで、まるで濡れた漆器のような深遠な艶を取り戻している。何より、地面に這いつくばっていた巨躯が、威風堂々たる気品をもって大地を踏みしめていた。
「総裁、キーです。エンジンに火を入れてみてください」
蓮が手渡した擦り切れた鍵を、修一郎は震える手で受け取った。
運転席に滑り込み、イグニッションを捻る。
――静寂。
セルが一瞬だけ囁いた直後、メーターパネルの針がすっと跳ね上がった。車内には振動はおろか、エンジンが回っていることすら疑うほどの静寂が満ちていた。
修一郎はステアリングに両手を添えたまま、しばらくの間、微動だにしなかった。
その白髪の頭が、小刻みに震え始める。
「……同じだ。三十年前、家内を助手席に乗せて、二人で北海道の岬を走ったあの日と……全く同じ音がする……」
ポロポロと、老総裁の目から大粒の涙が零れ落ち、ダッシュボードを濡らした。
「どこの工場に行っても、『古いから諦めろ』『新しいレクサスを買いなさい』としか言われなかった。私の思い出ごと、ゴミ箱に捨てられたような気がしていたのだ。……だが、君は救ってくれた。私の過去を、家内との時間を……」
修一郎は車から降りると、杖を取り落としそうになりながら、蓮に向かって深く、深く頭を下げた。
「神崎代表……なんとお礼を申し上げればよいか……」
「約束の工賃、三十万だけで結構です。……いい車でしたよ。手入れさえ怠らなければ、あと三十年は走れます」
蓮がぶっきらぼうに伝票を差し出すと、綾乃が息を呑み、感極まった表情で蓮を見つめた。
(既存の権威が『時代遅れ』と切り捨てたものに、命と尊厳を吹き込む……。金のためでも名誉のためでもなく、ただ一人の老人の魂を救うために……)
修一郎は用意していた分厚い束の中から、きっちり三十万円分の紙幣を蓮の手に握らせた。チップとして数千万円を上乗せしようとしていた封筒を、綾乃が背後からそっと手で制していた。この若君に、無粋な資本の垢を押し付けてはならないと知っているからだ。
「神崎代表、本当にありがとうございました。……この恩は、白河家が未来永劫、決して忘れません」
静かに去っていくセンチュリーの美しいテールランプを見送りながら、蓮は手元の三十万円を数え、ホッと息を吐いた。
「よし……これで今月の家賃と、猫たちのプレミアムご飯代、それに旋盤の予備バイトの代金は確保できたな」
その日の夕方。
都心の白河グループ本社最上階で、修一郎は役員会を緊急招集していた。
プロジェクターには、蓮が手作業で組み替えたセンチュリーの足回りと、バイパス配管の超高解像度写真が映し出されていた。
「諸君、刮目して見よ」
修一郎の眼光は、朝の涙を流した老人とは別人の、老獪な覇王のものに戻っていた。
「現代の全自動ラインで製造された機械など足元にも及ばぬ、手技による極限の調和。神崎代表は、この一台を通じて我らに示されたのだ。『切り捨てられた過去の技術と、現行の規格をどう融合させて生き残るか』――我が白河グループの次世代医療機器開発の指針は、全てこの配管の思想の中にある!」
重役たちが一斉にどよめき、必死にメモを取る。
同席していた桐生巌が腕を組み、感嘆の唸り声を上げた。
「さすがは若君……。ただ車を修理したと見せかけ、白河の停滞していた開発部門にブレイクスルーの啓示を与えられるとはな」
西園寺司も眼鏡を光らせ、薄く笑う。
「ふっ……次は我が西園寺の番だな。若君のガレージ周辺の土地、農業法人を隠れ蓑にして買い占めを進めている。あのお方の視界に、無粋な高層ビルやパチンコ屋が建つことなど、断じて許さん」
誰も蓮の半径五メートルには足を踏み入れない。
だが、青年の手から放たれた小さな「誠実さ」は、大物たちの狂気じみた崇拝のフィルターを通し、再び日本の産業界を根底から揺るがす巨大なうねりへと化していた。
その頃、当の神崎蓮は――。
「トラ、クロ、ほら、今夜は奮発してササミのボイルだぞー」
ツナギを脱ぎ捨て、安物のフライパンで肉を茹でながら、足元に群がる二匹の猫に満面の笑みを向けていた。
世界を裏から操る黒幕の日常は、今夜もどこまでも穏やかで、そして致命的なまでにすれ違い続けていた。




