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第二十一章:看板の文字と、最初の依頼人

年が明け、寒風吹きすさぶ二月。

畑に囲まれた郊外の居抜き工場には、朝からグラインダーの火花と甲高い金属音が響き渡っていた。

蓮は防塵マスクと保護メガネを装着し、入り口の鉄骨に掲げる小さな看板を自ら削り出していた。

業者に頼めば数万円かかる看板代を浮かすため、敷地の隅に転がっていた分厚い鉄板を再利用した手作り品だ。表面のサビをワイヤーブラシで落とし、溶接機で文字の輪郭を盛り上げ、つや消しの黒と銀の塗料で渋く仕上げていく。

前世では、派手なLEDや見栄えだけの英語ロゴで着飾ることばかり考えていた。

だが、今の蓮が求めたのは、質実剛健で偽りのない名前だった。

『神崎自動車技術工房(Kanzaki Garage)』

無骨で、飾り気のないフォント。

だが、一枚の鉄板に魂を込めて焼き付けたその看板には、確かな職人の誇りが宿っていた。

「……よし、上出来だな」

蓮は脚立に登り、工場の正面に看板をしっかりとボルトで固定した。

見下ろせば、綺麗に掃き清められたピットには、前オーナーが「置き去りにした」はずの極上リフトが鎮座し、壁のフックには大滝工場長から退職祝いとして譲り受けた年季の入った工具類が整然と並んでいる。

二階の小さな事務所スペースには、アパートから連れてきたトラとクロが、日当たりのいい窓辺で仲良く丸まって毛づくろいをしていた。

「ニャー」

「……ミャウ」

「お前たちも気に入ったか? 今日からここが俺たちの城だぞ」

蓮が笑いながら猫たちの喉元を撫でていると、敷地の砂利を踏みしめる重々しいタイヤの音が外から聞こえてきた。

(……客か? でも、まだオープン告知のチラシも配ってないのに)

不審に思いながら一階へ下りていくと、シャッターの前に停まっていたのは、見覚えのある一台の黒塗りの国産高級セダンだった。

後部座席のドアが静かに開き、降りてきたのは――仕立ての良い着物の上に羽織を引っかけた、白髪の老紳士。

白河財閥総裁、白河修一郎その人だった。

傍らには、控えめながらも凛としたスーツ姿の孫娘・白河綾乃が付き従っている。

蓮の心臓が一瞬で跳ね上がった。

(げっ……白河のじいさん!? なんでここがもうバレてんだよ!)

心の中で冷や汗を滝のように流しながらも、蓮はスッと表情を消し、ツナギのポケットに手を突っ込んだ。

ここで動揺を見せれば、また余計な忖度と過剰接待が加速するだけだ。「怪物の王」としての冷徹な仮面を、滑らかに顔に貼り付ける。

「……何の用だ。俺は言ったはずだぞ、『日常の半径五メートルに踏み込むな』と」

蓮の冷たい声が、冬のガレージに低く響く。

白河修一郎は、車椅子から自らの足でゆっくりと立ち上がり、杖をつきながら蓮の三歩手前で深々と頭を下げた。日本の医療と製薬の頂点に君臨する怪物が、二十歳の青年の前で直立の最敬礼を捧げている。

「ご無礼をお許しください、若君。……本日は財閥の首領としてではなく、一人の車を愛する老人として、この『神崎自動車技術工房』の最初の客として参内いたしました」

「客……?」

蓮が怪訝そうに眉をひそめると、綾乃が静かに歩み寄り、工場の奥を指し示した。

セダンの後方に、もう一台、大型の積載車がゆっくりと敷地内へ入ってきたのだ。

荷台に載せられていたのは、四半世紀前の名車――トヨタ・センチュリー。

だが、その車体は長年ガレージで眠っていたのか、塗装はくすみ、エアサスペンションが完全に抜けて車高が地面スレスレまで落ち込んでいた。

「この車は、私が白河の総裁に就任した際、亡き妻と共に全国を回った思い出の車でございます」

修一郎は愛おしそうにその旧車を見つめ、静かに語り始めた。

「正規ディーラーに持ち込んでも、部品供給が終了した電子制御エアサスとV12エンジンの特殊配管は修理不能と断られ、廃車を勧められました。……ですが、若君の手技ならば、この車に再び魂を吹き込んでいただけるのではないかと。どうか、私の我儘をお聞き届けいただけないでしょうか」

頭を下げ続ける老総裁。

その眼差しには、権力者の傲慢さは一片もなく、ただ大切な記憶を諦めきれない一人の男の切実な願いが宿っていた。

蓮は腕を組み、積載車のリフトが下りる音を聞きながら、センチュリーの佇まいを観察した。

(V12気筒の国産フラッグシップ……。電子制御エアサスが死んでるのか。確かに、今のディーラーじゃアッセンブリー交換しかできないから、製廃部品が出たら門前払いだな)

だが、前世で悪徳ブローカーの下で「動かない高級車をどうにかして動かす」ための泥臭い裏技を死ぬほど叩き込まれた蓮にとっては、むしろ腕が鳴る領域だった。

「……エアサスを純正新品に戻すのは不可能だ。部品がない」

蓮の言葉に、修一郎の肩がわずかに沈む。しかし、蓮は間髪を入れずに続けた。

「だが、油圧配管をバイパス加工して、同年代のクラウン用の金属コイルスプリングとビルシュタインのショックを流用すれば、乗り心地を損なわずに確実に復活させられる。V12の同調狂いも、バキュームゲージを使って手作業でスロットルを合わせれば吹け上がるはずだ」

修一郎の目が、驚きで見開かれた。

「ほ、本当ですか……!?」

「工賃と部品代で、きっちり三十万いただく。……それでいいなら、車をピットに入れろ」

蓮がぶっきらぼうに告げると、修一郎は感極まったように震える手で蓮の手を握ろうとし――ハッと我に返って「半径五メートル」の結界を侵さぬよう一歩引き、深く頭を下げた。

「ありがとうございます……! よろしくお願い申し上げます、神崎代表……!」

綾乃もまた、蓮の横顔を見つめ、陶酔を帯びた瞳で胸元に手を当てた。

(既存のパーツに頼らず、異なる規格を現場の知恵で調和させる……。やはりこのお方は、あらゆるシステムの歪みを正す『神の手』をお持ちなのだわ……)

夕暮れ時。

白河たちが去ったガレージで、蓮は早くもツナギの袖をまくり、センチュリーのボンネットを開けていた。

複雑怪奇に入り組んだV12エンジンの配管を前に、蓮の瞳には整備士としての純粋な闘志が宿っていた。

「よーし、腕の見せ所だな」

二階の窓辺では、トラとクロが蓮の作業を見守るように喉を鳴らしている。

巨大な権力者たちが勝手に畏怖し、勝手に崇め立てる中で、青年は今日もただ、一台の車と真摯に向き合うためにラチェットを握り直すのだった。

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