第二十章:名もなき英雄の看板と、動き出す独立計画
事故現場の煙が完全に消え去り、野次馬や警察車両が引き揚げたあとも、大滝モータースの事務所には異様な熱気が残っていた。
「おい神崎、お前マジでテレビの取材受けなくてよかったのかよ? 『炎の事故現場から母子を救い出した謎の整備士!』って、夕方のニュースのトップ扱いだったぞ!」
大滝工場長が、熱いほうじ茶の湯気をあおぎながら興奮冷めやらぬ様子で話しかけてくる。
「勘弁してくださいよ工場長。あんなの、たまたま道具が手元にあって、力任せにドアをこじ開けただけなんですから。顔なんか出したら、街をまともに歩けなくなります」
蓮は泥と油で汚れた長靴を脱ぎながら、苦笑いで手を振った。
取材に殺到しかけた地元テレビ局や新聞社の車を、現場の裏手で桐生と西園寺の息がかかった広報部隊が「プライバシー保護および現場検証の妨害防止」という名目で片っ端からブロックしていたことなど、大滝が知るはずもない。
救出された母子には、西園寺グループの医療法人が最高ランクのケアを提供し、桐生巌が匿名で基金を立ち上げて生活を生涯バックアップすることになったという連絡が、先ほど暗号メッセージで届いていた。
(……まあ、あの親子が無事なら、結果オーライか)
蓮はロッカーから自分のボロいリュックを取り出し、肩に担いだ。
「工場長、俺、少し考えてたことがあるんです」
「ん? なんだ?」
「……俺、来年の春をめどに、自分の店を持ちたいと思ってます。この街の片隅で、小さなガレージを」
大滝は目を丸くし、それからカッカと豪快に笑った。
「なんだ、もう巣立ちの相談か! 寂しくなるが……いい度胸だ。お前の腕と、さっき見せたあの肚の据わり方なら、どこへ行ってもやっていける。場所探しから資金繰りまで、俺の知ってる限りのことは何でも相談に乗るぞ!」
「ありがとうございます、工場長」
蓮は深く頭を下げた。
大滝の温かさが胸に染みた。前世の蓮なら、独立といえば「派手なショールームを構え、外車を並べて融資を限界まで引っ張る」という破滅への一本道を突き進んでいただろう。
だが今の蓮が望むのは違う。市街地から少し離れた街道沿い、リフトが一基と小さな工具棚があればいい。愛車を長く大切に乗り続けたい客のために、自分の手で真心を込めてオイルを注ぎ、ボルトを締める。それだけの、慎ましい城だ。
だが、その「慎ましい独立計画」の報せは、蓮がアパートに帰り着くよりも早く、日本の影の頂点たちへと駆け巡っていた。
夜十時。東京・赤坂の会員制料亭。
桐生巌、西園寺司、そして白河綾乃が、三者緊急会談を開いていた。
「……聞いたか、お二人とも」
桐生巌が、感極まった面持ちで日本酒の盃を置いた。
「若君が……ついに自らの『拠点』を構えられるご決断を下された。身分を隠した市井の潜伏を終え、いよいよこの国の草の根に真の覇業の根を張るおつもりなのだ……!」
西園寺司が眼鏡のブリッジを押し上げ、深く頷いた。
「ええ。昼間の事故現場でのあの神業……一人の民間人として炎に飛び込み、無償で民を救うその高潔な姿勢を目の当たりにしたばかりです。あのようなお方が独立されるというのに、我らが指をくわえて見ているわけにはいきません」
白河綾乃が、扇子を口元に当てて妖艶に微笑む。
「ふふ、ええ。ですが皆様、若君の『半径五メートルに踏み込むな』という至上命令をお忘れではありませんこと? 派手なビルや資金を押し付ければ、あのお方は眉をひそめ、二度と我らに目を向けてくださらなくなりますわ」
「うむ……」巌が唸る。
「では、どうするのだ?」
綾乃は瞳に怪しい光を灯し、卓の上に広げられた周辺地域の航空写真を指先でなぞった。
「若君が『自力で安く見つけた』と信じ込めるよう、街外れの廃業寸前のボロ工場を、西園寺様のダミー会社経由で競売にかけさせます。土地代は相場の十分の一、破格の賃料で不動産屋の片隅に書類を紛れ込ませておくのです」
「なるほど!」西園寺が膝を打つ。
「そして地盤改良と耐震補強は、我が西園寺のインフラ部隊が深夜のうちに極秘裏に完了させておく。表向きはただのボロ工場だが、地下には核シェルター規格の基礎と最新鋭の三相二百ボルト電源が埋め込まれている……という寸法だな」
桐生巌も獰猛な笑みを浮かべた。
「ならば我が桐生は、全国の解体屋に手を回そう。若君が『廃品回収で偶然掘り出した』と思えるよう、新品同様の最高級リフトやタイヤチェンジャーを、絶妙に薄汚れさせた状態でその工場の敷地に放置しておく!」
「決まりですわね」
綾乃が冷ややかに、しかし狂信的な熱を込めて締めくくった。
「名もなき王の、名もなきガレージ。……世界で最も危険で、世界で最も頑牢な砦を、若君の知らぬ間にプレゼントして差し上げましょう」
翌週の休日。
蓮は自転車を漕ぎ、不動産屋でたまたま見つけた「格安の居抜き物件」を見に来ていた。
郊外の畑に囲まれた、トタン葺きの小さな工場跡。
看板は色褪せ、壁にはツタが絡まっている。
「……うん、いいな。ボロいけど、広さは一人でやるには丁度いい」
蓮は敷地に入り、工場の柱をポンと叩いた。
なぜか柱を叩いた時の音が「ゴォン」と異様なほど重厚で、まるで戦車の装甲板を叩いたような感触がしたが、蓮は「昔の鉄骨は頑丈に作ってあるんだな」と呑気に納得した。
工場の隅には、前の持ち主が置き去りにしたらしい、少し埃を被った油圧リフトが残されていた。
スイッチを入れると、驚くほど静かに、ミリ単位のブレもなくスムーズにアームが上昇する。
「お、ラッキー! これ、まだ全然使えるじゃん。前のオーナー、手入れが良かったんだな」
さらに配電盤を開けると、なぜか地方の町工場には過剰すぎるほどの極太高圧ケーブルが引き込まれており、家庭用コンセントからは信じられないほど安定した電圧が流れていた。
「……まあ、電気代の基本料金さえ安けりゃ問題ないか」
蓮は満足そうに腕を組み、工場のシャッターを見上げた。
まだ看板も何もない、ただの四角い箱。
だがここが、これからの蓮の居場所になる。
ポケットの中でスマホが一度だけ震えた。
道明寺宗雲からの、半年ぶりのメッセージだった。
『いい城を見つけたようだな。
足元を固めろ。……春になったら、美味い酒でも持って冷やかしに行ってやる』
蓮は空を見上げ、ふっと笑みをこぼした。
「ああ、待ってるよ、爺さん」
冬の乾いた風が吹き抜ける中、蓮は作業着のポケットからメジャーを取り出し、ガレージの寸法を測り始めた。
世界を裏から牛耳る怪物たちが命がけで偽装した「世界最強のハリボテ」の上で、青年は二度目の人生の、本当の第一歩を踏み出そうとしていた。




