第十九章:冬枯れの夜明けと、運命の交差点
二匹の子猫――茶トラの「トラ」と黒猫の「クロ」が蓮の部屋に転がり込んできてから、早くも一年が過ぎようとしていた。
ボロアパートの六畳一間は、すっかり猫たちの城と化していた。
押し入れの段ボールは即席のキャットタワーになり、畳の端は爪研ぎで少し毛羽立っている。だが、近所のディスカウントスーパーでなぜか常に定価の半額以下で投げ売りされている「最高級オーガニックキャットフード」のおかげで、二匹の毛並みはそこらの品評会に出せるほど艶やかで、病気一つしたことがない。
「おいおい、人の腹の上を二重橋にするな」
日曜日の朝、蓮は仰向けになったまま苦笑した。
胸の上にクロが香箱座りを決め、足元ではトラが蓮の毛布をふみふみと前足でリズミカルに揉んでいる。カーテンの隙間から差し込む冬の淡い朝日。前世の蓮なら、「日曜の朝は高級ホテルのラウンジでブランチ」などとSNSに投稿するために必死で見栄を張っていただろう。
だが、この温かい重みと規則正しい寝息以上に、心を芯から満たしてくれるものなどこの世に存在しないことを、今の蓮はよく知っていた。
「よし、どいたどいた。今日は大滝モータースの年末大掃除なんだからな」
猫たちを優しく脇へ退かし、蓮は手早く着替えた。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。少し伸びた前髪と、すっかり整備士らしく引き締まった目元。どこからどう見ても、ただの二十歳の青年だった。
胸の内ポケットに触れる。
あの桐生のブラックカードも、道明寺のUSBも、肌身離さず持ち歩いてはいるが、一度も使う機会は訪れていなかった。
世界は相変わらず蓮の半径五メートルに絶対の不可侵を敷き、蓮もまた、その静寂の結界の中で慎ましく息を潜めていた。
大滝モータースのガレージでは、朝から高圧洗浄機のけたたましい水音が響いていた。
「おーい、神崎! 裏の廃タイヤの山、分別して積み直してくれ!」
「了解です、工場長!」
蓮は長靴に履き替え、泥と埃にまみれながらタイヤをリズミカルに転がしていく。
前世で背伸びばかりしていた頃のひ弱な肉体はすっかり消え去り、今では大型トラックの重いスチールホイールですら軽々と抱え上げられるほど逞しい筋肉がついていた。
「へへっ、いい腰の入れ方だな。お前が来てから、うちの工場は本当に回り始めたよ」
大滝が温かい緑茶の缶を放り投げてよこした。蓮は空中で見事にキャッチし、白い息を吐きながら一気に喉へ流し込む。
「大滝さんが基礎から叩き込んでくれたおかげですよ。俺、本当にここで働けてよかったです」
「バカ言え、照れるじゃねえか。……まあ、お前がいつか自分の店を持ちたいって言うなら、俺は全力で応援するけどな」
「自分の店……」
蓮は缶を見つめ、小さく呟いた。
誰かの下で働くのも悪くないが、いつか自分の小さなガレージを持ち、本当に信頼できる仲間と、愛着のある車だけをじっくり直して生きていく。それは、蓮が二度目の人生で密かに抱き始めた、初めての「真っ当な夢」だった。
その時だった。
国道沿いの静かな空気を切り裂くように、けたたましいサイレンの音が遠くから響いてきた。
一台や二台ではない。救急車、パトカー、そして消防車のサイレンが幾重にも重なり合い、地響きのような緊迫感となって近づいてくる。
「なんだ……? 事故か?」
大滝が通りの方へと首を伸ばした。
工場の前の交差点。
その先にある黒川にかかる大橋の上で、激しいスキール音と衝突音が鳴り響いたのは、まさにその数秒後だった。
ドオォォォンッ!!
金属同士が激突し、ガラスが破裂する凄まじい衝撃音が冬の青空を揺るがす。
「おい、神崎! 見に行くぞ!」
大滝が駆け出し、蓮も反射的に長靴のまま交差点へと走った。
橋の上に広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。
大型タンクローリーがスリップして横転し、後続の路線バスと乗用車数台を巻き込んだ多重追突事故。
タンクローリーの腹からは引火性の高い燃料がドクドクと路面に溢れ出し、煙が濛々と立ち上っている。そして最も悲惨なことに、押し潰された乗用車の後部座席には、幼い子供を抱えた母親が閉じ込められていた。
「助けて……! ドアが開かないの!!」
母親の悲痛な叫び。
だが、燃料の気化ガスが充満し、いつ爆発してもおかしくない状況に、集まった野次馬や通りすがりのドライバーたちは青ざめて後ずさるしかなかった。
「まずいぞ……! 引火したら橋ごと吹き飛ぶ!」
大滝が叫ぶ。
救急隊が到着するまで、あと数分。だが、その数分を待っていれば、あの車内の親子は確実に炎に呑まれる。
蓮の足が、無意識に一歩前へと踏み出していた。
(関わるな。お前はただの整備士だ。目立たないって決めたろ……!)
脳内で理性が叫ぶ。
ここで前に出れば、またあの怪物たちに嗅ぎつけられる。平穏な日常が脅かされる。
だが、前世の惨めな死と、あのガード下で凍えそうになっていた老人の姿、そして今朝まで蓮の腹の上で幸せそうに眠っていた子猫たちの命が、蓮の背中を激しく突き飛ばした。
――『目の前で消えそうな命を、自分の都合で見殺しにするくらいなら、見栄を張って死んだ方がまだマシだ!』
「大滝さん! 工場から大型油圧ジャッキとバール、あと消火器を全部持ってきてください!!」
蓮は怒鳴るように指示を飛ばすと、立ち込める白煙の中へと猛然と飛び込んでいた。
「神崎!? おい、危ねえぞ!!」
大滝の制止を振り切り、蓮はガソリンの匂いが充満する潰れた乗用車の元へ滑り込んだ。
車体のフレームがひしゃげ、リアドアがピラーに完全に食い込んでいる。常人の腕力ではビクともしない。
蓮は瞬時に車の構造を頭の中で立体的にスキャンした。
どこにテコの原理を働かせれば、最小の力で歪んだフレームを外側へ弾き飛ばせるか。前世で数え切れないほどの事故車を解体し、鉄の弱点を知り尽くした蓮の指先が、的確にドアヒンジの隙間へと滑り込む。
「今助けます! 頭を低くして目を閉じてて!」
蓮は駆け寄ってきた大滝からバールを奪い取るように受け取ると、フレームの急所へ深々と突き刺した。
全身の筋肉を極限まで軋ませ、足を踏ん張る。
「うおおおおおおおおッッ!!」
バキィィィィンッ!!
鋭い破砕音とともに、歪んでいた鋼鉄のドアが蝶番ごと吹き飛んだ。
蓮はすぐさま車内へ手を伸ばし、パニックで震える子供と母親を抱き寄せ、力技で外の安全地帯へと引きずり出した。
「走れ! 橋のたもとへ!!」
親子を逃がした、そのわずか十秒後。
ボオォォォッ!!
タンクローリーから漏れた燃料に引火し、紅蓮の炎が天を突いた。熱波が蓮の頬を焼き、爆風が長靴の底を揺らす。
間一髪だった。
煙に咽びながらアスファルトにへたり込む蓮の元へ、警察と消防、そして救急車が雪崩を打って到着した。
「神崎……お前……なんて無茶をしやがる……!」
大滝が腰を抜かしながら、震える手で蓮の肩を掴んだ。
助け出された母親が、子供を抱きしめながら蓮の足元へ泣き崩れる。
「ありがとうございました……! ありがとうございました……!!」
周囲から湧き起こる歓声と拍手。
だが、煤まみれの顔を上げた蓮は、野次馬の輪の遥か後方――高台の陸橋の上に停車している、見覚えのある一台の黒塗りのサルーンに気づいてしまった。
窓ガラスの奥から、双眼鏡を下ろした白河綾乃が、信じられないほど神聖なものを見るような瞳で蓮を見つめていた。
蓮のポケットのスマホが、激しく振動を始めた。
『若君……! 爆破炎上の危機を顧みず、自らの肉体を極限まで酷使して民を救われるとは……! やはりあなた様こそが、この国の真の光……ッ!!』(桐生巌)
『直ちに救出された親子の生活基盤を一生涯保証いたします。若君の慈悲に泥を塗るようなことは決してさせません』(西園寺司)
蓮は煤けた手で顔を覆い、天を仰いだ。
「……終わった。またやってしまった……」
どれだけ目立たぬよう日陰を選んで歩いても、その魂に宿った「捨てきれないお人好しの本質」が、彼を再び世界の中心へと引き戻してしまう。
冬の青空の下、少年の長くて騒がしい「平穏への戦い」は、まだまだ終わる気配を見せていなかった。




