第十八章:ガレージの夕暮れと、二匹の招き猫
秋も深まり、工場の裏手にある銀杏の木が鮮やかな黄色に染まる頃。大滝モータースの営業終了を告げるサイレンが、夕暮れの街に鳴り響いた。
「よし神崎、今日の作業はここまでだ! あとは適当に片付けて上がってくれ」
「お疲れ様でした、工場長。工具のグリスアップだけ終わらせてから帰ります」
大滝が軽トラで先に帰路についた後、蓮は一人、静まり返ったピットで真鍮ブラシを手に取った。
使い終わったスパナやラチェットの汚れをウエスで丹念に拭き取り、所定のキャビネットへと戻していく。カチャリ、と金属が噛み合う澄んだ音だけが、薄暗くなった工場内に響いていた。
「……ふう。今日も無事に生き延びたな」
蓮は腰を伸ばし、深く息を吐き出した。
レオンが「見えざる盾」として海外の脅威を勝手に防圧し始めて以来、蓮の周辺は以前にも増して不気味なほどの静寂が保たれていた。
桐生グループは街のインフラを整備し、西園寺グループは工場の仕入れルートを盤石にし、白河グループは医療と環境を整え、ハウンド・セキュリティは外敵を海の向こうで噛み殺す。
世界最強の包囲網に守られながら、当の本人は日給数千円の町工場で見習い整備士として油にまみれているのだから、世の中は本当に分からない。
(前世の俺が見たら、発狂して『今すぐその権力を振り回せ!』って怒鳴り散らすだろうな……)
蓮は苦笑した。
見栄を張り、身の丈に合わない金とプライドを追い求めた前世。あの頃の自分は、常に誰かと自分を比べ、常に何かに追われ、心休まる瞬間など一秒たりともなかった。
だが今は、自分で直した車が元気に走っていく背中を見送り、夕方に飲む百三十円の缶コーヒーを「美味い」と感じられる。
どちらが本当に豊かな人生かなど、比べるまでもなかった。
工場のシャッターをガラガラと下ろし、南京錠をかけたその時だった。
足元で、か細い声が二重に重なって響いた。
「ニャー」
「……ミャウ」
「ん?」
蓮が見下ろすと、工場の壁際、部品の空き箱の影から、二匹の小さな子猫がちょこんと顔を覗かせていた。
一匹は白と茶色のぶち模様、もう一匹は艶やかな黒猫。どちらも生後数ヶ月といったところで、冷え込んできた夜風に小刻みに震えながら、空腹そうに蓮の足元を見上げている。
「おいおい……親猫はどうしたんだよ」
蓮がしゃがみ込むと、二匹は警戒するどころか、蓮の作業靴にすり寄って喉をゴロゴロと鳴らし始めた。靴についたオイルの匂いなど気にも留めず、温もりを求めるように蓮の指先に小さな鼻先を押し付けてくる。
冷たいコンクリートの上で、飢えと寒さに震えていたかつての自分――そして、あのガード下で出会った道明寺の姿が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
「……たく。見栄っ張りの次は、お人好しかよ」
蓮は小さくため息をつきながらも、顔を綻ばせた。
ツナギの大きな胸ポケットに片手ずつ子猫を滑り込ませると、二匹は温かさに安堵したのか、すぐに丸まって目を細めた。
「よし、今日からお前らは俺の同居人だ。名前は……そうだな。追々考えるか」
胸元に確かな二つの温もりを抱き、蓮は自転車に跨った。
その頃、工場の向かいのビル屋上。
冷たい夜風の中、高性能の暗視双眼鏡を下ろした桐生グループの特務員が、震える手で衛星通信端末を起動していた。
『――緊急報告。若君が……若君が今、神聖なる二つの生命をその御手にお抱きになられました』
受話器の向こうから、桐生巌の張り詰めた声が返ってくる。
『何だと!? 生命……!?』
『はい。捨て置かれた二匹の幼き猫を、自らの作業着の懐に優しく包み込み、引き取られました……! 巨大な富も権力も求めぬ若君が、今度は言葉を持たぬ小さき命に無償の愛を注がれようとしております……! これぞ真の王の器、万物を包摂する慈愛の心……ッ!!』
『おお……おおおっ……!!』
桐生巌の感涙の嗚咽がスピーカーから漏れる。
『直ちに白河グループのバイオ医療部門へ連絡しろ! 世界最高峰のペット用医療体制を極秘裏に構築するのだ! それから西園寺の物流網を通じ、無添加・最高級のキャットフードと衛生用品を、近所のスーパーの特売品棚へ紛れ込ませろ! 決して若君の半径五メートルに不信感を抱かせるなよ!!』
『ハッ! ただちに!!』
そんな世界規模の過剰接待が水面下で動いているとは露知らず、蓮は近所のスーパーで安売りされていた猫缶を二つ買い、安アパートの階段を軽快な足取りで駆け上がっていた。
部屋に入り、小さな皿に猫缶を分けてやると、二匹は夢中で顔を突っ込んで食べ始めた。
「ハハ、がっつくなよ。逃げやしないから」
蓮は畳の上に大の字に寝転がり、天井を見上げた。
六畳一間のボロアパート。
ポケットには日本を動かすブラックカードと、世界を震撼させる機密データ。
そして足元には、腹を満たして幸せそうに喉を鳴らす二匹の猫。
「……前世の俺、見てるか?」
蓮は目を閉じ、満足そうに微笑んだ。
「見栄なんて張らなくたってさ……人生、案外最高にやれるもんだぞ」
誰にも知られず、誰の目にも留まらず。
世界で最も恐ろしい怪物を従えた少年は、世界で最も平凡で温かい夜の中へと、静かにまどろんでいった。




