第十七章:秋風のガレージと、海の向こうからの客札
サーキットでの前代未聞の「接待レース」から二ヶ月。猛暑が去り、工場を吹き抜ける風にはどこか秋の冷たさが混じり始めていた。
大滝モータースの看板の隅には、あの時獲得した安物の優勝トロフィーが誇らしげに飾られ、近所の常連客たちの格好の酒の肴になっていた。
「おい神崎、今日も一台頼むぞ! 評判を聞きつけてな、隣町の運送屋から重機の足回りのオーバーホールが入ったんだ」
大滝工場長が上機嫌で伝票を机に置く。
レースでの奇跡的な勝利以降、大滝モータースには「旧車や特殊車両のレストアならあそこに行け」という噂が口コミで広がり、仕事が途切れることがなくなっていた。もちろん、その「口コミ」を県内全域の物流・建設業者へ極秘裏にばら撒いたのが桐生グループの情報工作班であることは、大滝の知る由もない。
蓮は油で汚れた軍手をはめ直し、工場の裏手にある作業スペースへ向かった。
(まあ、仕事が忙しいのはいいことだ。変な暗殺者や怪しい投資ファンドが押し寄せてくるより、よっぽど人間らしい生活だからな)
前世の虚栄心でボロボロになった心は、ボルトを締め、金属のバリを削る地道な手作業の積み重ねによって、少しずつ完全に癒やされつつあった。
だが、そんな平穏な午後の空気を切り裂くように、工場の前で一台の車が静かに停車した。
「ピンポーン」と間の抜けたチャイム。
リフトの下から顔を出した大滝が、目を丸くして固まった。
「お、おい神崎……なんだありゃ……!?」
敷地内に入ってきたのは、日本国内では滅多にお目にかかれない、艶消しグレーの無骨な装甲SUV――アメリカ製の防弾仕様レクサスLXだった。
ボディには無駄な装飾が一切なく、まるで要人警護のために特別に仕立てられた軍用車両のような凄みを放っている。
後部座席のドアが開き、降りてきた人物の姿を見た瞬間、蓮の背筋に冷たいものが走った。
仕立ての良いネイビースーツを着こなし、短く刈り込んだプラチナブロンドの髪を撫で付けた男。
かつて夕暮れの路地裏で蓮の前に立ちはだかり、口先一つのブラフで追い払ったあの男――欧州民間軍事会社ハウンド・セキュリティのトップ、レオン・ヴァレンタインだった。
(レオン……!? なんであいつがここに……!?)
前世仕込みのポーカーフェイスを張り付けながらも、蓮の心臓は激しく早鐘を打った。
道明寺の爺さんが本物の裏金ログを炸裂させたことで、レオンの雇い主であるアトラス・キャピタルは壊滅したはずだ。恨みを買って、復讐のために単身で乗り込んできたのか?
大滝が警戒してレンチを握りしめ、前に出ようとしたが、蓮はそれを手で制した。
「工場長、大丈夫です。……知り合いですから」
蓮は軍手を外し、ツナギのポケットに両手を突っ込んだまま、レオンの前へと歩み出た。
距離、二メートル。秋の乾いた風が二人の間を吹き抜ける。
「……ハウンドの頭が、こんな寂れた町工場に何の用だ? 前回の忠告を忘れたわけじゃないだろうな」
蓮の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
心の中では「頼むから銃とか抜かないでくれよ」と泣き叫んでいたが、一度でも弱みを見せれば食い殺される相手だ。前世の修羅場と、道明寺から叩き込まれた「怪物の王」としての仮面を完璧に被り直す。
レオンは無言のまま、蓮の顔をじっと見据えていた。
その研ぎ澄まされた狼のような双眸には、前回のような嘲笑や侮蔑の色は微塵もなかった。あるのは、底知れぬ怪物に対峙する者だけが抱く、張り詰めた緊張感と敬意。
やがて、レオンはふっと息を吐き、ジャケットの内ポケットに手を伸ばした。
工場の屋根の陰から、桐生や西園寺の潜伏スナイパーたちが一斉に照準を合わせる微かな殺気が走る。しかし、レオンが取り出したのは拳銃ではなく、分厚い黒革のファイルだった。
レオンはそれを両手で差し出し、蓮の目の前でわずかに腰を折った。
「……神崎蓮。いや、若君とお呼びすべきか」
その声には、敗北を認めた戦士特有の潔さが滲んでいた。
「アトラス・キャピタルは完全に解体された。あの日、お前が言った通りにな。俺たちハウンド・セキュリティは、雇い主を失ったただの野良犬だ。……普通なら、元凶であるお前を道連れに爆死するところだがな」
レオンは苦笑し、頭を振った。
「だが、あの情報戦の鮮やかさと、俺の喉元にナイフを突きつけてみせたお前の胆力……軍の司令官クラスでもお目にかかれない本物の『頭脳』だ。俺たち傭兵は、無能な金持ちには従わないが、真の強者には命を預ける主義でね」
「……何が言いたい?」
蓮が眉をひそめると、レオンは黒革のファイルをパチンと開いた。
そこには、世界各国の拠点のリストと、数千人に及ぶ特殊工作員、元特殊部隊員たちのコードネームが整然と並んでいた。
「我がハウンド・セキュリティの全資産、ならびに実動部隊の指揮権だ。お前に差し出す」
「……は?」
蓮の口から、素っ頓狂な声が漏れかけた。
「桐生や西園寺のようなナヨナヨした資本家どもじゃ、海外からの有象無象の攻撃は防ぎきれん。お前がこの国の片田舎で『平穏』を謳歌したいというなら……その静寂を乱そうとする海外のハイエナどもは、俺たちが海の向こうで全て片っ端から噛み殺してやる。外堀の番犬として、俺たちを使え」
レオンは瞳に本物の忠誠の炎を宿し、蓮を真っ直ぐに見つめていた。
蓮の頭の中で、必死に保っていた理性の回路がブチブチと焼き切れる音がした。
(待て待て待て待て!! なんで海外の超巨大PMCが丸ごと俺の私兵になろうとしてんだよ!? 番犬ってなんだよ! 俺はただの町の自動車整備士だぞ!!)
断りたい。今すぐ「いりません、帰ってください」と突き返したい。
しかし、ここで断れば「自分たちを見捨てた」と判断され、どんな暴走を引き起こすか分からない狂犬たちだ。
蓮は深く、長いため息を吐き出した。
そして、冷徹な視線を崩さないまま、ファイルを指先でトンと押し返した。
「……指揮権などいらん。俺が軍隊を持ってどうする」
レオンの顔にわずかな動揺が走る。だが、蓮は間髪入れずに言葉を続けた。
「お前たちの仕事は、誰かを殺すことじゃないはずだ。……その力があるなら、海の向こうからこの街へ流れてくる違法な粗悪部品や、日本の技術を盗もうとする産業スパイの動向だけを監視しろ。俺の視界に入らない場所でな」
「……!」
レオンの目が大きく見開かれた。
暴力による制圧ではなく、サプライチェーンと技術防衛のインテリジェンスとして組織を再定義する――レオンの脳内では、蓮のその場しのぎの適当な返答が、恐ろしいほどの深慮遠謀として解釈されていた。
「……なるほど。表の経済を桐生と西園寺に守らせ、裏のサプライチェーンの防壁を我らに担わせるか。どこまで先を見据えているんだ、お前は……」
レオンは胸元に拳を当て、深く頭を下げた。
「了解した、ボス。ハウンド・セキュリティは本日より、お前の『見えざる盾』として海の向こうに潜伏する。……用があればいつでも呼んでくれ」
レオンは身を翻し、装甲レクサスへと乗り込んだ。
重厚な排気音を残し、黒い車両が秋の街道を走り去っていく。
工場の敷地に、再び静寂が戻った。
「おい神崎……今の人、誰だったんだ? なんかめちゃくちゃ怖そうな外人だったが……」
恐る恐る近づいてきた大滝に、蓮は力なく微笑んだ。
「……昔、ちょっと海外の部品輸入でトラブルになりかけた時の、クレーム対応の担当者ですよ。もう解決しましたから」
「そうか! よかったな! さあ、作業の続きだ!」
大滝が作業場へと戻っていくのを見送り、蓮はその場にへたり込んだ。
膝がガクガクと震え、背中のツナギは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「……死ぬ。心臓が何個あっても足りない……」
国内の三大財閥を従え、政財界のフィクサーを家庭教師にし、今度は世界最強の民間軍事会社まで「番犬」にしてしまった。
ただ目立たず慎ましく生きたいだけの転生少年を取り巻く城壁は、もはや核シェルターをも凌ぐレベルで強固に、そして狂気じみたスケールへと完成しつつあった。
夕暮れの空を見上げながら、蓮は手にした真鍮のスパナを強く握りしめた。
どれほど世界が自分を祭り上げようとも、明日も自分はオイルの匂いを嗅ぎながら、目の前のボルトを締めるだけだ――そう、心の中で固く誓いながら。




