第十六章:真夏のサーキットと、黒塗りのピットクルー
セミの鳴き声が容赦なく降り注ぐ七月。アスファルトが陽炎で揺れる中、大滝モータースのピットには不穏なほどの緊迫感が立ち込めていた。
「おい神崎……これ、どう見ても『ただの草レース』の面子じゃねえぞ……!」
工場長の大滝が、汗だくのタオルを首に巻いたまま、ピットロードの向こうを指差してガタガタと震えていた。
今日は近郊のサーキット場で開催される、地元の車好きが集まるはずのアマチュア軽自動車耐久レースだった。
大滝モータースからは、蓮が夜な夜な廃車置き場の部品を組み合わせてオーバーホールした、型落ちのボロいスズキ・アルトワークスでエントリーしていた。足回りを組み直し、エンジンの吸排気ポートをリューターでミリ単位まで磨き込み、ブースト圧の配管を絶妙に調整した、蓮の「完全なプライベートの趣味」の一台だ。
だが、パドックを見渡すと、明らかに光景が狂っていた。
隣のピットには、フェラーリやポルシェのワークスチームですら見たことがない規模の巨大なモーターホームが鎮座している。
並んでいるのは、世界最高峰のF1チームから極秘裏に引き抜かれたと思しき外国人メカニックたち。そして、ピットクルー全員が仕立ての良い耐火スーツを着用し、その胸元には小さく「桐生重工」「西園寺キャピタル」「白河メディカル」の紋章が刻まれていた。
「お、おい……あいつらの車、外見は軽自動車だが、カーボンモノコックの隙間から覗いてるのチタン製のエキマニじゃねえか!? なんでアマチュアレースにル・マン24時間を勝てる予算が注ぎ込まれてんだよ!」
大滝が頭を抱えて叫ぶ。
蓮は引きつった笑みを浮かべ、遠くのVIPラウンジを睨みつけた。
二階のエアコンが効いたガラス張りの特別観覧席には、双眼鏡を手にした桐生巌、優雅にアイスコーヒーを飲む西園寺司、そして日傘を差した白河綾乃が並んで座っていた。
蓮の視線に気づいた三人は、胸元に手を当て、完璧な角度で恭しく会釈をしてくる。
(……あいつら、俺がレースに出るって聞きつけて、街中のサーキットを丸ごと買い取りやがったな……!?)
スマホがポケットで短く震えた。
西園寺からのメッセージだった。
『若君が週末にサーキットへ足を運ばれると伺いました。若君の走行データ収集および安全確保のため、周囲のグリッドは全て我が三家のテスト車両で埋めておきました。どうぞ、心ゆくまでアクセルを踏み込んでくださいませ』
(テスト車両のレベルが狂ってんだよ!!)
心の中で盛大にツッコミを入れながらも、コースインを告げるシグナルが点滅し始めた。
ここで逃げ出すわけにもいかない。大滝と二人でコツコツと仕上げた愛車の仕上がりだけは、本物だと信じたかった。
「大滝さん、行ってきます!」
「お、おう! 無茶すんなよ神崎! あのスーパーカー軍団に轢き殺されるなよ!」
蓮はヘルメットのシールドをパチンと下ろし、バケットシートに深く腰を沈めた。
ステアリングを握り、クラッチを繋ぐ。エンジンは澄んだ甲高い吸気音を響かせ、快調そのものだった。
スターティンググリッドに着く。
周囲を囲むのは、最新鋭のレーシングカーとプロのワークスドライバーたち。だが、彼らの目線は前のシグナルではなく、蓮のアルトワークスに向けられていた。
無線を通じて、全ピットに白河綾乃の冷徹な声が響いていた。
『各車に通達。若君のアルトの進路を妨害するような真似は万死に値します。しかし、露骨に道を譲るような不自然な走りをすれば、若君の機嫌を損ねます。極限のデッドヒートを演出しつつ、若君が最も美しくレコードラインをトレースできるよう、ミリ単位で風除け(スリップストリーム)を作りなさい』
『了解。全車、超精密アシストフォーメーションへ移行』
シグナルがレッドからブラックアウトした瞬間、全車が一斉にタイヤを空転させて飛び出した。
「うおおおおっ!!」
蓮は前世で培った「命がけの逃走技術」と、この数ヶ月で磨き上げたメカニックの直感を全開にし、コーナーへ飛び込んだ。
驚くべきことに、目の前を走る数千万円のレーシングカーたちが、絶妙な間合いで莲の風除けになり、コーナーの進入では絶妙にブレーキポイントを譲ってくる。
蓮がインを突けば、まるで最初から計算されていたかのように綺麗なラインがぽっかりと開き、蓮が立ち上がりでアクセルを踏めば、背後の車両が完璧にブロックして他車を寄せ付けない。
(な、なんだこれ!? めちゃくちゃ走りやすい……! まるでコース全体が俺の走りに合わせて呼吸してるみたいだ……!)
蓮は神がかったハンドリングで次々とコーナーをクリアしていった。
もちろん、蓮自身のセッティング技術とドライビングテクニックも超一流だったが、周囲のプロドライバーたちが命を削って「完璧な接待レース」を繰り広げているのだから負けるはずがなかった。
チェッカーフラッグが振られた瞬間、蓮のボロいアルトワークスは、コースレコードを二秒以上更新してぶっちぎりの総合優勝を飾っていた。
パドックに戻ると、地元のサンデーレーサーたちや観客から割れんばかりの拍手と大歓声が巻き起こった。
「すげえええぞ神崎! あの化け物みたいなワークス勢を、うちのボロ車でブチ抜いちまった!!」
大滝が涙を流して蓮を抱きしめた。
表彰台の頂点に立たされ、安物のシャンパンを掲げる蓮。
観客席の遠くでは、桐生巌が涙をハンカチで拭い、西園寺司がスタンディングオベーションを送り、白河綾乃が満足げにワイングラスを掲げていた。
(……もう、好きにしてくれ)
蓮は青空を見上げ、苦笑いしながらシャンパンの泡を浴びた。
どれだけ平凡を望んでも、彼が本気でハンドルを握る限り、世界は彼を勝者にするために勝手に跪いてしまう。
真夏の眩しい日差しの中、トロフィーの重みとオイルの匂いを感じながら、蓮の奇妙で騒がしい「平穏な日常」は、どこまでも続いていくのだった。




