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特別編:街道の亡霊と、ガレージの奇跡

初夏の青空が広がる五月半ば。大滝モータースのピットには、心地よい金属音とコンプレッサーの唸り声が響いていた。

蓮は使い込まれたツナギの袖をまくり、リフトに上がった型落ちのジムニーの下回りを点検していた。下回りのサビを真鍮ブラシで落とし、プロペラシャフトのガタつきを指先の感覚で確かめる。

「神崎、お前本当に手際が良いな。特にその古い四駆の扱い、まるで何年も付き合ってきた相棒を触る手つきだぞ」

事務所から冷たい缶コーヒーを二本ぶら下げて戻ってきた工場長の大滝が、感心したように笑った。

「前世で……いや、昔からこの手の車が好きだっただけですよ。手が掛かるやつほど、ちゃんと手を入れれば応えてくれますから」

蓮は受け取った缶コーヒーで火照った頬を冷やしながら、控えめに微笑んだ。

大滝の言う通り、前世の蓮は見栄で買った外車を自力で維持できなくなり、最終的に中古のボロ四駆をバラしては組み直すようなギリギリの生活を送っていた。その時に泥水と鉄粉にまみれて覚えた技術が、今こうして真っ当な飯の種になっている。

その時、工場の入り口に敷かれたセンサーが「ピンポーン」と間の抜けたチャイムを鳴らした。

敷地にゆっくりと滑り込んできたのは、積載車の荷台に載せられた、埃だらけの一台の大型トラックだった。

ボディの随所に凹みがあり、長年放置されていたのかタイヤの空気は完全に抜けている。しかし、その無骨なフロントマスクと巨大なホイールハブには、かつて日本の高度経済成長期の物流を支え抜いた名車特有の凄みが宿っていた。

積載車の運転席から降りてきたのは、作業着姿の白髪の初老男性だった。

大滝が目を丸くして駆け寄る。

「おいおい……! 池田社長じゃないですか! どうしたんですかいきなり、こんな骨董品を引っ張り出してきて!」

池田と呼ばれた男は、市内で老舗の運送会社を営む社長だった。

だが、その表情は酷く沈んでおり、肩を落として深くため息をついた。

「大滝さん……頼む、これを見てくれ。うちの先代が会社を立ち上げた時に初めて買った、社宝とも言える第一号車なんだ。来月の創業五十周年記念式典でどうしても自走させたいんだが……どこの大手ディーラーに持って行っても『部品がない』『配線図が残っていない』と門前払いを食らってな」

大滝がキャビンを持ち上げ、エンジンルームを覗き込んだ。

複雑に入り組んだ旧式の油圧配管と、劣化してボロボロになったキャブレター。現代のコンピューター診断機(スキャナー)など一切通用しない、完全なアナログの遺物だった。

「……ううむ。こいつは厳しいぞ。油圧ポンプのシールは完全に死んでるし、燃料ラインの三方弁なんて今どきどこにも売ってねえ。うちの腕でも、一ヶ月じゃ到底無理だ……」

大滝の渋い顔を見て、池田社長の瞳から光が消えかけた。

「そうか……やはり無理か。先代の遺言だったんだがな……」

諦めて踵を返そうとする池田の背中に、蓮の声が静かに掛かった。

「あの、池田社長。少しだけ見せてもらってもいいですか?」

「神崎、無理言うな。お前が触ったことのある車とは年代が――」

大滝が止めようとしたが、蓮はすでにエンジンの脇に踏み込み、黒く硬化した燃料ホースに指を這わせていた。

蓮の脳内で、前世の記憶の引き出しが高速で開いていく。

前世、金に困って怪しげな重機解体屋でアルバイトをしていた頃、狂ったように旧型油圧システムをバラして海外へ密輸するブローカーの手元を嫌というほど見せつけられた。あの時の知識――。

「大滝工場長、第ニ工具棚の奥に、先週『問屋の手違い』で届いた謎のインチ規格の真鍮継手がありましたよね」

「あ? ああ、頼んでもねえのに混ざってたやつか」

「あれと、奥の棚に転がってる汎用の耐熱高圧ホースを組み合わせれば、燃料ラインのバイパスが組めます。それから油圧ポンプですが、これ、コマツの旧型ショベルカーのパワステポンプと内部のベーンローターの規格が全く同じです。リビルト品のベーンを削ってクリアランスを詰めれば、今日中に油圧は復活しますよ」

蓮は流れるような所作でラチェットを構え、ボロボロのボルトをミリ単位の力加減で緩め始めた。

一切の躊躇がない手つき。ネジ一本を折ることもなく、錆びついた真鍮パーツが蓮の手の中で魔法のように解体されていく。

「お、おい神崎……お前、なんでそんな古い産業機械の互換性を知ってんだ!?」

大滝が顎が外れそうなほど口を開けて叫んだ。

「昔、ちょっと図面を見たことがありまして」

蓮は苦笑いしながら、手際よく真鍮ワッシャーをガスバーナーで焼き鈍し、密閉度を蘇らせていく。

わずか三時間後。

西日が差し込む工場の中に、セルモーターの力強い回転音が響いた。

キュルルルル……ズドォォォォン!!

轟音とともに、半世紀前のディーゼルエンジンが息を吹き返した。

マフラーから吐き出された一筋の黒煙が青空へと吸い込まれ、アイドリングの規則正しく重厚な鼓動が工場の床を心地よく震わせる。

「か……かかった……! 先代のエンジンが、息を吹き返した……ッ!」

池田社長はその場にへたり込み、ボロボロのフロントバンパーに手を当てて涙を流した。

「神崎くん……! 君は一体何者なんだ!? ディーラーのチーフメカニックですら匙を投げたこの車を、たった半日で……!」

「いえ、元々の造りが頑丈だっただけですよ。車が『まだ走りたい』って言ってたんです」

蓮は油まみれのウエスで手を拭き、爽やかに笑った。

池田社長は何度も深々と頭を下げ、整備代金の他に「うちの運送会社の全車両の車検と定期点検を、今後すべて大滝モータースに任せる!」と叫んで、満面の笑みで帰路についたのだった。

その日の深夜。

都心の高層ビルにある桐生グループの本部会議室では、緊急の幹部ミーティングが開かれていた。

プロジェクターに映し出されたのは、昼間に蓮がトラックのエンジンを蘇らせた一部始終の高画質映像だった。

桐生巌は身を乗り出し、震える指で画面を指差した。

「見たか……! 現代のいかなるAI診断機すら匙を投げる半世紀前の産業遺産を、指先の感触と聴覚だけで完全に復元されたのだ……!」

第一秘書が、熱狂を帯びた声で補足する。

「はい! しかも若君がお救いになられた池田運送は、この地方のサプライチェーンを草の根で支える動脈企業。若君は、大手メーカーが切り捨てた『過去の産業遺産』と『中小の物流網』を自らの手で直接繋ぎ止め、草の根から日本経済の足元を固めておられるのです……!」

「何という慈悲……! 何という現場主義の極致か……ッ!」

巌は感涙にむせび、力強く拳を握りしめた。

「直ちに全国の重工業ネットワークへ通達しろ! 池田運送への大口輸送案件を最優先で割り当てろ! そして……大滝モータースの周囲の金属加工屋へ、最高精度の旋盤とフライス盤を『粗大ゴミ』として匿名で寄贈するのだ! 若君が望まれる部品が、いつでも手に入るようにな!!」

翌朝。

大滝モータースのゴミ集積所に、なぜか新品同様のスイス製超精密旋盤が「ご自由にお持ち帰りください」の張り紙とともに捨てられていた。

それを見つけた蓮は、持っていたスパナを地面に落とし、両手で顔を覆った。

「……だから! 捨ててあるわけねえだろ、五千万円する工作機械がよぉぉぉぉッ!!」

少年の悲痛な叫びは、初夏の爽やかな風にかき消され、今日もまた誰の耳にも届くことはなかった

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