番外編:白菜の奇跡と、高級ホテルの怪現象
その日の夜、蓮の借りている六畳一間のアパートには、鍋から立ち上る湯気と出汁の優しい香りが満ちていた。
「うん、やっぱり採れたての野菜は甘みが違うな」
村上から貰った白菜とネギを刻み、スーパーの安売り豚肉と一緒にぐつぐつと煮込んだだけのシンプルな一人鍋。前世の蓮なら、高級料亭のすき焼きでなければ満足できなかっただろう。だが今の蓮にとっては、自分で手を動かして直したトラクターの主から受け取ったこの泥臭い野菜こそが、どんな贅沢よりも五臓六腑に染み渡るご馳走だった。
「明日もオイル交換が二台入ってるし、早く食べて寝るか」
蓮がのんびりとポン酢に白菜を浸していた、ちょうどその頃――。
都心の超一等地にそびえる、白河グループ系列の最高級ホテル『ザ・クラウン白河』のメインダイニングでは、前代未聞のパニックが発生していた。
総料理長が厨房の中央で直立不動の姿勢を取り、冷や汗を拭いながら電話口に向かって深々と頭を下げていた。
「は、はい……! 白河総裁からの直々の特命でございますね……!? 直ちに全コースのメインディッシュの付け合わせを変更いたします! 産地は……ええ、県南部の村上農園の白菜、一切の農薬を使わぬ極上品でございますね!」
通話を終えた総料理長が振り返り、厨房のシェフたちに雷のような怒号を飛ばした。
「おい、何を突っ立っている! 桐生グループの特別便で先ほど到着したあの木箱を開けろ! 今夜のディナーのトリュフもフォアグラも全て脇に引け! あの『神聖なる白菜』の繊維を一本たりとも傷つけることなく、極限の低温スチームで甘みを極限まで引き出すのだ!!」
厨房が戦場と化す。
客席には、白河綾乃に招待された政財界の重鎮や各国の大使たちが、緊張の面持ちでテーブルを囲んでいた。彼らの前に恭しく運ばれてきたのは、銀のクロッシュに覆われた一皿。
蓋が開けられると、そこにあったのは、黄金色に透き通るコンソメスープに浮かぶ、一輪の牡丹のように美しく仕立てられた「白菜の芯」だった。
一口口に含んだ西園寺司が、眼鏡を震わせて感嘆の声を漏らした。
「……美味い。なんと素朴で、それでいて力強い大地の味だ。資本の暴力で品種改良された温室育ちの野菜とは、魂の重みが違う……!」
同席していた桐生巌もまた、ハンカチで目頭を押さえながら震える手でスプーンを置いた。
「これぞ……若君が泥にまみれ、額に汗して救い出された民の結晶……。金で買えぬ人の営みの尊さを、一皿の料理を通じて我ら強欲な獣どもに説いておられるのだ……ッ!」
白河綾乃はワイングラスを傾け、窓の外の夜空を見つめながら、蠱惑的な笑みを深めていた。
「ふふ、ええ。若君は今夜も、我々の知らない静かな場所で、世界の本質を噛み締めていらっしゃるのでしょうね」
翌朝。
『大滝モータース』の事務所で、蓮は湯呑みの茶をすすりながら朝の地元新聞を開いた。
地域経済欄の片隅に、見出しが躍っていた。
『市内・村上農園の有機白菜、都内五つ星ホテルで異例の全量買い取り決定――注文殺到で年内出荷分が完売』
「……ぶふぅッ!?」
蓮は盛大にお茶を吹き出した。
「どうした神崎、汚ねえな!」
大滝が笑いながら新聞を覗き込む。
「へえ、村上さんのところの野菜が銀座のホテルで大ウケしたんだってよ! あの頑固ジジイ、朝から電話してきて『トラクター直してもらった途端に大金持ちになっちまった! あの若い兄ちゃんは座敷わらしじゃねえか』って大騒ぎしてたぞ!」
「ざ、座敷わらし……」
蓮の引きつった顔から、サーッと血の気が引いていく。
昨夜の白菜。
桐生からの「流通ボトルネック解消」という謎のメッセージ。
そして、異常な速度で全国区のブランド野菜へと祭り上げられた村上農園。
蓮は震える手で新聞を置き、工場の外の青空を仰いだ。
(……あいつら、俺が食った鍋の残りの白菜まで全部買い占めて相場を吊り上げやがったのか……!?)
どれだけ自分が現場の底辺で静かに生きようとしても、彼の手が触れたものはすべて、裏の怪物たちの手によって黄金へと変えられてしまう。
「神崎ー! 次はジムニーのタイヤ組み換えだ! 頼むぞ!」
「は、はい……! すぐ行きます……!」
ため息をつきながらも、蓮は作業着の裾をたくし上げ、タイヤチェンジャーへと駆け出した。
世界を裏から動かす黒幕たちの狂想曲を背中に受け流しながら、元見栄っ張りの青年は、今日も油と鉄の匂いの中で、誰よりも真面目にボルトを締め続けるのだった。




