外伝:町工場の新人と、世界最高峰の工具箱
四月の風が、乾いた砂埃とほのかなオイルの匂いを運んでいた。
「おーい、神崎! そっちのスナップオンのラチェット取ってくれ!」
リフトの下から、油まみれのツナギを着た工場長・大滝のガラガラ声が響く。
「はい、三番のラチェットですね!」
蓮は作業着の袖をまくり、手際よくキャビネットから工具を取り出して手渡した。
高校を卒業して一週間。蓮が働き始めたのは、国道沿いにある小さな町工場『大滝モータース』だった。リフトが二基とタイヤチェンジャーが一台、事務所の隅には年季の入ったストーブと茶渋のついた湯呑みが転がっているような、どこにでもある平凡な現場だ。
前世では触ることすら嫌がったはずの、機械油の黒い汚れ。
だが今の蓮にとって、ボロボロになった四駆の足回りを組み直し、エンジンの異音を聞き分け、自分の手で一つひとつのボルトをトルクレンチで締め上げるこの時間は、前世のどんな贅沢よりも心地よかった。
「へへっ、いい手際だな神崎。お前、本当に高校出たばっかりか? ネジ山の感触が分かってる奴の回し方だぞ」
大滝は汗をタオルで拭いながら、満足そうに蓮の肩を叩いた。
「いやあ、まだまだ見習いですよ。早く一人前になって、ジムニーのクラッチ交換くらい一人でできるようになりたいです」
「ハハハ! 欲がなくていいな! 最近の若いもんはすぐ派手な車やデカい会社に行きたがるが、こういう泥臭い仕事の面白さが分かる奴は伸びるぞ!」
大滝の豪快な笑い声に、蓮も自然と笑みをこぼした。
これだ。自分が欲しかったのは、まさにこの「何者でもない、ただの新人整備士」としての毎日だった。
しかし――蓮は工具箱の奥を見つめ、心の中でそっと引きつった笑いを浮かべた。
(……まあ、この工場の設備、よく見ると完全に頭おかしいんだけどな)
リフトを操作する油圧ポンプは、なぜかドイツの軍事施設で使われている超精密サイレントモーターに換装されている。
大滝が「昔のツテで安く手に入れた」と自慢している特殊工具セットは、世界に十セットしか存在しないスイスの航空宇宙産業用チタン合金製。
さらに、工場の裏手にある部品棚には、メーカー欠品で全国のディーラーが血眼で探しているはずの旧車用純正新品パーツが、「たまたま倉庫の奥から出てきたデッドストック」として山積みされていた。
(西園寺のやつ……『ただの町工場の設備として偽装した』って言ってたけど、偽装が雑すぎるだろ……!)
もちろん、大滝をはじめとする職人たちは「運がいい」「古い付き合いの問屋が親切だった」と本気で信じ込んでいるため、蓮が突っ込むわけにもいかない。
そこへ、工場の前に一台の年季の入った軽トラックが停まった。
荷台には大量のネギとキャベツが積まれている。運転席から降りてきたのは、近所の農家の頑固オヤジとして知られる村上だった。
「よう、大滝! うちのトラクターの調子が悪くてな、アイドリングで変な煙が出るんだよ。明日までに直らねえと出荷が間に合わねえ!」
大滝がボンネットを開け、眉をひそめた。
「うーん……燃料噴射ポンプのプランジャーが焼き付きかけてるな。これ、部品を取り寄せるのに最低でも三日はかかるぞ村上さん」
「えぇ!? 三日も待てねえよ! 明日の朝にはキャベツを市場に運ばなきゃならねえのに!」
頭を抱える村上と困り果てる大滝。
蓮はそっと近づき、エンジンの奥の配管と噴射ノズルを観察した。前世で悪徳ブローカーに掴まされたボロ機械を自力で直すために、徹夜で構造図を読み漁った記憶が蘇る。
「工場長、ちょっと見てもいいですか?」
「ん? 神崎、分かるか?」
「これ、ポンプ本体の焼き付きじゃなくて、リターンホースのオリフィスにスラッジが詰まって燃圧が異常上昇してるだけだと思います。超音波洗浄機でスラッジを飛ばして、パッキンを交換すれば一時間で動きますよ」
「……は? そんな簡単にいくか?」
大滝が半信半疑でホースを外し、パーツクリーナーを吹き込むと、蓮の指摘通り真っ黒なタール状のゴミがゴロリと転がり出た。超音波洗浄にかけて組み直すと、セルモーター一発でトラクターのディーゼルエンジンが小気味よい低音を響かせ始めた。
「な……直った! すげえぞ兄ちゃん! 一体どうやったんだ!?」
村上が目を丸くして蓮の手を握りしめた。
「たまたま構造を知ってただけですよ。お役に立ててよかったです」
蓮が控えめに笑うと、村上は感激のあまり荷台から一番立派な泥付きの白菜と採れたてのネギを両手いっぱいに抱えて押し付けてきた。
「これ持ってけ! 今夜鍋にでもして食え! ありがとな、本当に助かったよ!」
軽トラが煙を吐きながら走り去るのを見送り、蓮は泥だらけの白菜を抱えて立ち尽くした。
ブラックカードでも、未公開株でも、数十億のタワーマンションでもない。自分の知識と腕で誰かを助け、その対価として手渡された、泥のついた野菜。
「……うん。やっぱり、こっちの方がずっといい」
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、蓮は事務所へ戻ろうとした。
その時、工場の向かいの電柱の陰で、一眼レフの望遠レンズを構えていた私服姿の桐生グループ情報員が、震える手で無線機のボタンを押していた。
『――こちら監視班。若君が……若君が今、地方の一次産業の流通ボトルネックを、わずか数分のフィールドワークで完璧に解消されました……!』
『何だと!?』
通信の向こうで、桐生巌の感涙にむせぶ声が響く。
『対価として受け取られたのは、無農薬の泥付き野菜……! 金銭による支配を嫌い、地域コミュニティとの直接的な物々交換を通じて新たな経済循環モデルを実験されているのだ……! 何という崇高な試み、何という深い帝王学か……ッ!!』
『直ちに白河グループの物流網へ連絡しろ! 若君が救われた農家の野菜を全量買い取り、全国の高級ホテルチェーンへ『影の若君セレクション』として流通させるのだ! 決して若君の半径五メートルに気づかれるなよ!!』
工場の水道で白菜の泥を洗い流しながら、蓮はふいに「ハクション!」と盛大なくしゃみをした。
「……なんか、背筋がゾワッとしたな。風邪か?」
首をかしげる蓮の頭上を、春の柔らかな日差しが包み込んでいた。
どれだけ慎ましく生きようとしても、周囲の巨大な勘違いの歯車は、今日も完璧に、そして盛大に狂い続けていた。




