エピローグ:卒業式のサプライズと、見えざる護衛艦
桜の蕾がほころび始めた三月。県立光陵高校の体育館は、卒業生と保護者の熱気に包まれていた。
「――卒業生代表、神崎蓮」
壇上の校長が、どこか喉を震わせながら名前を呼ぶ。
パイプ椅子から立ち上がった蓮は、背筋を伸ばして静かに演壇へと歩みを進めた。
(……なんで俺が総代なんだよ)
内心では盛大に愚痴をこぼしていたが、前世の修羅場仕込みのポーカーフェイスは崩さない。
学業成績は意図して中の上、部活動も帰宅部で目立たないように徹していたはずだった。しかし、桐生・西園寺・白河の三家が理事会に巨額の寄付金を積み、「若君の輝かしい門出に相応しい栄誉を」と猛烈な裏工作を仕掛けた結果、満場一致で代表に担ぎ上げられてしまったのだ。
壇上に上がると、校長は証書を両手で捧げ持ち、額に脂汗を浮かべながら深々と腰を折った。もはや授与ではなく、御神体を奉納する儀礼のようだった。
「おめでとうございます、神崎くん……!」
「……ありがとうございます」
証書を受け取り、蓮は体育館を見渡した。
保護者席の最前列には、仕立ての良い漆黒のスーツを着た桐生巌がハンカチで目頭を押さえ、隣では西園寺司が誇らしげに拍手を送っている。さらに来賓席には、白河グループの総裁代理として凛とした着物姿の白河綾乃が微笑みを湛えて座っていた。
周囲の保護者たちは「あの方々はどこの名士かしら」「学校の特別後援会の方らしいわよ」と囁き合っているが、日本の国家予算の数倍を動かす怪物が勢揃いしていることなど知る由もない。
(目立たず慎ましく……って言ったはずなのに、最後の最後までこれかよ)
蓮は小さく苦笑しながら壇を下りた。
卒業式が終わり、友人たちと卒業アルバムに他愛のない寄せ書きを交わし終えた夕暮れ時。
蓮は慣れ親しんだ校舎を出て、いつものガード下へと向かった。
もう制服を着てここを通ることもない。春からは、市内の小さな自動車整備工場で働くことが決まっていた。
三財閥からは「グループ直系企業の取締役」「海外本部の特別顧問」といった破格のポストが山のように提案されたが、蓮はすべて一蹴した。
『俺は油と鉄の匂いがする現場で、自分の手で汗を流して生きていく。それが俺の選んだ平穏だ』
そう告げた時、三家の首領たちは「これほどの権力を持ちながら、あえて最前線の労働に身を投じて現場の心理を掌握されるとは……! 真の帝王学、恐れ入りました!」とまたしても勝手に深読みして涙を流していたが、実害がないならどう思われていても構わなかった。
ガード下に到着すると、いつものダンボールの山は綺麗に片付けられていた。
道明寺宗雲の姿は、そこにはもうない。
代わりに、コンクリートの壁の隙間に、一通の茶封筒が挟まれていた。
蓮が封を開けると、中から出てきたのは、手書きの粗末なメモ用紙が一枚だけだった。達筆で力強い文字が躍っている。
『油まみれの人生も、案外悪くないぞ。
誰の目も気にせず、自分の足で地面を踏みしめて歩け。
……豚汁、ごちそうさまだったな』
蓮はメモを胸ポケットにしまい、ふっと空を見上げた。
澄み切った春の夕空に、一番星が静かに瞬いている。
その時、ポケットのスマホが短く震えた。
画面を開くと、桐生巌からのメッセージだった。
『若君、ご卒業心よりお祝い申し上げます。就職先となる「スズキ自動車整備工場」の敷地周辺の警備および部品供給ルートの優先確保、完了いたしました。決して半径五メートルには立ち入らぬよう、全方位から完全なる平穏をお守りいたします』
続いて西園寺司から。
『若君の勤務先で使用されるリフトおよび特殊工具一式を、ドイツの最高級メーカー製へ無償アップグレードしておきました。ただの「町工場の設備」として偽装済みですので、ご安心ください』
さらに白河綾乃から。
『工場の福利厚生として、我がグループの特別医療パスを従業員全員分、匿名で配布させていただきました。どうぞ、ご無理のなさいませんように』
蓮はスマホを握りしめ、天を仰いで深いため息をついた。
「……だから、やりすぎなんだってば」
苦笑いしながらも、蓮の足取りは驚くほど軽かった。
前世は見栄を張り、嘘を重ね、虚飾の果てに全てを失った。
だが二度目の人生では、世界を跪かせたまま、大好きな車を直し、慎ましく、自分のペースで生きていく。
少年の背中を、夕暮れの春風が優しく押し出していった。




