最終章:路地裏の温もりと、真の勝者
季節は巡り、木枯らしがガード下を吹き抜ける冬が訪れていた。
夕暮れ時の赤紫色の空の下、神崎蓮は厚手のダッフルコートのポケットに両手を突っ込み、白い息を吐きながら歩いていた。
高校の卒業式まで、あと三ヶ月。
あの帝国ホテルの極秘円卓会議以降、蓮の周囲は奇跡的なほどの「静寂」に包まれていた。
学校では誰も蓮を特別扱いしない。テストの点数に一喜一憂し、放課後はファミレスで百円のドリンクバーを粘り、卒業後の進路について友人と愚痴を言い合う。蓮が望んだ通りの、どこにでもある平凡で慎ましい高校生活。
だが、蓮は知っていた。
一見すると平穏なこの街の裏側で、三財閥が血眼になって「神崎蓮の快適な日常」を死守し続けていることを。
通学路で荒くれ者の暴走族が姿を消したのは、桐生グループの息のかかった警備隊が深夜のうちに全員を更生施設へ送り込んだからだった。
蓮のアルバイト先である小さなガソリンスタンドの経営が急に安定し、時給が五十円アップしたのは、西園寺グループが系列の全社用車の給油指定工場にこっそり組み込んだからだった。
そして、冬風邪が流行した際に蓮の通う高校だけが最新鋭の空気清浄システムを導入できたのは、白河グループが「無償のモデル校」という名目で数億円の設備を寄贈したからだった。
全ては「半径五メートルに近づくな」という蓮の命令を忠実に守りつつ、遠隔から完璧な加護を与えようとする怪物たちの、歪んだ忠誠心の結晶。
(まあ……迷惑がかかってないなら、もういいか)
蓮は小さく笑った。
前世では他人の目を気にし、見栄を張り、実力以上の自分を演じることに命をすり減らしていた。だが今は違う。巨万の富も、世界を動かす権力も、すべてポケットの奥深くにしまい込んだまま、ただ今日という一日を噛み締めて生きている。
「持たざる者が背伸びをするのは愚かだが……持っている者が身を縮めるのは、案外悪くないもんだな」
ガードレール沿いの角を曲がると、あの日と同じ高架下が目に入った。
薄暗いコンクリートの壁際、ダンボールの上に丸まった人影。
道明寺宗雲は、あの嵐の夜から姿を消したきり、一度も蓮のアパートには現れていなかった。だが、蓮には分かっていた。この街のどこかで、老人は今もあの鋭い眼光で世界を冷徹に見下ろしているはずだと。
蓮は近くのコンビニに立ち寄り、値引きシールの貼られた温かい豚汁と、ほかほかの肉まんを二つ買った。
高架下へ戻り、ダンボールの前にしゃがみ込む。
毛布の隙間から、白髪混じりの頭がゆっくりと持ち上がった。薄汚れた顔の奥で、相変わらず研ぎ澄まされた刃のような瞳が蓮を捉える。
「……また施しか、小僧」
しゃがれた、懐かしい声。
蓮は苦笑しながら、湯気の立つ豚汁と肉まんを老人の前に置いた。
「施しじゃないよ。ただの余り物だ。……それと、この間の礼」
道明寺は無言で肉まんを手に取ると、割って立ち上る湯気を吸い込み、ふっと口元を緩めた。
「東京の円卓……うまく首輪をはめてきたようだな。桐生も西園寺も、お前の一挙手一投足に怯えながら、国を挙げてお前の『平穏』とやらを買い支えている」
「全部あんたの入れ知恵のおかげだよ。……本当に、とんでもない家庭教師だったよ、爺さん」
「フン。ワシは何もしておらん。お前が前世の泥水の中で拾い集めた『後悔』が、奴らの肥大化した欲の目を眩ませただけだ」
道明寺は肉まんを一口頬張り、目を細めた。
「……金に溺れ、権力に狂い、全てを手に入れた気になっていたワシだがな。路地裏で凍え死にかけたあの日、お前がくれた百円の弁当の温もり以上に価値のあるものなど、この世には一つもなかったよ」
「……そうかもな」
蓮は隣の冷たいコンクリートに腰を下ろし、自分の分の肉まんにかぶりついた。
安物の肉まんなのに、驚くほど美味かった。どんな三つ星レストランの料理よりも、五臓六腑に染み渡る確かな味。
二度目の人生。
大金持ちにもならず、名家の当主にもならず、ただの十八歳の少年のまま。
だが、世界で最も恐ろしい怪物を従え、世界で最も穏やかな冬の夕暮れを味わっている。
――前世は見栄を張って野垂れ死んだ。
だが今世の俺は、誰よりも賢く、誰よりも慎ましく、この小さな幸せを絶対に手放さない。
ガード下を通り抜ける冬の風の中、二つの小さな白い湯気が、静かに夜空へと溶けていった。




