第二十三章:深夜のノックと、冷たい雨の訪問者
冬の終わりを告げる冷たい雨が、ガレージのトタン屋根を激しく叩いていた。
午後十一時過ぎ。ピットの明かりを消し、蓮は二階の事務所で熱いインスタントコーヒーをすすっていた。
手元にあるのは、ノートパソコンの画面。大滝モータースから独立して初めて迎える確定申告の帳簿付けだ。前世では税理士任せ、あるいは適当な粉飾で見栄を張った挙句に国税局の手入れを食らった蓮にとって、領収書の一枚一枚を自らの手で仕分けするこの作業は、何よりも身の引き締まる時間だった。
足元では、電気ストーブの温風を浴びながらトラとクロが腹を見せて丸くなっている。
「……よし。売上は白河のじいさんの三十万と、近所の農家のオイル交換数件。経費を引いても、ギリギリ赤字にはならずに済んだな」
蓮が満足そうにキーボードを叩いた、その時だった。
トントントン。
一階の閉ざされたシャッターを、控えめに、だが明確な意図を持って叩く音が響いた。
雨音に紛れそうなほど小さな、しかし規則正しいノック。
トラがピクリと耳を立て、クロが警戒するように身を起こした。
(こんな夜更けに……? 大滝さんなら携帯を鳴らしてくるはずだが)
蓮は階段を静かに下り、ピットの片隅に立てかけてあった鉄パイプの端材を右手に握り込んだ。前世の修羅場と、レオンのような外敵との遭遇を経て、危機管理の感覚だけは研ぎ澄まされている。
通用口の小窓から外を伺う。
街灯の乏しい路地、雨煙の向こうに立っていたのは、ボロボロのトレンチコートを着た一人の痩せた男だった。傘も差さず、ずぶ濡れのまま、胸元に抱えた大きな革鞄を庇うように抱きしめている。
蓮はチェーンをかけたまま、扉を細く開けた。
「何の用ですか。本日の営業はとっくに終わっていますが」
男が弾かれたように顔を上げた。
水滴の滴る前髪の奥から覗いたのは、極度の疲労と恐怖で血走った目だった。年の頃は四十前後、かつてはエリートだったことを思わせる銀縁の眼鏡が、雨に濡れて白く曇っている。
「た……頼む、助けてくれ……! ここが、道明寺先生の仰っていた『最後の砦』なんだろう……!?」
蓮の手が、ピクリと止まった。
(道明寺の爺さん……!?)
「追われてるんだ……! 私は、神道重工の航空宇宙開発部門でチーフ設計課長をしていた倉橋という者だ。……我が社の次世代ジェットエンジンの欠陥データと、それを隠蔽して海外の軍需ファンドへ売り渡そうとしている取締役会の裏帳簿を……持ち出した!」
男――倉橋は、狂気じみた形相で胸の革鞄を押し付けてきた。
「警察も、検察も、すでに神道重工の息がかかった息の根の止まった組織だ! どこへ逃げても奴らの私設警備隊が追ってくる……! 途方に暮れていた私に、あの高架下の老人が言ったんだ。『この街の西の果て、名もなきガレージへ行け。そこにお前とこの国の命を拾える唯一の怪物がいる』と……!」
蓮は頭を抱えそうになった。
(あのクソジジイイイイイッッ!! また厄介事を俺のところに丸投げしやがったなァァァッ!!)
だが、悪態を吐く暇すらなかった。
路地の奥、雨煙を切り裂いて、ヘッドライトを消した三台の黒いワンボックスカーが、音もなくガレージの敷地を包囲するように滑り込んできたのだ。
バタバタとドアが開き、防雨タクティカルギアに身を包んだ屈強な男たち十数人が、警棒やスタンガンを手にして降りてくる。
「倉橋課長、そこまでだ。その鞄を渡せば、命だけは助けてやると専務が仰っている」
先頭のスキンヘッドの男が、冷酷な笑みを浮かべて一歩踏み出した。
そして、通用口の隙間から顔を覗かせているツナギ姿の蓮を一瞥し、嘲笑するように吐き捨てた。
「おいおい、ボロ工場の小僧が何の真似だ? 首を突っ込むと、テメエの命もこのガレージごと消し炭になるぞ。さっさとその裏切り者を差し出せ」
絶体絶命。
倉橋はガタガタと歯の根を鳴らし、その場にへたり込んだ。
「す、すまない……! 巻き込んでしまった……! 私のせいで君まで……!」
蓮は長いため息をついた。
心臓は早鐘を打ち、逃げ出したい衝動が全身を駆け巡っている。
だが、ずぶ濡れで震える倉橋の姿は、前世で全てを奪われ、誰の手も借りられずに路頭に迷った自分自身の姿そのものだった。
蓮は鉄パイプを床にコロンと放り捨てた。
そして、チェーンを外し、通用口から雨の中へと悠然と足を踏み出した。
冷たい雨が蓮の前髪を濡らす。
だが、その双眸には、十数人の武装集団を前にしても微動だにしない、絶対零度の虚無が宿っていた。
「……神道重工の飼い犬どもか」
蓮の声は、雨音すら凍りつかせるほど低く、静かだった。
「お前たちのボスの専務に、電話を繋げ」
スキンヘッドの男が眉をひそめ、下卑た笑いを浮かべた。
「あぁん? ガキが生意気な口を――」
「聞こえなかったのか?」
蓮は一歩、男たちの方へと歩みを進めた。
ツナギのポケットから、あの漆黒の桐生カードと、道明寺の暗号キーが刻まれたチタンプレートを、無造作に指先で弾いて見せた。
男たちの動きが、一瞬でピタリと止まった。
スキンヘッドの瞳が、恐怖で見開かれる。裏社会の人間であれば知らぬ者のない、桐生巌の『漆黒の直通章』。そして、道明寺宗雲がかつて国家転覆の際にのみ用いたとされる伝説の『影の刻印』。
「な……な、ぜ、それを貴様が……!?」
「神道重工のメインバンクは西園寺ホールディングス。お前たちの海外部品調達ルートの八割は桐生海運が握り、お前たちの役員連中が通う総合病院は白河グループの傘下だ」
蓮は前世で読み漁った経済雑誌の知識を総動員し、淡々と、死神のように宣告した。
「今ここで引かなければ、明日の朝九時をもって、神道重工の全口座は凍結、海上輸送中の資材は全て差し押さえ、役員とその家族の医療カルテは全て地検の特捜部へ提出される。……お前たちの会社が、日本地図から消滅するまで、あと九時間と五十五分だ」
「ひっ……!」
武装集団の男たちが、目に見えて後ずさった。
雨の中、ただツナギを着て立っているだけの二十歳の青年。だが、その背後に透けて見えるのは、日本の三大財閥と裏社会の怪物を束ねる「絶対的支配者」の影だった。
スキンヘッドの男は額から脂汗を流し、携帯電話を震える手で耳に当てた。
何事かを上層部と二言三言交わした直後、男の顔は土気色へと変色した。
電話口から漏れ聞こえてきたのは、神道重工専務本人の、悲鳴のような絶叫だった。
『今すぐ引けェッ!! そこにおられるのは、触れてはならぬこの国の「真の主」だッ!! 髪の毛一本でも傷つけたら、我々全員が東京湾に沈められるぞッッ!!』
通話が切れた。
スキンヘッドの男は、泥水の中に両膝を突き、蓮に向かって額をアスファルトに擦り付けた。
「ご、ご無礼を……! どうか、どうかご容赦を……ッ!!」
「二度とこの街に足を踏み入れるな。……消えろ」
蓮の冷たい一言で、武装集団は蜘蛛の子を散らすように車へ飛び乗り、けたたましいスキール音を立てて逃げ去っていった。
雨煙の立ち込める夜の敷地。
取り残された倉橋は、泥だらけのまま呆然と蓮を見上げていた。
「あ……ああ……。本当に……本物の、影の覇王だったのか……」
蓮は背を向け、工場のシャッターをガラガラと半分だけ開けた。
そして、肩越しに溜息混じりに言った。
「寒いだろ。……上がれよ。熱い茶くらいなら出してやる」
「は、はいっ……! ありがとうございます……ッ!!」
倉橋が涙を流しながらピットへ滑り込むのを見届け、蓮は雨空を見上げて心の中で絶叫した。
(道明寺のクソジジイイイイイッ! また俺の平穏な生活が遠のいただろーがァァァァッ!!)
しかし、少年の悲痛な叫びを無視するように、新たな「国家規模の火種」が、名もなきガレージのピットへと運び込まれてしまったのだった。




