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刑事が恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第九章「泳がせる」

氷室を、泳がせることにした。


泳がせ捜査、という手法がある。目の前の被疑者を、あえてすぐには捕まえず、泳がせておく。監視を続けながら、その人間が、次に誰と接触し、どこへ金を運ぶかを追う。末端を一人挙げても、意味がない。上の中核の人間へたどり着くには、泳がせるしかない。


氷室は末端ではない。だが、中核そのものでもない、かもしれない。あの秘匿通話の相手が、氷室に指示を出しているのか、それとも氷室が指示を出しているのか。それは、まだ分からない。だから、泳がせる。今、氷室を問い詰めても、証拠がない以上、白を切られて終わりだ。それどころか、警戒され、線が切れる。


俺は刑事に戻っていた。この箱の中で、たった一人、捜査をしていた。誰にも言えない、たった一人の帳場。帳場、というのは、捜査本部のことだ。ふつうは、大勢の刑事が集まって、事件を追う。だが、俺の帳場には、俺しかいなかった。


それでも、久しぶりに、俺は生きている感じがした。二年間、干されて、暇な駒として、書類の山を眺めていた俺が、今、獲物を追っている。武者震いがした。


だが、この武者震いには、もう一つ、別の理由が、混じり始めていた。俺はまだ、それに気づかないふりをしていた。


夜、俺は私物の手帳に、氷室の行動を書き留めていた。何時にどこへ動いたか。誰と話したか。秘匿通話の回数。指の動き。だが、ページをめくると、氷室のことを書いたはずの余白に、いつのまにか、別のことが、書き込まれていた。


一ノ瀬澪、笑うとき、右の口角が少し先に上がる。花の名前をたくさん知っている。弟の話になると、目が動く。


刑事の記録のはずだった。なのに、氷室のページより、澪のページのほうが、いつのまにか、増えていた。俺はそれに気づいて、ペンを止めた。


これは、捜査だ。俺はそう自分に言い聞かせた。澪の行動も、記録している。それは、彼女に、弟の件で、何か裏があるかもしれないから。捜査の一環だ。──そう、書いてある字面のとおりに思い込もうとした。


だが、澪のページを書くときの俺のペンは、氷室のページを書くときより、少しだけ、ゆっくりだった。丁寧だった。その違いに、俺は気づかないふりをした。人の嘘を見抜く男は、自分の嘘だけは、いつも、いちばん最後に気づく。



その日の「現場検証」──デートの相手は、澪だった。


番組が、俺たち二人を組ませた。第一回のセレモニーで、澪が俺の名を書いたからだろう。視聴者が観たい絵を榊は逃さない。


ロケ地は、撮影所からバスで移動した、小さな植物園だった。カメラマンとディレクターが、少し離れて、俺たちを撮っている。だが、屋外は、あの箱の中より、ずっと空気が澄んでいた。本物の土の匂いと、本物の草の匂いがした。作りものではない匂いを嗅いだのは、この撮影に来て、初めてだった。


澪は花を見ると、目の色が変わった。


「これ、めずらしいんですよ。花屋でも、なかなか入ってこなくて」


彼女はしゃがみ込んで、小さな青い花を指さした。傷だらけの指先が、花びらに、触れるか触れないかのところで、止まる。壊さないように。花屋の手だった。


「花が、好きなんだな」


「花は、嘘をつかないから」


澪はそう言って、笑った。


「水をあげれば、咲く。あげなければ、枯れる。裏がない。分かりやすいんです。……人は、そうじゃないから」


裏がない。


その言葉に俺ははっとした。俺と、まるで逆の入り口から、この女は、俺と同じ結論にたどり着いていた。人には裏がある。それが、しんどい。だから俺は、人を疑うことにした。だが澪は、人を疑う代わりに、裏のないもの──花のそばに逃げ込んだ。


俺たちは、傷の場所が、似ていた。ただ逃げ込んだ先が、正反対だった。


人に裏切られた人間は、二つの道のどちらかを行く。一つは、俺の道だ。二度と信じないと決めて、すべての人間に裏を探す。疑うことで、身を守る。もう一つは、澪の道だ。人に裏を探すのが、もう嫌になって、裏のないもの──動物や、植物や、静かなもののそばへ逃げる。花に水をやることには、裏切りがない。裏切りのない場所で、傷を癒そうとする。


どちらも、同じ痛みから、始まっている。人を信じたい。でも、信じて、裏切られるのが、怖い。その綱引き。俺は疑う側へ倒れ、澪は逃げる側へ倒れた。


もし、と、俺は思った。もし、俺のこの疑う目と、澪のこの逃げない心が、出会ったら、どうなるんだろう。片方が、もう片方を、少しだけ、ほどけるんじゃないか。──そんな、証拠のない想像が、胸に浮かんだ。俺は慌てて、それを打ち消した。証拠のない想像は、危険だ。二年前、俺を壊したのも、証拠のない、美しい想像だった。



ベンチで休憩したとき、澪がぽつりと言った。


「相馬さんって、不思議な人ですね」


「どこがだ」


「みんな、わたしに、優しくしようとするんです。でも相馬さんは、優しくしようとしない。なのに──いちばん、安心する」


「愛想がないだけだ」


「ちがいます」


澪は俺の目を見た。


「相馬さんは、嘘をつけない人だから。優しいふりも、できない人だから。だから、あなたの言葉には、裏を探さなくていい。それって、すごく、楽なんです」


胸の奥が、じんと熱くなった。


俺がいちばん恥じてきたこと。嘘が下手なこと。平気なふりも、好きなふりも、できないこと。それを、この女は、いいことのように言う。安心する、と言う。


二年間、俺は自分のこの性質を、欠陥だと思ってきた。人を信じられない代わりに、人を騙すこともできない、中途半端な人間だと。だが、澪の前では、その欠陥が、初めて、価値になった。


嘘をつけない、ということが。


俺は彼女の横顔を見ていた。植物園の光が、その頬にやわらかく落ちている。読めない女。裏の見えない女。だが、今、俺は彼女の裏を、暴きたいとは、少しも思っていなかった。ただもう少し、この時間が続けばいいと、思っていた。


その感情に俺は名前をつけなかった。つければ、それが、証拠になってしまう気がした。裏の取れない、いちばん危険な、証拠に。



帰りのバスを待つあいだ、澪がスマホを見て、顔を曇らせた。


一瞬だった。だが、俺は見た。画面を見た瞬間の彼女のあの表情。恐怖に近い、何か。彼女はすぐにスマホを裏返して、膝に置いた。


「どうかしたか」


「……ううん」


「連絡か。誰かから」


澪は少し、迷った。それから、小さな声で、言いかけた。


「弟が──」


そこで、言葉が、止まった。彼女は俺の顔を見て、それから、無理に笑った。


「ううん。なんでもない。ほんとになんでもないんです」


なんでもない、と彼女は言った。二回。


嘘をつくとき、人は、同じ言葉を繰り返す。自分に、言い聞かせるように。俺はそれを知っている。


彼女は何かを抱えている。弟に関する、何かを。そして、それを、必死で、隠している。俺の刑事の目は、そう告げていた。画面を見た瞬間のあの表情。血の気の引いた頬。スマホを裏返す、素早い手つき。あれは、ただの心配事の顔ではない。もっと切迫した、追い詰められた人間の顔だった。


俺はその顔に見覚えがあった。特殊詐欺の受け子や、闇バイトに手を出した末端の連中。彼らの家族が、警察署の窓口で見せる顔と、よく似ていた。取り返しのつかないことに、身内が巻き込まれている。そのことを、誰にも言えずにいる人間の顔。


だが、俺の中の刑事ではない別の部分が、こう囁いた。──暴くな。この女の裏だけは、暴くな、と。


俺は生まれて初めて、自分の職業と、自分の気持ちが、真っ向から、対立するのを感じた。バスが来た。俺たちは、並んで乗り込んだ。澪の横顔は、もういつもの穏やかな顔に戻っていた。だが俺の頭の中では、警報が、鳴りやまなかった。

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