第十章「アリバイ(全員に別の理由がある)」
刑事の仕事の半分は、アリバイを崩すことだ。
アリバイというのは、その時刻、別の場所にいたという証明のこと。犯行時刻に現場にいなかったと言い張る人間のその言い分の裏を取り、崩していく。だが、俺がこの箱で崩したいアリバイは、少し違う種類のものだった。
全員が、口をそろえて言う。「本当の恋を探しに来ました」。それが、この箱の全員のアリバイだった。恋を探しに来た、という建前。だが、俺の目には、そのアリバイが、一人残らず、崩れて見えていた。
里佳はフォロワーを増やしに来ていた。デート中も、自分がどう映っているかばかりを気にして、カメラの位置を絶えず目で追っている。恋よりも、この番組に出たという実績が欲しい。それが彼女の本当の目的だった。
透は退屈しのぎだった。あの寡黙は、ミステリアスな演出ではなく、単に、誰にも興味がないだけだった。恋にも、金にも、名声にも。ただ暇だから、来た。俺はこの男を、一日で、容疑の対象から外した。何も探しに来ていない人間は、何も企まない。
熊沢は──唯一、本当に恋を探しに来ていた。この男だけが、建前と本音が、完全に一致していた。だからこそ、この箱の中で、いちばん浮いていた。本気の人間ほど、作りものの中では、浮いてしまう。
加賀美は勝ちに来ていた。誰と結ばれるかより、自分が最後まで残ること。この番組で、いちばん注目される女になること。それが彼女の勝利条件だった。恋は、そのための道具にすぎない。
そして、氷室は──俺の見立てでは、獲物を探しに来ていた。
崩せないアリバイは、たった一つだった。一ノ瀬澪。彼女が本当は何を探しに来たのか。それだけが、いくら洗っても、崩れなかった。
俺はこの二年間で、何十人もの被疑者のアリバイを崩してきた。崩し方には、いつも同じ型がある。人が隠したいことには、必ず綻びが出る。話しすぎるか、話さなさすぎるか。目が泳ぐか、逆に泳がなさすぎるか。どこかに力みが残る。その力みを見つければ、あとは糸を引くだけでいい。
だが澪には、その力みがなかった。弟の話をするときだけ、わずかに目が動く。それは見た。しかしその奥にあるものが、詐欺師の嘘とは、手触りが違った。嘘をつく人間は、自分を守るために隠す。澪が隠しているものは、自分を守るためのものではないように見えた。もっと、痛くて、恥ずかしくて、口にできない何か。
被疑者の嘘と、傷ついた人間の沈黙は、似ている。どちらも、真実を隠す。だが、まったくの別物だ。俺はその二つを、見分けられるはずだった。それが、俺の仕事だったから。なのに澪の前では、その見分けが、つかなくなっていた。彼女が嘘つきなのか、それとも、ただ深く傷ついているだけなのか。俺には、判別できなかった。
判別できないなら、洗うしかない。刑事なら、そうする。裏を取って、白黒つける。だが、俺はその一歩を踏み出せずにいた。踏み出せば、何かが、壊れる気がした。彼女の何かか、俺の何かか。あるいは、両方か。
◇
夜、俺が一人で洗面所にいると、榊が入ってきた。
「相馬さん。少しいい?」
鏡越しに彼女が立っていた。相変わらず、目だけが別のことを考えている、あの顔で。俺は蛇口を止めた。水滴が、一つ、二つと、洗面台に落ちる音が、やけに大きく響いた。
「あなた、いい仕事してくれてるわ」
「仕事?」
「氷室くんを疑ってるでしょう。いい絵になってる。あなたが、あの子を横目で見るたびに、視聴者は、何かある、って思う。──サスペンスよ。恋愛番組に、サスペンス。今期、跳ねるわ」
俺は鏡の中の榊を見た。この女は、俺の捜査を、演出の素材として、利用しようとしている。俺が本気で氷室を追っていることに気づいている。気づいていて、それを、番組の盛り上げに使おうとしている。
「あんた、氷室が何者か、知ってるのか」
俺は鎌をかけた。榊は笑った。
「さあ? 知らないわ。知りたくもない。──だってね、相馬さん」
彼女は鏡の中の俺に顔を近づけた。
「本物なんて、どうでもいいの。この番組に必要なのは、本物じゃない。本物に見えるものなの。氷室くんが、詐欺師だろうが、王子様だろうが、視聴者が『素敵』と思えば、それが真実。──あなたが、本気で恋してようが、演技だろうが、カメラが『恋してる』と映せば、それが、本物の恋なの」
俺は背筋が、寒くなった。
この女は、本気で言っている。本物と、作りものの区別に意味はない、と。人が幸せそうに見えれば、それでいい。裏なんて、取る必要はない、と。
それは、ある意味で、俺の対極だった。俺は裏を取らなければ、何も信じられない。榊は裏を取ることに意味を認めない。
「あんたの言う恋は」
俺は言った。
「空っぽだ」
「あら」
榊は心底、面白そうに笑った。
「空っぽでも、人は、幸せになれるのよ。──むしろ、空っぽのほうが、傷つかなくて、いいかもしれない。中身がないんだから、裏切られようもない」
中身がないから、裏切られようもない。
その言葉が、俺の胸のいちばん柔らかいところを突いた。俺が二年間、無意識に目指してきたもの。誰も信じず、誰にも期待しなければ、二度と、裏切られずにすむ。俺は心を、空っぽにすることで、身を守ってきた。榊が言っているのは、それを番組ぐるみでやる、ということだった。
俺と、榊は同じ絶望を共有していた。
だが、一つだけ、違うところがあった。榊はその絶望を商売にした。俺はその絶望を罰にした。榊は笑いながら偽物を売り、俺は歯を食いしばって誰も信じずにいる。同じ穴の底で、片方は踊り、片方はうずくまっている。どちらが幸せかと聞かれたら、俺は答えられなかった。少なくとも、うずくまっている俺のほうが、幸せそうには見えないだろう。
榊はそれを見抜いていた。だから、俺を、番組に使えると踏んだ。壊れた男は、いい画になる。傷ついた人間を、素材として消費する。それが、この番組の血であり、榊という女の職能だった。そしてそれは、二年前の俺が、千鶴の涙を、事件解決の手がかりとして利用しようとしたのと、どこか、似ていた。人の傷を道具にする。俺もかつて、その誘惑のすぐそばにいた。
「相馬さん」
去り際、榊は鏡越しにこう言った。
「あなた、いい顔してる。──もっと、壊れて。壊れれば壊れるほど、あなたは、いい画になる。それが、あなたのここでの価値よ」
榊が出ていった。
俺は鏡の中の自分の顔を見た。この女の言う「いい画」に、俺はなりつつあった。壊れかけた刑事。疑い続ける男。それは、二年前から、ずっと俺自身だった。
だが、鏡の奥で、もう一つの顔が、ちらついた。植物園で、花に触れる、澪の横顔。壊れていない、まだ何も、諦めていない顔。
俺は水を、もう一度、顔にかけた。冷たい水が、まぶたを打った。この箱で、俺は壊れるために使われている。──だが、俺の中のどこかが、それに抵抗し始めていた。壊れたくない、と。ここで、この女に壊されたくない、と。
その抵抗が、どこから来るのか。俺には、もううすうす、分かっていた。分かっていて、まだ認めなかった。
認めれば、それは証拠になる。証拠になれば、なかったことにできない。俺は二年間かけて、心を空っぽにしてきた。その空っぽの部屋に、いつのまにか、一人の女が、勝手に入り込んでいた。花の名前をたくさん知っている、読めない女が。俺はその事実から、目をそらし続けた。そらし続けるほど、抵抗は強くなった。壊れたくない。この気持ちを、榊のカメラの前で、消費されたくない。守りたい。誰かを守りたいと思ったのは、二年ぶりだった。守ろうとして、壊した。あの記憶があるのに俺はまた、守りたいと思っていた。
蛇口の水を止めた。洗面所は、静まり返っていた。鏡の中の男は、二年前より、少しだけ、人間の顔をしていた。それが、良いことなのか、悪いことなのか。俺には、まだ分からなかった。




