第十一章「心証」
心証、という言葉がある。
裁判官が、証拠を見て、こうだろうと抱く、内心の判断のことだ。まだ確定した証拠ではない。だが、心の中では、もう答えが出ている。そういう、宙ぶらりんの確信を、俺たちは心証と呼ぶ。
この箱に来て二週間。俺の中には、二つの心証が、育っていた。
一つは、氷室に関するもの。あの男は、ただの参加者ではない。トクリュウの中核か、それに近い人間だ。秘匿通話。痕跡の残らないアプリ。人を道具として読む目。追い詰められたときに弱みを差し出す、詐欺師の手つき。一つ一つは、決定的ではない。だが積み上げれば、俺の心証は、もう黒に振り切れていた。
問題は、それが心証にすぎないことだった。証拠がない。裏が、何一つ取れていない。この状態で氷室を告発すれば、名指しされた腹いせの妄言として処理されて終わる。俺は泳がせながら、決定的な一手を待つしかなかった。
そして、もう一つの心証は──俺自身の胸の中にあった。
一ノ瀬澪という女に俺は惹かれている。
その心証も、証拠がなかった。好きだという感情には、裏が取れない。俺が彼女の何を好きなのか。いつから、どうして。全部、曖昧だった。ただ彼女の横顔を見ると、胸の奥が、静かに動く。彼女が笑うと、俺も少しだけ、楽になる。それだけの根拠のない事実。
刑事の俺は、根拠のない確信を、信じてはいけないと教わってきた。心証で人を裁くな。裏を取れ、と。だから俺は、氷室への心証も、澪への心証も、同じ引き出しに、しまい込もうとしていた。確かめるまでは、なかったことにする、あの引き出しに。
だが、二つの心証は、性質が、まるで違った。氷室への心証は、確かめたかった。裏を取って、白黒つけたかった。澪への心証は──確かめたくなかった。裏を取れば、それが恋だと、認めることになる。認めれば、二年前の轍を、また踏むことになる。俺はまた、証拠のない感情を信じて、誰かを壊すかもしれない。
俺は自分の胸の中の心証から、必死で、目をそらしていた。氷室の心証に、集中するふりをして。
考えてみれば、おかしな話だった。俺は人の心を読む仕事をしている。他人が何を隠しているかは、一秒で見抜く。なのに自分の心だけは、二週間かけても、まだ認められずにいた。人間というのは、自分のことがいちばん見えない。刑事も、例外ではなかった。
夜、ベッドの上で目を閉じると、澪の顔が浮かんだ。植物園で花に触れた指先。ココアの湯気の向こうの横顔。花は嘘をつかないから、と言ったときの少し寂しそうな声。どれも、なんの証拠にもならない断片だった。だが、その断片が、俺の胸の中で、勝手に一枚の絵になっていく。止められなかった。
これが恋なら、と俺は思った。なんて厄介なものだ。裏が取れない。証明できない。相手が本当に自分を想っているかどうか、確かめる手段が、どこにもない。氷室のことなら、あと少し証拠を集めれば白黒つく。だが澪への気持ちは、いくら証拠を集めても、白黒がつかない。恋というのは、この世でいちばん、裏の取れない事件だった。
そして俺は、裏の取れないものを、信じられない男だった。二年前から、ずっと。だから俺は、この恋を、初めから、負ける勝負だと思っていた。信じられない男が、証明できない気持ちを抱えている。行き止まりだった。俺はその行き止まりの手前で、足を止めているつもりだった。
だが、身体のほうは、とっくに前へ進み始めていた。
◇
その夜、事件は、静かに動いた。
俺がリビングの隅で、氷室の動きを目で追っていたときだった。氷室が澪に近づいた。
「澪ちゃん、ちょっといい? 二人で話したくて」
いつものよく通る声。王子様の笑顔。だが俺には、その笑顔の奥の別の目が見えた。獲物を選ぶ目。
澪は断らなかった。断れなかった、というほうが正しい。この箱では、誘いを断ると、角が立つ。カメラも回っている。彼女は小さく頷いて、氷室について、テラスのほうへ歩いていった。
俺は動きを止めた。
二人がテラスへ消えると、ガラス戸の向こうに、氷室の背中と、澪の横顔が見えた。声は届かない。だが、絵は見えた。氷室が身を乗り出して、何かを熱心に話している。澪は俯いて、聞いている。
そして、次の瞬間、澪の顔が、変わった。
血の気が、引いた。目が、大きく見開かれた。あの植物園の帰りに、スマホを見たときと、同じ顔。恐怖の顔だった。
俺はその変化を一秒ごとに追った。まず、澪の肩が、わずかに跳ねた。次に組んでいた手が、ほどけて、宙で止まった。それから、唇が、薄く開いて、声にならない何かを飲み込んだ。最後に、彼女は一歩、後ずさった。氷室から、距離を取ろうとした。だがテラスは狭く、背中は、すぐに手すりに当たった。逃げ場が、なかった。
氷室はまだ、笑っていた。笑いながら、澪に何かを囁いている。囁かれるたびに、澪の顔から、色が、抜けていく。あの男は、澪を追い詰めながら、その顔を、王子様の微笑みで、覆っていた。カメラには、優しく語りかける二人に見えるだろう。だが実際にそこで起きているのは、脅迫だった。
俺の背中に、冷たい汗がにじんだ。心臓の音が、耳の奥で鳴った。取調べ室で凶悪犯と向き合っても、こんなに脈が上がることはなかった。守りたい人間が、目の前で脅されている。その光景は、事件の現場とは、まるで違う重さで、俺の胸を圧した。
俺の中で、警報が鳴った。
あの男は、澪に何を言っている。
俺は二人の口の動きを読もうとした。だがガラスは厚く、角度も悪い。読めたのは、氷室の唇が、一度だけ作った、ある言葉の形だけだった。
──たく。
弟の名前だった。
俺はその口の形を、二度、確かめた。読み間違いではなかった。氷室は澪の弟の名を知っている。名前を知っているだけではない。それを口にすることで、澪が凍りつくと、分かっていて、口にしている。人の弱みを、正確に握り、それを微笑みながら突く。詐欺と脅迫の常套手段だった。
心臓が、跳ねた。氷室は澪の弟のことを知っている。しかも、それを口にすることで、澪を脅している。恐怖で、支配しようとしている。
俺の二つの心証が、そのとき、初めて、交わった。氷室=犯罪者、という心証と、澪を守りたい、という心証。二本の線が、澪の弟という一点で、ぶつかった。
そして、その交点で、俺は初めて気づいた。この二つは、別々の事件ではなかった。氷室が追っているのも、澪が隠しているのも、同じ一つのものだった。弟。一ノ瀬拓という、まだ顔も知らない男。その名前が、犯罪と恋の両方の中心にいた。
もう目をそらしてはいられなかった。
俺はテラスへ向かって、足を踏み出した。踏み出しながら、頭のどこかで、冷たい声がした。証拠は、あるのか。裏は、取れているのか。お前は、また、心証だけで、動くのか。二年前と、同じように。
その声を、俺は初めて、振り切った。
二年前、俺は証拠のないまま人を信じて、失敗した。その痛みが、俺に、証拠がなければ動くなと教えた。以来、俺は心証だけでは、指一本、動かさなかった。感情が「助けろ」と叫んでも、証拠がなければ、耐えた。それが、二度と間違えないための俺の鎧だった。
だが今、その鎧が、軋んでいた。目の前で、澪の顔から色が抜けていく。あの顔を放っておけなかった。証拠がどうとか、心証がどうとか、そんなことは、この瞬間には、どうでもよかった。俺は刑事である前に、あの女を、放っておけない一人の人間だった。
証拠なんて、後でいい。今は、あの女のあの顔を、なんとかしなければ。
俺の足は、止まらなかった。ガラス戸に手をかけた。冷たい取っ手の感触が、手のひらに走った。二年ぶりだった。証拠より先に心が動いたのは。そしてそれは、二年前と、まったく同じ、危うい一歩でもあった。




