第十二章「本物の一夜」
ガラス戸を開けると、夜気が流れ込んだ。
「相馬さん」
俺が現れると、氷室の顔が、ほんの一瞬だけ、素に戻った。笑みの奥から、冷たい素顔が覗いた。だがそれは本当に一瞬で、次の瞬間には、もういつもの王子様に戻っていた。
「どうしたんすか、こんなとこで」
「澪に話がある。二人にしてくれ」
俺は氷室の目をまっすぐ見た。氷室も俺を見返した。二人のあいだで、言葉にならない会話が交わされた。俺はお前を見ている。氷室は見られていることを楽しんでいる。そういう会話だった。
「へえ。相馬さん、澪ちゃんのこと、本気なんすね」
氷室はそう言って、肩をすくめた。
「じゃ、お邪魔虫は消えます。──澪ちゃん、また今度、続き話そうね」
続き。その一言に、澪の肩が、また跳ねた。氷室はそれを確認するように、ゆっくりと、テラスを出ていった。去り際、俺の耳元で、こう囁いた。
「あんまり、首、突っ込まないほうがいいっすよ。刑事さん」
俺は答えなかった。ただその言葉を記憶に刻んだ。今のは、脅しだ。氷室は俺が、何かを嗅ぎ回っていることに気づいている。
◇
氷室が消えると、テラスには、俺と澪だけが残った。
澪は手すりにもたれて、俯いていた。まだ指先が、震えていた。俺は少し離れて立ち、彼女が落ち着くのを待った。急かさなかった。取調べなら、この沈黙を突く。だが、これは取調べではなかった。
「……ごめんなさい」
やがて澪が小さな声で言った。
「見苦しいとこ、見せて」
「氷室に何を言われた」
澪は首を横に振った。答えたくない、という仕草だった。俺はそれ以上、聞かなかった。代わりに、上着を脱いで、彼女の肩にかけた。夜気で、彼女の腕に鳥肌が立っていたから。ただそれだけの理由だった。
澪は驚いたように俺を見た。
「相馬さんって」
「なんだ」
「やっぱり、優しくないですね」
「知ってる」
「でも、いちばん、優しい」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。震えが、止まっていた。
◇
その夜、俺たちは、遅くまで、話した。
カメラは回っていた。だが、深夜のテラスの隅は、あの箱の中で、いちばんカメラの遠い場所だった。声さえ落とせば、二人の言葉は、レンズには届かない。俺たちは、初めて、演出の外で、話した。
澪は少しずつ、自分のことを話した。幼い頃に両親を亡くし、弟と二人で育ったこと。花屋で働きながら、弟の学費を、支えてきたこと。その弟が、大人になって、少しずつ、道を、外れていったこと。
「あの子、優しいんです。優しすぎて、断れなくて。悪い人に、いいように使われて」
そこで、澪の言葉は、また、止まった。俺はその先を聞かなかった。聞けば、彼女が崩れる気がしたから。
代わりに、俺は自分のことを話した。二年間、誰にも話さなかったことを。
不思議だった。署の同僚にも、課長にも、俺はあの件を、詳しく話したことがなかった。話せば、また、あの痛みが、蘇るから。傷口に触れないよう、俺は心の一室に鍵をかけて、その部屋ごと、無いことにしてきた。なのに今、この読めない女の前で、俺は鍵を開けていた。自分でも、なぜだか、分からなかった。ただ澪の前でだけは、嘘をつく気になれなかった。優しいふりも、平気なふりも、この女の前では、意味がなかった。だから俺は、本当のことを話した。
人を信じて、失敗したこと。証拠のない涙を、信じて、守ろうとした相手が、嘘だったこと。そのせいで、本当に守るべきだった人を、壊したこと。以来、証拠のないものを、信じられなくなったこと。話すあいだ、俺の声は、自分でも驚くほど、平坦だった。感情を込めれば、崩れる。だから俺は、事実だけを、供述するように並べた。取調べで、被疑者に、そうさせるように。今度は、俺自身が、自分の罪を供述していた。
「だから俺は、恋なんて、とっくに諦めてる。好きだって言葉に裏が取れない。証明できない。そんな不確かなもの信じられるわけがない」
澪は静かに聞いていた。それから、こう言った。
「証明できないものは、信じちゃいけないんですか」
「……そう思ってる」
「じゃあ、花は?」
「花?」
「花が咲くのって、証明できないんですよ。いつ咲くか、どんな色になるか、やってみるまで、分からない。裏なんて、取れない。──でも、みんな、水をやって、待つでしょう。咲くって、信じて」
俺は言葉を失った。
「信じるって、証明のことじゃないと思うんです。証明できるものを認めるのは、信じるって言わない。それは、ただの確認です。──証明できないものを、それでも信じるって決めること。それが、本当に信じるって、ことなんじゃないですか」
夜の光の中で、澪の目が、静かに俺を見ていた。
俺はその言葉を、胸の奥深くで、受け止めていた。二年間、凍りついていた何かが、ほんの少し、溶ける音がした。信じるとは、証明することではない。証明できないものを、それでも信じると、決めること。──その考え方は、俺の世界には、存在しなかった。存在しない、と、俺が決めていた。
このとき、俺は初めて、思った。この女を信じてみたい、と。裏を取らずに。証拠を集めずに。ただ信じてみたい、と。
俺の中には、いつも二人の男がいた。一人は刑事だ。裏を取れ、証拠を出せ、心証で動くなと、冷たく命じてくる男。もう一人は、名前のない男だ。二年間、刑事に押さえつけられて、声を殺してきた男。テラスのこの夜、その名前のない男が、久しぶりに顔を上げた。信じてみろ、と言った。この人の言葉なら、裏を取らなくても、信じられるんじゃないか、と。
怖かった。信じるということは、また、裏切られる余地を、自分に許すということだ。二年前、俺はその余地から、崩れ落ちた。もう二度と、あんな思いはしたくない。なのに、澪の隣にいると、その怖さより、信じてみたいという気持ちのほうが、わずかに勝った。ほんのわずかに。だがそのほんのわずかが、二年間の凍結を溶かし始めていた。
二年ぶりに、俺の心が、動いた。それは、偽りではない、本物の夜だった。この一夜だけは、確かに本物だった。だからこそ、この後に来る崩落は、いっそう深く俺を引きずり込むことになる。
◇
だが、物語は、いつも、いちばん温かい瞬間に牙を剥く。
テラスを離れるとき、澪の鞄が、ベンチから落ちた。中身が、少しこぼれた。俺は反射的に拾い集めた。ハンカチ。リップクリーム。そして──一枚の折りたたまれた紙。
拾い上げるとき、その紙が、半分開いた。刑事の目は、見たくなくても、一瞬で、文字を読む。
『借用書』。金額。そして、下のほうに走り書きされた、いくつかの電話番号。
その番号の一つに、俺は見覚えがあった。
心臓が、ひとつ、大きく打った。俺はもう一度、その並びを見た。見間違いであってくれと、思いながら。だが、刑事の記憶は、正確だった。課長から見せられた、あの資料。特殊詐欺の受け子のスマホから出た、闇バイトの連絡先。その番号と、同じ、並びだった。
たった数字の羅列だった。だが、俺にとっては、それは、羅列ではなかった。犯罪と、この女が、一本の線でつながった瞬間だった。さっきまで、信じてみたいと思っていた相手。裏を取らずにそばにいたいと思っていた相手。その鞄の中から、俺が二年間追ってきたものの尻尾が、覗いた。
俺の指が、止まった。
澪が慌てて、その紙を、俺の手から、取り返した。指先が、俺の手に、一瞬、触れた。冷たかった。さっきまで、上着の中で温まっていたはずの手が、氷のように冷たくなっていた。
「見た……?」
俺は答えられなかった。答えられなかったことが、答えだった。
さっきまで、溶けかけていた何かが、音を立てて、また、凍りついた。胸の奥で、二年間、飼い慣らしてきた声が、静かに囁いた。
──裏を、取るか。




