第八章「ガサ入れ回(疑心暗鬼のデザイン)」
「今日の企画は──〈ガサ入れ〉です」
朝、リビングに集められた俺たちに、ディレクターが、にやりと笑って告げた。
ガサ入れ、というのは、俺たちの世界では、家宅捜索のことだ。令状を持って、被疑者の家に一斉に踏み込み、証拠を探す。「捜す」を逆さに読んだ隠語だと言われている。刑事がいるからと、番組は、疑心暗鬼を煽る企画に、その名前をつけてきた。
ルールは、単純だった。参加者は、匿名で、一枚の紙にこう書く。「この中で、いちばん本音を隠していると思う人」。集計して、上位の人間を一人ずつ、みんなの前で問い詰める。
嫌な企画だった。人と人のあいだに疑いの種を蒔く。蒔いた種が育って、揉めれば揉めるほど、番組は盛り上がる。
俺はリビングの隅で、その様子を見ていた。榊がモニターの前で、腕を組んで立っている。参加者たちが疑い合うのを満足そうに眺めていた。彼女にとって、これは、恋の番組ではない。疑いと嫉妬を、いかに美しく撮るか。その作品なのだ。
榊は隣のディレクターに、低い声で、指示を出していた。俺の耳は、その断片を拾った。
「もっと、揉めさせて。仲良しの絵なんて、誰も観ない。人が観たいのはね、疑って、傷ついて、それでも好きになる顔。──本物の恋なんて、退屈なのよ」
本物の恋は、退屈。俺はその一言を頭の中で反芻した。
この女は、本物より、作りものを信じている。編集された感情のほうが、生の感情より、人を幸せにできると、本気で思っている。俺とは、逆だ。俺は本物がどこにもないと思って、恋を捨てた。榊は本物がどこにもないと思って、恋を作ることにした。
同じ絶望から、正反対の答えを出した人間。俺はこの女のことが、少しだけ、分かる気がした。分かるからこそ、嫌だった。
◇
集計の結果、名指しされたのは、氷室だった。
意外だった。完璧な王子様が、いちばん本音を隠している、と、複数の人間が書いた。人は、完璧すぎるものを無意識に警戒する。
だが、氷室は慌てなかった。
「そっか。俺、そう見えるんだ」
彼は少し寂しそうに笑って、こう続けた。
「実は……昔、家族のことで、いろいろあってさ。人に、本音を出すのが、怖くなった時期があったんだ。だから、無意識に壁を作ってたのかも。ごめん、みんなを不安にさせて」
会場の空気が、一瞬で、変わった。
女たちの目に同情が浮かんだ。里佳が「そんな、謝らないで」と声をかける。加賀美でさえ、少しほだされた顔をしていた。氷室はたった一言で、疑いを、共感に変えてみせた。
見事な手並みだった。俺は感心すら、しなかった。むしろ、背筋が寒くなった。
あれは、詐欺師の手だ。追い詰められたとき、逆に弱みを見せる。同情を引く。同情した人間は、二度と、その相手を疑わない。「家族のことでいろいろあった」という、確かめようのない過去を差し出して、氷室は全員の疑いを無力化した。
俺は取調べ室で、この手を何度も見てきた。優秀な詐欺師ほど、自分から弱みを差し出す。完璧な人間は、警戒される。だが、傷を持った人間は、守ってやりたくなる。人の善意を、鍵のように使って、相手の心の扉を、内側から開けさせる。氷室が今やったのは、まさにそれだった。
確かめようのない身の上話。それが、この手口の急所だ。裏の取れない話ほど、否定もできない。「家族のことでいろいろあった」と言われて、「嘘だ」と証明できる人間は、いない。だから、誰もが、信じるしかなくなる。裏を取れない話は、いちばん強い武器になる。それを、氷室は知り尽くしている。
そして、そういう「確かめようのない身の上話」で人の心をつかむのは──二年前、俺が追っていた結婚詐欺グループの常套手段だった。あの千鶴も、俺に、確かめようのない涙を差し出した。俺はそれを信じた。
俺の心証が、また一つ、確信へ近づいた。同時に、胸の奥が、鈍く痛んだ。氷室を見ていると、二年前の自分の失敗が、目の前で、もう一度、再生されているようだった。
◇
「相馬さんは?」
不意に、ディレクターが、俺に話を振った。
「相馬さんは、氷室さんのこと、どう思います? 刑事の目から見て」
会場の視線が、集まる。氷室も笑顔のまま、俺を見た。挑発するような目だった。言えるものなら、言ってみろ。証拠もないくせに。──そういう目だった。
俺は口を開きかけて、閉じた。
ここで、氷室を疑ってみせても、意味がない。証拠がない。裏が取れていない。この場で「こいつは怪しい」と言えば、それは、名指しされた腹いせの嫉妬にしか聞こえない。むしろ、俺のほうが、感じの悪い人間として、編集される。榊はそれを待っている。
「別に。何も思わない」
俺はそう言って、話を流した。
氷室の目が、ほんの少し、細くなった。俺が引いたことに気づいている。そして、俺がなぜ引いたのかも、分かっている。二人とも、同じ言語を話しているのだから。
この男は、手強い。俺は改めてそう思った。ただの被疑者じゃない。俺と同じように人を読み、俺よりずっと上手に嘘をつく。
◇
企画が終わり、参加者が、ばらけた。
俺はキッチンで、コップに水を汲んでいた。隣に茜がやってきた。
「相馬さん、さっき、なんで氷室のこと、かばったの?」
「かばってない。何も言わなかっただけだ」
「同じことじゃん。──あんた、氷室のこと、疑ってるでしょ」
俺は水を止めた。この女は、本当に目がいい。
「なんで、そう思う」
「氷室のこと見るときの相馬さんの目、他の人見るときと、違うもん。あれ、恋する目じゃない。狩人の目」
狩人の目。うまいことを言う。
「言っとくけど、あたしは、あんたの味方だよ」
茜はそう言って、ウインクした。
「あの王子、あたしも、なんか、うさんくさいと思ってたんだよね。女は、そういうの勘で分かるの」
勘。証拠にはならない。だが、この箱の中で、俺に「味方だ」と言ってくれた人間は、茜が初めてだった。それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
◇
その夜、俺はまた眠れずにリビングへ下りた。
氷室がまた、庭の隅にいた。カメラの死角。スマホを、胸のほうへ傾けて持っている。あの持ち方だ。
俺は柱の陰から、目を凝らした。今度は、声ではなく、彼の指の動きを見た。画面をロックするときの指のなぞり方。四桁の暗証番号ではない。もっと複雑な、パターンのようなもの。そして、通話を終えると、彼はアプリそのものをいったん閉じた。ふつうの人間は、通話履歴を残す。だがあの手のアプリは、履歴を残さない。使うたびに痕跡が消える。
俺はその一部始終を、コマ送りのように見ていた。氷室が画面を点ける。青白い光が、彼の顎の下を照らす。指が、なめらかに動く。迷いがない。毎日、何十回も繰り返してきた動きだ。彼は一度だけ、周囲を確かめるように顔を上げた。カメラの位置を正確に把握している。俺は柱の陰で、呼吸を止めた。彼の視線が、俺のいる方向をかすめた。そして、また、画面へ戻った。
画面が、消えた。庭が、また、暗くなった。氷室のスマホは、ポケットの中へ滑り込んだ。何も、残らなかった。通話も、番号も、言葉も。すべてが、あの暗がりの中で、消えた。
秘匿性の高い、痕跡の残らない通信手段。トクリュウの中核が、末端に指示を出すのに使う、あの手口。
二年前、俺があと一歩で、たどり着けなかったもの。
指先が、震えた。武者震いか、それとも、別の何かか。俺は柱の陰で、拳を握った。
見つけた、と思った。だが、同時にこうも思った。──見つけただけだ。裏は、まだ何一つ、取れていない。心証だけで人は裁けない。それは、二年間、俺が誰よりも固く、守ってきた掟だった。だが、その掟が、今夜ほど、もどかしく感じられたことは、なかった。




