第七章「供述(第一回セレモニー)」
「──相馬迅さん」
司会がそう読み上げた。
俺は一瞬、自分の名前だと分からなかった。
会場が、小さくどよめいた。カメラが、いっせいに俺のほうを向く。氷室が片方の眉をわずかに上げた。茜が「ほら見た!」という顔で、口をぱくぱくさせている。俺は動けなかった。膝の上のカードを、握ったまま。
一ノ瀬澪が、身元を預けたいと書いた相手。それが、俺だった。
なぜだ、と俺は思った。
俺は彼女に何もしていない。優しくもしていない。恋の演技もしていない。ただ読めない読めないと言って、彼女を戸惑わせただけだ。他の男たちは、氷室はみんな、あんなに彼女を笑わせようとしていた。喜ばせようとしていた。なのに、彼女が名を書いたのは、いちばん愛想のない、俺だった。
理解できなかった。この選択には、動機が、見当たらなかった。
人が誰かを選ぶとき、そこには必ず理由がある。得をするから。好かれたいから。目立ちたいから。番組を勝ち抜きたいから。俺は人の選択を、いつもそうやって読んできた。選択の裏には、動機がある。動機を読めば、その人間が読める。
だが、澪のこの選択には、俺の知っているどの動機も、当てはまらなかった。俺を選んでも、彼女は得をしない。むしろ、いちばん扱いにくい相手を、自分で背負い込むだけだ。
読めなかった。また、読めなかった。
そして、もう一つ、俺を落ち着かなくさせるものがあった。
名を呼ばれた瞬間、俺の胸の奥で、何かが、小さく跳ねた。喜び、と呼ぶには気恥ずかしい、だが、確かに跳ねた。氷室でなくてよかった。透でもなく、熊沢でもなく、俺だった。──そう思った自分が、俺には、いちばん理解できなかった。
俺は刑事だ。ここに捜査のために来ている。誰に選ばれようと、俺の任務には関係ない。なのに、澪の口から俺の名が出た瞬間、俺は任務のことを、一瞬、忘れた。
その一瞬を、俺はなかったことにした。いつものように。証拠のない感情は、扱わない。分類できないものは、存在しないものとして、脇へ置く。俺は二年間、そうやって生きてきた。
誰の名も、書かれなかった。彼女は涙をこらえながら、一人ずつに頭を下げて、箱を出ていった。カメラは、その涙を、余すところなく撮っていた。スタッフの一人が、モニターの前で、小さく「いい画」と呟くのが、俺の耳に届いた。
一人の女の子が泣いて去っていく。それを、いい画、と呼ぶ場所。ここは、そういう場所だった。俺はその言葉に、胸の奥が冷えるのを感じた。
送検、という言葉が、急に重たく感じられた。
俺たちの世界で、送検というのは、被疑者の身柄と書類を検察へ送ることだ。そこから先は、起訴されるか、されないか。人生が、大きく変わる分かれ道。それを、この番組は、脱落の名前に使っている。軽々しく。誰かの人生が変わる言葉を、演出のために。
去っていく結衣の背中を俺は見送った。彼女はこの箱で、たった二日しか過ごしていない。それでも、去り際の顔は、本物だった。作りものだらけのこの場所で、あの涙だけは、演技ではなかった。誰の名も書かれなかった、という事実は、演技ではごまかせない。この番組は、本物の傷を、演出の材料にして回っている。
俺はこの箱が、ますます嫌いになった。同時に思った。誰の名も書かれない、という送検の残酷さを、いちばん近くで味わうのは、次は、誰なんだろう、と。
◇
セレモニーの後、俺はテラスに出た。
夜風──ではなく、書き割りの向こうの駐車場から流れてくる、排気の混じった空気だった。それでも、あの照明だらけのリビングよりは、息がしやすかった。
「相馬さん」
声がした。振り返ると、澪が立っていた。カーディガンを羽織って、両手にマグカップを二つ持っている。片方を俺に差し出した。ココアの甘い匂いがした。
「……どうも」
俺は受け取った。温かかった。
「さっきは、驚きましたか」
「驚いた。なんで、俺なんだ」
澪は少し笑って、手すりに肘をついた。
「相馬さんだけ、わたしに、嘘をつかないから」
「嘘?」
「みんな、優しいんです。でも、その優しさは、カメラのための優しさで。わたしを喜ばせようとする、その顔の奥で、みんな、別のことを考えてる。──相馬さんだけ、何も考えてないでしょう。喜ばせようとも、してくれない」
「それは、悪口じゃないのか」
「褒めてます」
澪はまっすぐに言った。
「愛想のない人って、安心するんです。裏を、探らなくていいから」
裏を探らなくていい。
その言葉が、俺の胸を、深いところで打った。俺が二年間、誰にもできなかったこと。裏を探らずに、そばにいること。それを、この女は、俺に対して、いとも簡単にやってのけている。俺のことを探ろうとしない。読もうとしない。ただそこにいる。
俺はそういう存在の前で、どう振る舞えばいいのか、分からなかった。マグカップの熱を、手のひらで、意味もなく確かめていた。ココアの表面に、うっすらと膜が張っている。それを俺はじっと見ていた。目のやり場が、他になかった。
隣で、澪が静かにココアを飲んでいる。彼女の吐く息が、夜の空気の中で、白く、小さくほどけた。書き割りの向こうから、遠い車の音が、時おり流れてくる。それ以外は、静かだった。この箱に来て初めて、俺は隣に人がいることをうるさく感じなかった。
奇妙な時間だった。俺と、いちばん読めない女とが、何も探り合わずにただ並んで立っている。取引もない。腹の探り合いもない。ただ温かいものを飲んでいるだけ。こんな時間を、俺は二年間、一度も持たなかった。
「あんたは」
俺は言った。
「探られたくないことが、あるのか」
澪の横顔が、ほんの少し、こわばった。夜の光の中でも、俺には分かった。ベースラインのわずかなズレ。だが彼女は、すぐに、いつもの顔に戻した。
「……ありますよ。誰にだって」
それだけ言って、彼女はマグカップに口をつけた。俺はそれ以上、突かなかった。突けたはずだった。取調べなら、ここで畳みかける。相手の弱ったところへ、間髪入れず、次の問いを重ねる。それが、供述を引き出す定石だ。だが、しなかった。手が、口が、動かなかった。
なぜかこの女の裏だけは、暴きたくなかった。暴いてしまえば、この裏を探らなくていい時間が、終わってしまう気がした。
◇
寝室へ戻る途中、廊下で、加賀美に呼び止められた。
「相馬さぁん」
彼女は壁にもたれて、俺を待っていたようだった。にやにやと、意味ありげに笑っている。
「澪ちゃんと、いい感じですねぇ」
「別に」
「ふぅん。──でもさ」
加賀美は声を落とした。にやにやが、すっと消えた。代わりに現れたのは、この計算高い女の素の顔だった。
「あの子さ。ここに来てる理由、恋じゃないよ」
俺は足を止めた。
「どういう意味だ」
「あたし、ああいう子、分かるの。恋を探しに来た顔じゃない。──あの子、何かを探しに来てる。もしくは、誰かをね」
加賀美はそれだけ言って、可愛い声を作り直し、「おやすみなさぁい」と、寝室へ消えていった。
廊下に、俺は一人、残された。壁の非常灯が、緑の光を床に長く伸ばしている。カメラの赤い光が、暗がりの中で、まだこちらを見ていた。
誰かを探しに来ている。
その言葉が、澪の右手首のあの赤い痕と、頭の中でつながった。弟が、と彼女は言った。手のかかる子で、と。
胸の奥で、刑事の血が、また、静かに騒ぎ始めた。だが今度の騒ぎは、氷室のときとは、少し違う手触りをしていた。もっと、嫌な手触り。彼女の裏を、知りたくないのに知ってしまいそうな──そんな、予感だった。




