第六章「番組を、事件にする」
決めたのは、二日目の朝だった。
俺はこの箱を事件にする。
そう決めた瞬間、少しだけ、呼吸が楽になった。恋愛番組の参加者として、ここにいると思うから、息が詰まる。だが、これを捜査だと思えば話は別だ。俺は恋を演じに来たんじゃない。氷室という男の裏を取りに来た。参加者たちは、被疑者であり、参考人だ。この合宿所は、閉ざされた現場。ならば、俺のやることは、いつもと同じでいい。観察し、記録し、裏を取る。
これは、俺なりの逃げ方だった。恋の演技という、俺にできないことから逃げるために、俺は自分にできることの中へ逃げ込んだ。捜査の中へ。
刑事という仕事は、都合がいい。世界のすべてを、事件として見ていれば、感情の入り込む隙がない。人を好きになる必要も、信じる必要もない。ただ裏を取ればいい。俺はこの二年間、そうやって、心を守ってきた。守ってきた、というより、心を使わずにきた。使えば、また、間違える。間違えれば、また、誰かが壊れる。
だから俺は、この箱でも、同じことをするつもりだった。全員を被疑者として扱う。誰のことも、好きにならない。
だが、逃げ込んだ先で、俺は逃げられないものと出会うことになる。そのことを、このときの俺は、まだ知らない。捜査という鎧の内側にたった一つ、鎧の効かない場所があることを。
◇
朝食の席は、この箱で、いちばん本音が漏れる場所だった。
人は、寝起きが、いちばん演技が下手になる。まだ仮面をかぶりきる前の顔が、少しだけ覗く。俺はコーヒーを飲むふりをしながら、九人を観察していた。
氷室は朝から完璧だった。女たちにコーヒーを注いで回り、里佳と結衣を、さりげなく笑わせている。隙がない。隙がなさすぎる。あんなふうに、朝から一秒も気を抜かない人間は、何かを必死に隠している。
「相馬さん、なに見てんすか」
熊沢が山盛りの卵を口に運びながら、聞いてきた。
「人を見てる」
「刑事って、いっつもそうなんすか」
「まあな」
「じゃあ、俺のことも見えるんすか。俺、何隠してます?」
俺は熊沢を見た。三秒で終わった。
「何も隠してない」
「マジすか! やった!」
熊沢はなぜか大喜びした。何も隠していないと言われて喜ぶ人間を俺は初めて見た。この男の前だと、俺の警戒心は、少しだけ緩んだ。
その様子を、テーブルの端から、茜が見ていた。
「相馬さんってさ」
彼女は頬杖をついて言った。
「みんなのこと見抜くくせに、一人だけ、ずっと見てるよね」
俺はコーヒーカップを止めた。
「誰のことだ」
「とぼけちゃって。澪ちゃんのことじゃん」
隣で、里佳と結衣が、きゃっと笑った。俺は表情を動かさなかった。動かさなかったつもりだった。だが、茜はにやりと笑った。
「あ、今、目が泳いだ」
刑事が、素人に、目の動きを読まれた。俺は無言でコーヒーを飲んだ。安いインスタントの粉っぽい苦さが、舌に残った。
茜はまだにやにやしていた。
「あたしさ、こういうの得意なんだよね。誰が誰を好きか、いちばん最初に分かるの。番組始まって二日目で当てたのあたしが最初だと思うよ」
「何を当てたんだ」
「相馬さんが、自分で認めたくないやつ」
俺は返す言葉を持たなかった。この派手な女は、俺が思っていたより、ずっと目がいい。
◇
その日の企画は、参加者どうしが自由に話す「密着」だった。俺はその時間を使って、氷室に近づいた。
「氷室は、仕事、何してるんだ」
「言ったじゃないすか。いろいろ、って」
「いろいろ、で食えるのか」
氷室は笑った。よく通る、王子様の声だった。
「相馬さんこそ。刑事さんって、こんなとこ来てて、平気なんすか。事件とか、あるでしょ」
「今は、暇でな」
「へえ」
氷室の目が、一瞬、細くなった。値踏みする目。俺が本当に暇なのか。それとも、別の目的で来ているのか。この男は、それを探っている。俺と、同じことをしている。
俺たちは、互いに笑いながら、互いの裏を探り合っていた。二人とも、それに気づいていた。気づいていて、笑っていた。この箱の中で、俺と氷室だけが、同じ言語を話していた。人を読む言語だ。
氷室の目の動きは、素人のそれではなかった。俺が視線を送ると、そのわずか手前で、彼はもう俺の視線に気づいている。そらすタイミングも、留めるタイミングも、計算されている。訓練された人間の目だ。詐欺の世界には、人の心を読む訓練を積んだ連中がいる。相手が何を欲しがっているかを、一瞬で見抜き、そこへ、ちょうどいい嘘を差し出す。氷室の目は、その世界の目だった。
俺の心証は、少しずつ、確信に近づいていた。この男は、ただの参加者ではない。だが、心証は、証拠ではない。裏が、まだ何一つ取れていなかった。
「相馬さん」
別れ際、氷室が声を落として言った。
「あんたと俺、なんか、似てる気がするんすよね」
背筋が、冷えた。
「似てないな」
「そうすか。──俺には、似て見えるけど」
氷室はいつもの顔に戻って、女たちのほうへ去っていった。
似ている。この男は、そう言った。俺はそれを否定した。だが、否定しながら、俺の中の何かが、その言葉に頷いていた。人を道具として読む男と、人を証拠として読む男。俺たちは、確かに、同じ目をしていたのかもしれない。
◇
夜、最初の「送検」──脱落セレモニーが、告知された。
参加者は、一枚のカードに、一人だけ名前を書く。この人になら身元を預けられる、と思う相手を。誰の名も書かれなかった者が、この箱から去る。
俺はカードを前にペンを持て余していた。誰の名も書く気は、なかった。俺は恋を探しに来たんじゃない。だが、白紙で出せば、目立つ。目立てば、氷室に、俺の狙いを気取られる。捜査のためには、カモフラージュがいる。俺は当たり障りのない名前を──たとえば熊沢の名を書いて、出すつもりだった。
セレモニーの会場は、いつものリビングを暗く落として、中央に一本のスタンドライトだけを立てた、芝居がかった空間だった。司会が厳かな声で言う。
「それでは──皆さんが書いた、身元保証カードを読み上げます」
一枚ずつ、名前が読まれていく。氷室は里佳から書かれていた。加賀美は透から。熊沢は──なぜか三人から書かれて、本人がいちばん驚いていた。
俺は熊沢の名を書いたカードを膝の上で握っていた。カモフラージュの一枚。当たり障りのない、意味のない名前。捜査のための偽装工作。
そう、割り切っていたはずだった。
そして、司会が澪のカードを手に取った。
スタンドライトの光が、彼女の横顔を片側だけ照らしている。澪は俯いていた。膝の上で、両手をきつく組んでいる。花屋の傷だらけの指先が、白くなるほど、組み合わされていた。
「一ノ瀬澪さんが、身元を預けたい、と書いた相手は──」
俺は自分でも意外なほど、その一瞬、息を止めていた。
おかしなことだった。彼女が誰の名を書こうと、俺の捜査には、何の関係もない。氷室と書くなら、それはそれで、二人の関係を洗う手がかりになる。熊沢でも、透でも、同じことだ。刑事として見れば、これはただのデータの一つにすぎない。
なのに、俺の心臓は、静かに速くなっていた。カメラのことも、氷室のことも、捜査のことも、頭から消えていた。ただ彼女が誰の名を書いたのか。それだけを待っていた。
握ったカードの角が、俺の手のひらに食い込んでいた。
──なぜ、こんなに知りたいんだ。
俺は自分に問うた。答えは、出なかった。あるいは、出ていたのに、俺が見ないふりをしていた。二年前から俺がやってきた、いちばん得意なこと。証拠のない感情を、なかったことにすること。
司会がカードを開いた。




